見出し画像

今朝平遺跡 縄文のビーナス 69:私の神隠し

豊田市で今朝平遺跡(けさだいらいせき)のある足助町(あすけちょう)を通っている旧街道は愛知県名古屋市と長野県飯田市(リニア中央新幹線駅設置市)を結ぶ飯田街道(国道153号線)です。江戸時代から塩やタバコの葉などを馬で運搬するために利用された街道ですが、この街道の途中には私の母親の生家があり、幼児期から毎年夏休みにはそこに通うのに使用した道でもあります。飯田街道沿いにあるものには都会では見られないものも多く、興味を惹かれてきましたが、モーターサイクルを手に入れて以降はトラックやバスや自家用車の窓から眺めていただけのものを6×4.5版カメラ+カラーリバーサルフィルムを使用して自分の好みで撮影できるようになり、興味を惹かれて撮影したカットが多く保存してあります。ただ、個人的にネットで利用しやすいデジタルカメラを使用するようになったのは毎年、息子とモーターサイクルで夏休みのタンデム・ツーリングするようになった2004年以降のことなので、それ以降に豊田市の山岳部以東を通る飯田街道と、その周辺を撮影した光景を紹介していくことにします。本来は全ヶ所新たに訪問したいのですが、今年は真冬になっても、熊が冬眠しないでウロつく情報が増えています。もうこれまでの地球のように、よく事情の分かっていない山奥深くに入っていく時代は終わってしまったような気がしてきていることと、旧跡の状況は時間とともに大きな変化をして来ていますので、旧い写真でもそれなりに価値があると思います。なので、年号を示しながら紹介していこうと思います。

愛知県豊田市越戸町 飯田街道(国道153号線) 灰寶神社
豊田市越戸町 飯田街道(国道153号線) 灰寶神社
越戸町 飯田街道(国道153号線) 灰寶神社

2012年8月、母親の実家に向かうために、飯田街道(国道153号線)を辿り、やっと豊田市の市街地を抜けられる矢作川(やはぎがわ)沿いの道に入ると、通りかかるたびに大きな二宮金次郎像が目を惹く神社の前を通りかかる。

愛知県豊田市越戸町 灰寶神社

その、人間より一回り大きいのではないかと感じさせる石像は、ほかで見たことのない立派な像で、灰寶神社(はいほじんじゃ)という珍しい社名の神社の境内に設置されていた。
「灰寶(=宝)」は「ハホ」、「ハイミ」とも読まれたという。
私の少年期には豊田市の神社や学校などには、まだ二宮金次郎像が残っている場所があった。
ちなみにGoogleMapをチェックすると、現在もこの像は残っている。

灰寶神社の南東を向いた社頭は矢作川を向いており、飯田街道の歩道に面していた。

豊田市越戸町 灰寶神社 社頭

社頭には車が入ってこれないように鉄杭に鎖が張られていたが、現在は鉄杭の本数を増やして鎖は取り払われ、参拝者が通り抜けられるようになっている。
石造の大鳥居は歩道から10mほど奥に設置され、鳥居の奥30mあたりに拝殿らしき建物が見えている。
社叢は高木が多く、社殿を取り囲んでいる。

車止めを脇から抜けて鳥居をくぐり、拝殿に向かった。

越戸町 灰寶神社 拝殿

拝殿は銅板葺切妻造棟入の吹きっぱなしの建物だった。
鳥居といい、拝殿も大きく、大社のようだ。

拝殿を通して奥を見ると、回廊を巡らせた神門が見えるのだが、神門の手前にもう一つの建物があった。

越戸町 灰寶神社 拝殿〜神門

拝殿と神門の木部は赤墨から黒橡(つるばみ)に染まっている部位があるのに対して、その建物は白っぽかった。

拝殿の左脇に回ると、その建物は瓦葺鉄筋造吹きっぱなしの建物で、4方に庇を持つ四方殿だった。
四方のコンクリート造の柱の下部75%は光沢のある材質で包まれているが、柱の白い色はペイントのようだ。

越戸町 灰寶神社 四方殿〜神門

4本の柱を結ぶ敷居と廻縁も柱と同じ光沢のある白色で表面が処理されているが、漆喰が使用されているのだろうか。
そして、殿内の正方形の床は白っぽい板張りになっている。
拝殿の裏面から神門の間は両側に玉垣が設置されているのだが、西側の玉垣は切れており、玉垣内には入れるようになっていた。

