10年前のあの日の記憶2
少しずつ、少しずつ揺れが収まり、シーン…と静まり返った。
その段階で初めて机から出るために動き出した。
長い揺れで感覚が鈍っていたのか、身体をうまく動かせないほど恐怖を感じていたのか。
ふらふらと覚束ない足取りで、机の外に這い出ながらどうにか立ち上がる。
立ち上がった瞬間視界に入ってきたのは、数分前とは全く別の光景だった。
横に置いてあったキャビネットが倒れ、私の机に直撃していた。
他のキャビネットも軒並み倒れ、中に保管されていた書類はあちこちに散らばっていた。
天井の蛍光灯は外れてぶら下がり、棚に取り付けていた耐震の突っ張り棒が逆に天井に穴をあけていた。
床や机の上には割れた蛍光灯や倒れたモニターの破片が散乱し、その机も並べていた位置からは大きく動いている。
もちろん電気はストップし、オフィスの中は普段より薄暗く感じた。
状況を把握しようとあたりを見回し、呆然とした。
「…!避難開始!焦らずに、訓練通り避難して!」
そんな声が響き、ハッとした。
避難しなければ。
これは訓練ではない。本当に避難が必要な大きな災害が起こったのだ。
心臓が強く脈を打っているのを感じていた。
一度大きく深呼吸する。
まわりの人に続きながら、何も持たずに非常階段を急ぎ足でひたすら降りた。
その途中にも大きな揺れが起こり、避難する全員が足を止め、揺れがおさまるのを待つ。
とても古いビルで、揺れるたびにビル全体が『ギシッ、ギシッ』と軋んだ。
その時はじめて『ビルの倒壊』の可能性を感じ、
(どうか全員がビルから出るまでは倒れないで…!)
そう願いながらどうにか一階まで降り切った。
ビルの目の前は大きな道路に面しており、狭い歩道に周辺のビル内の従業員も含め、多くの人がごった返していた。
点呼を終え、各部署の責任者がどのように対応するかを相談している間、各々が携帯電話を取り出していた。
この時点で15時すぎだったと思う。
既に携帯電話の通話は制限されていて、メールもエラーになっていた。
それでもどうにか、家族宛てに自分の状況と各々無事かどうか知らせてほしいという内容のメールを送信することが出来た。
一部の人はワンセグが繋がり、ニュースなどで情報を得ていたようだったが、それも途中からは繋がらないと言う声が目立ち始めた。
この時点では津波に関する話は出ていなかったし、私自身『津波』という災害に思い至っていなかった。
まだ3月。南側とはいえ、東北の一部である仙台は真冬の寒さだった。
目の前の道路は信号が止まり、多くの自動車が列をなしていた。
大きな事故などは起こっていない様子だったが、それでもときおり聞こえるクラクションに殺伐とした空気を感じる。
どんよりとした灰色の空が、不気味に思えてならなかった。
サポートしてもらえたら、嬉しいです😊寄付や家族時間の充実に充てたいなと思っています。よろしくお願いします!