伊川津貝塚 有髯土偶 4:海岸に寄り付いたモノ
10月の中旬、渥美半島から北に延びる伊川津貝塚と本刈谷貝塚を結ぶレイラインが西尾市に上陸する愛知県西尾市吉良町に向かい、そこから北に辿ることにしました。吉良町にやって来ると、山鼻(やまはな)の海岸線から海に突きだしている森が見えました。レイラインはその突き出した森の海上140mあたりを通過して、山鼻に上陸しています。その森には蛭子社(えびすしゃ)が祀られているので、蛭子社に向かうことにしました
吉良町の号線表記の無い海岸道路を南下する途中、若宮西に蛭子社を見通せるプレーンで幅の広い堤防があったので、そこから蛭子社の杜を撮影。
堤防の海側には砂浜は無く、大きな「目」形のコンクリートブロックの隙間に石を詰めた土手になっていた。
堤防上に斜めに設けられた梯子状のものは網を干すための柵のようだ。
若宮西からさらに杜に向かうと、上記写真杜の向こう側(東側)には広い駐車場があった。
後になって駐車場が広いのはそこに海水浴場があるからであることが判った。
駐車場の西の端が蛭子社の社地になっており、その社地内に鰻の寝床のように丘陵が延びていた。
駐車場に愛車を駐めて、海岸沿いに設けられている並木を抜けて海岸線に出ると、堤防が蛭子社の丘を取り巻くように延びていた。
堤防上を蛭子社の丘の南側に回ると、南側に社頭の石段があった。
上記写真の社頭の右側の堤防が階段状になっているのは、ここが海水浴場になっているからだ。
石段上の石鳥居は南東を向いている。
石段を上って鳥居の前に立つと、伊勢鳥居の奥には細かな砂利が敷きつめられ、鳥居の奥、数メートル先からはコンクリートで叩かれた表参道が暗い松林の中、奥に延びていた
鳥居前から石段下を振り返ると三河湾の向こう側に渥美半島の山並みが眺望できた。
鳥居をくぐって参道に乗ると、コンクリートでたたかれた山道は案外短く終了していた。
左手には朱地に「えびす社」と白抜きした幟が立ち並んでいた。
幟には3枚の樹木の葉を三方に広げた神紋が付いているのだが、何の葉なのか特定できない。
似た紋には三柏紋(みつかしわもん)があるのだが、柏の葉には見えないのだ。
他に一般的な「家内安全」と、この場所らしく、「海上安全」のご利益の言葉が白抜きされている。
しかし、ここ宮崎宮前の海岸には日本武尊の義兄に当たる尾張国造の建稲種命(タケイナダネ)の遺骸が流れ着き、村人達により葬られたとする伝承が存在する。
社名の「えびす(蛭子)」とはこの海岸に流れ着いた建稲種命の遺骸のことだろうか。
●建稲種命を東征に伴なった男
個人的には日本武尊東征の副将軍であり、幡頭(はたがしら)を努め、海人族を代表する建稲種命が単独で舟に乗っていて水死したというあり得ないエピソードを知った時、直ちに怪しいと感じた。
なぜなら、騙し討ちが得意で残虐な性質の日本武尊が関わっているからだ。
『古事記』には双子の兄である大碓命を殺害した「小碓命(=日本武尊)は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦(むしろ)に包み投げ捨て殺害」というエピソードがある。
双子の兄弟でこうなのだから、義理の兄弟であることなど、何の抑止力にもなりはしなかった可能性がある。
もう一つ、『古事記』には倭建命(=日本武尊)は親友になっておいて、その親友を騙し討ちしている前科が記されている。
同様に日本武尊は地方豪族である尾張国造を戦略的に利用しただけではないかとみられるふしがある。
建稲種命が死亡した時、日本武尊は同じ西尾市にいたにもかかわらず、宮崎宮前の海岸に向かうことはなく、その後、建稲種命の本貫である熱田を経由して、荒ぶる神を倒すために尾張製鉄族の勢力下だったとみられる伊吹山に向かった。
