生成AIの作品に「魂」は込められるか?
ネット某所で面白い論争が起こっていたので、その話を書いてみる。
論題は「生成AIで作った作品には魂は込められるのか?」というもの。
私と同様に魂ってなんやねん、という点に引っかかる人も多いと思うが、ここはとりあえずニュアンスで理解しておいてください。
先に私の見解を書いておくと、「それは生成AIの使いこなし方による」である。言い換えると、生成AIでも十分に魂のこもった作品は作れると私は思っている。というか、これは思う・思わないという問題ではなく、普通に考えて自明だと思うのだけど。使った技法とその作品の評価は別物であるという、当たり前の話です。
この論争で面白いなと思ったのは、「生成AIなんて、人間が書いた絵の猿真似をしているだけなんだから、作品に魂なんて込められるわけない」という、いかにもな反論がやはりあり、そして、それを主張している人のなかにCGをやっているらしき人がいるということ。これは結構な衝撃であった。CG=コンピュータグラフィックスが対抗馬なんかーい。CGも昔同じような非難を浴びていたのですが。
彼らの主張を要約すると「人がひとつひとつオブジェクトをモデリングし、色やテクスチャを指定をし、光源を設定し、モーションを設定していくという、CGで作った作品には作者の魂がこもりますが、ただ言葉(プロンプト)で指定しただけで機械が絵を書いてしまう生成AIに魂がこもるわけがありません」というような感じ。きたきたきた、ああまたかという既視感。50年も生きてると、こういうのは何度も見てきたんです。
演繹的にロジックを積み上げて反証しても良いが、たぶんこういう主張に賛同してしまう人には響かないだろう。徐々に事実・実績が積み上がって帰納的に納得感が増えないと理解できないタイプの人はいるものだ。
というわけで、こういった主張が歴史上何度も繰り返されてきたという事例を列挙しておくことで反証に変えたい。
事例1. 印刷 vs. 手書き (11世紀ごろ)
「活版印刷で作られた本には魂がこもってない。やっぱり写本でないとね!」
事例2. 写真 vs. 絵画 (19世紀初頭)
「写真を撮られると、魂が盗られる!」
事例3. ワープロ vs. 手書き文字 (1980年代ごろ)
「ワープロで書いた手紙には気持ちがこもってない。やっぱり手書きだ」
「ワープロで書いた原稿には味がない。やはり原稿用紙に手書きでしょ」
事例4. 電子楽器・自動演奏音楽 vs. 生演奏音楽 (1960年代〜1990年ごろ)
「電子音は機械の音で無味乾燥。やっぱり生楽器でなければ感動はない」
「Kraftwerk? 奇をてらっているだけだろ」
「YMO?一過性の流行り。子供だましでしょ。大人が聴くものではないよ」
事例5. CG vs 手書き、フィルム撮影 (1990年ごろ)
「CGでは芸術性が出せない。やはり手書きでないと」
「CGで映画まるごと撮るなんてありえない」
「パソコンでお絵かき?意味がわからない」
事例6. CD vs. LPレコード (1980年代中期ごろ)
「CDの音はデジタル臭くて聴いてられない」
「LPの方が音が良い」
事例7. Eメール vs. 手書きの手紙 (1980年代後期ごろ)
「ちゃんとした連絡にはEメールでは失礼だ。手紙を書きなさい」
事例8. Eメール vs. 電話 (1980年代後期ごろ)
「業務連絡をEメールで済ますなんて、手抜きだ。ちゃんと電話しなさい」
(Eメール送ったら「送ったよ」という電話確認せよ、というバリエーションもあった。)
「体調不良で休むときは電話すること。Eメールはだめ」
事例9. デジカメ vs. フィルムカメラ (1990年代ごろ)
「デジカメって、おもちゃとしては面白いけどね。ちゃんと撮るならフィルムでしょ」
事例10. LINE、チャット系 vs. Eメール/電話 (2011年〜)
「業務連絡をLINEで送るなんて、けしからん!ちゃんとメールしなさい」
「LINEで告白とか気持ち悪い。ちゃんと電話しなよ」
・・・だんだん疲れてきたので、この辺でやめておく。まだまだありそうだが。みなさんも考えてみてください。
こうやって振り返ってみると、常識というものがいかに当てにならないかがよく分かると思う。最近では10年も待たずに常識が変わってしまう勢いだ。人間は自分が慣れ親しんだものが正当であり、新しいものを異端と捉える誤謬を繰り返している。
また、こういう誤謬はよく「老害」と言われるが、私の経験では若い人でも同じような反応をする人は結構多いと思う。もともと保守的な傾向を持つ人は要注意である。論理的思考や歴史を学ばないと、若くして精神的老人になりますよー。
もう一点思ったことは、何かを判断するとき、私達はついつい「常識で判断すると〜」という発想を使いたくなるが、それがいかに危険かは認識しておく必要がある、という点。特に新しいテクノロジーや事象に対しては、一旦常識を排除してゼロベースで分析していかないと、判断を間違ってしまう。「常識」もデータの一つとして捉える、ぐらいがちょうど良い。
最後に一つ予測を。近々、生成AI漫画家とか、生成AI 映画作家とかが登場し、歴史的傑作を生み出すに違いない。いや、もうすでに登場しているかも。知っていたら教えてください。
今回言いたかったことは以上です。ありがとうございました。
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