拝殿と四方殿の間から神門を望んだのが以下の写真だ。

越戸町 灰寶神社 四方殿〜神門

銅板とは異なる新しい金属材と思われる材質で吹かれた神門と回廊だが、門には格子戸、回廊には連子窓(れんじまど)が巡らされている。
神門前に賽銭箱があったので、そこで参拝した。
境内に掲示されていた氏子総代による御由緒板書には以下のようにある。

灰宝神社は全越戸の守護神でその創建は約1300年前の慶雲3年(706)と言われている歴史のある神社です。 今から1000年余り前善政の模範と言われた醍醐天皇の時代(901~922)の延喜5年(905)に天皇の勅命で藤原時平他2名によって 「延喜式(※えんぎしき)」という全50巻におよぶ法律書が作成されました。その書の中に国として祭る神社を登録し全国で2861社が式内社として定められました。
豊田市内では8社ありうちの1社が地元の灰宝神社です。
灰宝神社の祭り神は速邇夜須毘売命(※ハニヤスヒメ)です。伊邪那岐尊・伊邪那美尊が大八島、つまり日本の国土を生んだあと風雨草木山野五穀火の神々等を生み 国土経営の基礎が進んだあとに生まれた神様です。
またの名を埴安姫命(※ハニヤスヒメ)とも言われ速邇夜須は埴粘の事であり大地でもある粘土をこね形を造り焼いて土器を作った陶芸の神様です。
其の昔、良質の粘土を求めて越戸港より陶工達がどんどん上陸し越人となりこの地方の開拓にあたり人々地域の安全発展安寧を願いお祀りされたものです。
このように歴史と由緒のある神社が私たちの地域にあることは誇りでもあります。伝統ある神社を大切にして行きたいと切望するものです。
                           (※=山乃辺 注)

灰寶神社境内 御由緒板書

●『延喜式』と灰寶神社
文中の「延喜式」とは927年にまとめられた全国の神社一覧のことで、この旧い法律書に社名が記載されていることは、灰寶神社が10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた由緒のある神社であることを示している。
旧い由緒のある神社でも熊野那智大社などのように朝廷とは異なる勢力に属する神社は式外社(しきげしゃ)と呼ばれて掲載されていないように、政治的な意味もある分別帳でもある。
必然的に旧くても神仏習合した神社の中には式外社となっている神社が存在するのだが、ここ灰寶神社は式内社だが、江戸時代には「八王子権現」「灰寶天神」と称しており、神仏習合していた神社だった。
私見だが、四方殿の存在や神門と回廊を持つ形式は神仏習合していたことのなごりではないかと思われる。
また、「延喜式」には灰寶神社が元は矢作川西岸の中洲を鎮座地としており、矢作川の氾濫で現在地に遷座したことが記されている。
「灰宝(寶)」という変わった社名の由来を知りたかったが、掲示された御由緒ではそれに関して触れていない。
だが、ハニヤスヒメの「ハニ」とは埴輪の「ハニ」と同義で「粘土」のことであり、埴輪や土器などの粘土を焼いた時に出る「灰」に由来した社名ではないだろうか。
御由緒にある速邇夜須毘売命は記紀では以下のように表記されている。

 『古事記』=波邇夜須毘売命(ハニヤスヒメ)
『日本書紀』=埴山姫(ハニヤマヒメ)

『古事記』『日本書紀』

現在の御由緒に記されている神名の「速邇夜須毘売命」は「延喜式」では『古事記』と同じ神名となっているはずだが、どこで「波→速」と変わったのか。
『古事記』の原文には以下のようにある。

次於 屎成神名二波邇夜須毘古神
次 波邇夜須毘賣神

『古事記』

男神、波邇夜須毘古神と女神、波邇夜須毘賣はクソ(屎)から生まれた神だとある。
なぜ、大便(屎)から生まれたのかというと、母親のイザナミが火の神を出産したことから陰部に大火傷を負い、亡くなる間際に苦しんで、嘔吐、脱糞、失禁をしたからだ。
『古事記』ではハニヤスビコ・ハニヤスヒメという男女対の神として登場するのだが、灰寶神社ではハニヤスヒメだけが本殿に祀られている。
ハニヤスヒメは土師部(はじべ)の祖神とされていることから、灰寶神社は土師部との関連が指摘されている。
神門内には祭文殿と流造の本殿が連なっているのだが、撮影はしていない。

