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土用【研究ノート:天野氏】

今日は土用の丑の日である。
この日に鰻を食べるようになったのは平賀源内の発案によるもの、という俗説があるが定かではない。江戸時代に始まる習俗であるのは、確かなようだ。

土用は夏に限ったものではない。春にも秋にも冬にもある。
土用とは四立すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前18日間をいい、要するに季節の変わり目をいう。土用の最終日は四立の前日であり、つまり節分である(節分も春に限ったものではない)。

陰陽五行説で春夏秋冬はそれぞれ木火金水に当てはめられたが、残った土気をその間に配置した。それが土用である。

土用とは「土旺用事」の略で、「土気が旺(さかん)となり事を用うる」つまり土気が最も盛んに作用する期間ということだ。
この期間は土を司る「土公人」という神の支配下にあり、土を犯す作業(土木工事や井戸掘り・井戸替え等)は禁忌とされた。

夏土用の3日目が晴れならば豊作、雨が降ると凶作という俗信がある。この豊凶占いのことを「土用三郎」という。

さて、この土用が天野氏と何の関係があるのか。

実は遠江天野氏の中に、幼名に「土用」が入る者が3人確認出来るのである。

1人目は天野周防七郎左衛門経顕の子で、周防三郎経政の弟の土用王丸である。建武3(1336)年、天野周防土用王丸は叔父・安芸八郎景光の勢多合戦の軍忠状を出している。

この人物は後に出家しているらしく、諱は伝わっていない。通称は新左衛門尉、周防入道常円と史料に見える。父・経顕から母・聖忍を経て小河村(現浜松市天竜区小川)を相続した。この時代、妻は夫亡き後、その遺領を相続して女地頭になれたのである。

残る2人は天野下野守景隆の子(すなわち経政の孫)の安芸守秀政と新左衛門尉義景である。秀政の幼名が土用王丸、義景が土用寿丸と諸家系図纂天野系図に記されている。秀政は応永7(1400)年に安芸守に任ぜられた。

この3人は鎌倉時代末期から室町時代初期の人物だが、同時期の天野氏の幼名としては金剛丸、摩尼王丸、光徳丸というのが尊経閣天野系図で確認できる。摩尼とは如意宝珠のことで、どれも仏教的に見える。

一方、土用というのは陰陽道的であり、似ているようで何処か異質な雰囲気もある気がする。

土用王丸・土用寿丸という幼名はどうして名付けられたのだろう。何故幼名に「土用」という語を用いたのであろう。

考えて判ることではないが、元来「名前」というものに興味があるので、ずっと気になっている。

浜松かぁ…うなぎの名産地だなぁ…(関係ない)。

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