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09.明智神社と、光秀近江出身説

なかなかnoteに書き込む余裕がなく、久しぶりになってしまいました。

〇公式 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会のwebサイト開設
所JAPANにて全国放送で 磯田先生に「黒歴史」と!
 その他、イベント・メディア・活動報告
〇地元の伝承に特化したマニアックな冊子 発売
 #明智十兵衛光秀 謎多きルーツの迫る 多賀出身説!』

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調べていくと、越前・明智神社と近江・佐目には共通点があり、光秀の行動が詳らかになるきっかけが見つかりそうかもと思いつつ、SNSでは情報が流れてじっくり考えられないので こちらでボチボチに書き残したいと思います。歴史の研究者ではないので、勘違い、思い過ごし、妄想も多々入ると思いますがお許し下さいませ。
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・今回は、越前東大味 明智神社のお話と、謀反人光秀ゆかりの人々が、結構ひどい目にあってきた話
・明智光秀近江出身説の多賀・佐目が、思い他、戦国に巻き込まれ信長の天下取りに関係していた事
・本願寺、一向一揆、近江守護六角氏、多賀大社など、今まで光秀との関係が深堀りされてこなかった件
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などを、考えて行きたいと思います。

1.勇気をくれた 越前東大味 明智神社の存在

先日、私は行けなかったのですが、佐目十兵衛会で越前福井の光秀ゆかりの地を訪問し、明智神社へもお詣りしてきました。

明智光秀近江出身説が浮上した頃、「謀反人をPRするなんて協力できない」と言われ、現代でもそんな事があるのか!と驚くと共に、普通は大河ドラマの主人公ゆかりの地となれば、観光的には「バンザイ!」ものだと思っていたのに、なんと根が深い、400年以上たった現代でも、そこまで言わせる「光秀の過去」にいったい何があったのかと困り果てました。

元々、明智光秀に関して一般以下のサラッとした知識しか持ち合わせていなかったので、どんな人柄だったのかと、軍記物などの創作かもというネタは極力排除して調べ始めた中で、出会ったのが、 
越前福井・東大味のたった3家族の農民により、守り伝えられてきた
「明智神社」の伝承でした。

その伝承とは、信長軍の柴田勝家が東大味をはじめとする越前の一向一揆を制圧する為に軍を向かわせると知った明智光秀が、柴田勝家に 
「世話になったこの地区に安堵状を出すように」
と、頼んでくれたおかげで、自分たちの命がつながったと感謝し、木像をつくり「あけっつぁま」と密かに拝み、明治になってから小さな祠をつくり「明智神社」として守ってきたというものです。

その間に、やはり「謀反人」をお祀りしている事で、迫害や差別を受けてこられたそうです。たぶん、そんなに昔ではない時期にも。

実は、徳川の世になってからの光秀の評価は、悪くなかったようです。
特に「仏敵信長」と言い、石山合戦で戦った本願寺門徒が多い近江では、江戸時代の文書に、光秀の父親は「親鸞聖人の生まれ変わりだ」とまで書いてあるものもあり、目から鱗が落ちました。

では、いつ頃から そんなにひどく言われたのか。
 徳川から政権を奪った明治政府の軍国主義から昭和の世界大戦が終わるまで、海外まで戦いに行った豊臣秀吉をフィチャーする過程で、謀反人・悪人として描かれた文書がクローズアップされたようです。
 戦争が終わっても、軍国主義の影響を受けた人が描いた小説やドラマにより、光秀により近いゆかりの子孫や関係者が、いじめられたり差別されたりした事も知りました。かなり、ひどかったそうです。佐目の村も、なんだかわかないけど、怪しい村という扱いを受けていた形跡が残っていました。

そんな中で、東大味の方々は、まもり続けてこられたなんて すごいなと勇気を頂きました。知らなければ、光秀と佐目・多賀の関係を公にする事が良いのか悪いのか躊躇していたかもしれません。