灰寶神社の祭神は、祀られているのが珍しい神だが、珍しいのは本殿の神だけではなかった。
回廊の外側の右隣には常夜灯の並ぶ3社が祀られていた。

越戸町 灰寶神社境内社(お尺口神社/津島神社/山ノ神社)

瑞垣内には中央に津島神社、向かって左側にお尺口神社、右側に山ノ神社が祀られている。
中央の津島神社の案内板に祭神は以下とあり、「祭事には各家庭より家族の人数分だけ提灯に火を燈して青竹の枝に吊り下げ、賑やかにお参りする風習もあります。」とある。

・建速須佐之男命(スサノオ)
・大穴牟遅命(オオナムチ)

灰寶神社境内社 案内板書

本殿側に祀られているお尺口神社は中部地方に多いミシャグチ神のことかと思ったら、そうではないことに驚かされた。
案内板『お尺口神社 《五穀=米・麦・粟・黍・豆》』には以下のようにあった。

祭神 五穀豊穣の神《豊受皇大神(とようけのすめらおおかみ)》又の名〈保食大神(うけもちのおおかみ)〉
その昔衣が里(※ころもがさと:現豊田市)の近くで桑畑が多く委が沢山飼われ 蚕山が盛んでした。この地区一帯は米・麦を始め 大豆がよく取れて味噌、醤油、豆腐等の原料として 地方に出荷されていた。当地が猿投村(※さなげむら)と言われた時代当時の村長大岩鐵雄氏により天皇家に奉納されたとの言い伝えもあります。                (※=山乃辺 注)

お尺口神社案内板書『お尺口神社 《五穀=米・麦・粟・黍・豆》』

灰寶神社の東160mあまりには「尺口」(しゃくぐち:越戸町)字名が残っており、そこには矢作川の河原も含まれており、灰寶神社の元の鎮座地ではないかと思われる。

もう1社の山ノ神神社の案内板『山ノ神神社』に祭神は以下とあった。

大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)

山ノ神神社案内板書『山ノ神神社』

また、以下の案内書があった。

祭り時には広場で大きな焚き火をして各自で持ち寄った餅を焼いて食べる習慣もありました。

山ノ神神社案内板書『山ノ神神社』

山ノ神神社はこの地に最初に祀られていた神と考えられる。

上記三社の右隣には産守ノ神社(うぶすのじんじゃ)が祀られていた。

越戸町 灰寶神社 境内社産守ノ神社

左右1対の常夜灯の並ぶ間、奥の地面に方形の石柱が埋まっていた。
しかもその石柱は正面ではなく、向かって少し右を向いている。
案内板『産守ノ神社』には以下のようにあった。

祭神《產守ノ命(うぶすのみこと)》=又の名を=《産生神(うぶすなかみ)》とも言う。
安産の神様です。安産で無事出産できますことを祈願いたします。無事出産し百十日目の良き日にお参りをします。子供さんをお立ち台の石の上に立たせお祝いします。その折に百十個の米の団子をお供えしお下がりを子供の仲間入りとして近所の 子供に与える風習があります。

産守ノ神社案内板書『産守ノ神社』

なんと!石柱は神体石などではなく、「お立ち台」だったのだ。

越戸町 灰寶神社 境内社産守ノ神社 石柱

そう思って石柱の上面を見ると、上面だけ苔が生していた。
しかし、だとすると、產守ノ命はどこにも祀られていないのか、あるいは足蹴にされるこの石は、やはり神体石なのだろうか。

灰寶神社の境内には灰寶神社の社頭とは別の独立した社頭を持つ秋葉神社が祀られていた。

越戸町 灰寶神社 境内社秋葉神社

秋葉神社の社頭も灰寶神社社頭と同じ歩道に面しており、歩道から6mほど奥に黒い笠置を持つ朱の鳥居が設置され、さらに6m奥に格子をアクセサリーにした瓦葺切妻葺棟入の社殿が 設けられていた。
飯田街道には足助町から分岐して秋葉山本宮秋葉神社のある浜松市に向かう分岐道も存在する。

◼️◼️◼️◼️
灰寶神社は大きな二宮金次郎像があることから、母親の実家に向かうトラックの運転席のギアボックスに跨って眺めた幼児期から、私にとって、現在の豊田市の山岳部には不思議なものが存在するという、『千と千尋の神隠し』の千尋が油屋のある街へ迷い込むトンネルの役割をした神社でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?