そこに向かうのに同族の尾張国造である建稲種を連れて行くわけにはいかなかったろう。
この時に日本武尊が東征には持って行った草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持って行かなかったのも同じ理由だったとみられる。
建稲種命が同族を優先して寝返る可能性だってあるからだ。
このことに関して、草薙剣を持って行かなかったのは伊吹山の神を侮ったからだとか、宮簀媛(ミヤズヒメ)の元に戻るつもりだったからだとかいう推測や伝承はあるが、『日本書紀』ベースで考えると、私は草薙剣がもともと伊吹山の神〈大蛇(オロチ)=八岐大蛇〉の持ち物だったので、持っていくわけにはいかなかったのだとみている。
そもそも、日本武尊は東征でも草薙剣を現在の桑名市多度町(尾津前or尾津浜)に置き忘れた前科があるのだが、性懲りもなく、伊吹山に向う前の日本武尊は草薙剣に対してぞんざいな扱いをしている。
曰く、夜中に厠(かわや)に行った日本武尊は厠の脇にあった桑の木に草薙剣を掛け忘れているのだ。
日本武尊が気づいてその桑の木から日本武尊が草薙剣を取ろうとすると、桑の木は強い光を放ったという。
これは草薙剣がぞんざいな扱いに対して日本武尊に警告を放ったと考えます。
結局、日本武尊は伊吹山の神の怒りに触れ、衰弱して伊吹山を降りたのだが、衰弱しているのに宮簀媛の元に戻ることはなく、大和に向かおうとします。
このことからも、尾張氏に頼れない状況にあったと考えられます。
さて、日本武尊の悪行はともかく、蛭子社に建稲種命は祀られているのだろうか。
表参道の途中、右手に錨とスクリューが2点奉納されていた。
それぞれ異なった船主が奉納したもののようだ。
これらが鉄製品であることは偶然ではないと思われる。
上記の奉納品の前を過ぎると、表参道から分岐して丘を下っていく脇参道があり、その分岐点を過ぎると拝殿前の広い場所に至った。
広場では右手にも幟が並んでいた。
広場の奥の拝殿は瓦葺入母屋造棟入で軒下に白壁を持つ建物だった。
板壁部分は簓子張り(ささらごばり)で戸はガラス格子になっている。
拝殿前で参拝したが、祭神に関しては今川義元の提言により、西宮大明神が祀られたという。
現在の西宮大明神の総本社は兵庫県西宮市の西宮神社(にしのみやじんじゃ)であり、その祭神は西宮大神(蛭子命)となっている。
拝殿内を見ると、白壁の拝殿奥にガラス格子戸が閉じられており、戸の前には美しい注連縄が掛かっていた。
拝殿の脇に回ってみると、瓦葺切妻造平入で簓子張りの板塀と軒下に白壁を持つ本殿が拝殿と1体になっていた。
参道を戻って脇参道を降り始めると、脇参道の土手に海岸の岩場に繁殖することの多いツワブキがツヤツヤの葉を広げていた。
ツワブキはキク科の植物だが、根茎を乾燥したものが生薬「橐吾(タクゴ)」となるため『日本薬学会』に情報がある。
情報が専門的過ぎるのと長いので、上記の記事から抜き出してみた。
蛭子社の社頭から見下ろす東側の恵比寿海水浴場の海岸は10月中旬ということで、人っ子一人いませんでした。
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尾張国造(尾張氏)が海人族であることは『日本書紀』応神天皇3年11月条、応神天皇5年8月条によって阿曇氏(あづみし)は海人(かいじん)の宰(つかさ)となり、海部(あまべ)の起源であるとされましたが、尾張氏は海部の伴造(とものみやつこ:ヤマト王権に奉仕する一族)となった氏族の一つである関係にあります。
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