考えてみたら、守護大名から国を奪った人や、そちらについた人が戦国大名と言われ、江戸時代まで続いたわけで、ほぼ みんな謀反人じゃないかと気が付き、もう、隠さなくてもいいんじゃない、大河ドラマで主人公を悪く書くなんて事はないだろうから、この機会を逃したら、本当に歴史から消えてしまい、佐目の村や多賀のゆかりの氏族の歴史も「空白」のままだと、思い切って詳らかにする事にしたのでした。

そのあたりは、既に記事に書いていますので、ご覧下さい。

2.近江・佐目と美濃・明智 越前⇔近江⇔伊勢

光秀か育ったという(伝承ですけど) 多賀町佐目という場所の意味

今でこそ、佐目は山奥ですが、戦国時代は近江・美濃・伊勢を結ぶ重要な街道でした。戦国どころか、673年、壬申の乱の後、天武天皇の命により作られた「3つの関所・三関」を見てもわかるように、日本を治めるのに一番距離が短く、畿内と東国の境の守りの要、びわ湖と鈴鹿山脈が自然の要塞として利用できるラインに、多賀・佐目は存在します。多賀大社がこの地に鎮座されているのも、戦略を考えれば、理解できます。


近江・美濃・伊勢の境目 戦国山の道

さて、時代は下り、  
1390年 佐目の十二相神社が、美濃・南濃町志津に分社されました。
1470年 美濃の十二相神社を 近江六角家臣の小川十平が再興

 なぜ、近江の武将が美濃の神社を?と疑問に思いますが、この頃、応仁の乱がはじまり、同じ氏族同志(佐々木六角vs.佐々木京極、多賀氏vs.多賀氏など)東西に分かれて戦う中で、美濃の戦いにも、近江から応援に行っており、
光秀の先祖の明智氏と『淡海温故禄』に明智氏が頼ったとある近江守護六角高頼との接点が生まれます。美濃の十二相神社は、近江六角陣営の出城のように使われていたのではと言われています。

1472年 
 そんな中、豊郷石畑の白鳥弘誓寺(後の法蔵寺)が佐目(左女谷)道場として移転してきます。白鳥弘誓寺は、大谷本願寺が破却され、そのご本尊をお守りした「番方」だったようで、本願寺蓮如上人の求めにより、美濃・伊勢の教化にあたる使命があったそうです。蓮如上人が、京都から近江、そして越前に移られた頃です。100年後の石山本願寺と織田信長との戦いの時も、近江中郡(なかごおり)をまとめる寺院として、本願寺から佐目道場に文が届くというポジションでした。

 又、当時多賀は、京極氏の系列である多賀氏が治めていましたが、佐目は惣村という自治組織で、六角高頼は戦略的に関係のある白鳥弘誓寺(以後法蔵寺)を配置したのではないでしょうか。

つまり、佐目という場所は、本願寺にとっても、越前~美濃・伊勢へのハブ的な役目を担う場所であり、六角高頼にとっては京極氏を押さえ、美濃・伊勢への足掛かりとなる場所だったと言えます。

 その後、明智十左衛門が美濃守護であった土岐成頼に背き、近江守護の六角高頼を頼り、佐目に住み、2~3代後の息子の十兵衛光秀は出来が良かったので、越前朝倉に行く事を望んだというのが『淡海温故禄』と、そのベースとなった『江侍聞伝録』に書かれています。
( 『淡海温故禄』の原文と現代語訳は、明智十兵衛光秀 謎多きルーツの迫る 多賀出身説!』 に掲載しています。)

 六角氏は、利用するという側面もあったとは思いますが、本願寺門徒とは仲良くやっており、越前朝倉氏も、本願寺・朝廷共に縁がある氏族で、美濃から逃れてきた明智氏の息子が、法蔵寺佐目道場や多賀大社が近くにあれば、越前朝倉への足掛かりもでき、その後の光秀の行動も理解がすすむように思いました。

 光秀近江出身説は、まだ、本当か嘘か証明できる「一次資料」は出てきていませんが、私は専門家ではないので、「十兵衛光秀」が佐目で育っていたとしたらという視点で、追いかけていきたいと思います。

つづく

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