しば

近代史が好きです。

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最近の記事

『憲友』と古書店のこと

今日、戦後憲友会が発行した雑誌『季刊 憲友』1~39号(4,5,6,18欠)を購入。 どうにも、古書店の前店主が現筑波大学出身で、学徒動員により憲兵になった人物であった関係らしい。 内容は元憲兵の寄稿が中心である。現代の国防に関すること、戦没者に対する顕彰、慰霊についてや、憲兵に対する考察… まだ読めていないのでまた、内容は別に紹介しよう。 古書店(多く訪れていないが)や、ネット上の古書市場にもあまり出ておらず、希少といえそうだ。それを格安で売って頂いたのだからありがた

    • 二・二六事件のプロローグ―二月十日夜から二十二日朝―

      序   二・二六事件は、今から八五年前に勃発したクーデター未遂事件であることは、よく知られている。本事件は青年将校運動の参画者が深く関与した、昭和九年(一九三四)の陸軍士官学校事件、翌年の相沢事件などの延長線上に存在するということも、割りあい認知されている様である。  ただ決起の決意、計画の作成など、細かな部分についてはあまり注目されていない。巷では、北一輝や真崎甚三郎が黒幕であるとか、決起将校らが「一致団結」して起ったなどの言説が未だに見受けられる。しかしそれらは学説とし

      • 真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部【六】~【七】人名解説

        真崎甚三郎   教育総監兼軍事参議官 江藤源九郎   予備役陸軍少将 衆議院議員(無所属)   永田鉄山    陸軍少将 陸軍省軍務局長 林銑十郎    陸軍大将 陸軍大臣  山岡重厚    陸軍少将 陸軍省整備局長  池田純久    陸軍省軍務局課員 陸軍パンフレットの作成者の一人 閑院宮載仁親王 参謀総長  真崎勝次 真崎甚三郎の実弟 海軍少将 横須賀警備隊司令官   加藤寛治 海軍大将 軍事参議官 荒木貞夫

        • 真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【七】昭和十年七月十七日

          七月十七日水曜日。雨。 (中略)  午後一時、軍事参議官会議に出席。まず、土蜘蛛(林陸相)より、軍需資材の検閲に関して説明があり、次いで私の教育総監罷免についての審議に移った。林陸相は「陸軍全体の統制のため、教育総監罷免に対し、強行姿勢を執ったのは遺憾であり、これに伴う影響については責任を負う」と説明。続けて政友会の鈴木喜三郎総裁と会見を行った旨を報告した。私の罷免理由についての要旨は従来と変わっていない。蜘蛛(林陸相)は鈴木喜三郎に、「内閣が天皇機関説事件に対し、何ら対策を

        『憲友』と古書店のこと

        • 二・二六事件のプロローグ―二月十日夜から二十二日朝―

        • 真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部【六】~【七】人名解説

        • 真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【七】昭和十年七月十七日

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【六】昭和十年七月十五日

          七月十五日月曜日。晴れ。 (中略)  江藤源九郎八時に来訪。永田鉄山が天皇機関説に対し、従来は賛成していたにもかかわらず、反対姿勢に転じつつあることを報告してきた。永田の機関説賛成を林銑十郎への攻撃点としようとしていたにも関わらず、反対に転じるとは利己主義な者のすることは困ったことである。 (中略)  十時林大臣より、三長官会議一時間前に陸軍大臣官邸に来邸の希望の連絡があった。これを承知した。 山岡重厚ら十時半に来訪。一同困った様子であった。事情を聞いたところ、永田がさっぱり

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【六】昭和十年七月十五日

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部【一】~【五】人名解説

          真崎甚三郎   教育総監兼軍事参議官 七田一郎    陸軍歩兵大佐 教育総監部第二課長 牧胤吉 元日本新聞社(保守系)記者 日本連合通信社社長 早川鉄治    実業家20余りの会社の発起人(小樽木材株式会社理事など) 元農商務大臣秘書官 元衆議院議員 元外務省政務局長 松浦淳六郎 陸軍中将 陸軍歩兵学校校長 前陸軍省人事局長  宇垣一成

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部【一】~【五】人名解説

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【五】昭和十年七月十四日

          七月十四日日曜日。曇り。  柳川平助が来訪。明日、閑院宮殿下の御前にて罷免問題を決定する前に準備をしておく必要があると熱誠を披歴したが、私としては対抗方法無く、かえって私への排撃が激化する恐れがあるため、第三者による仲介を考えていると答えた。なお、荒木貞夫とも相談するとも答えた。  竹内賀久治が来訪。罷免の場合も考え、私のみ失脚させるわけにはいかないと彼は考え苦慮していた。ただ彼らの考えはこのように足りていない。 須藤憲兵中佐が来訪。先般依頼していた大阪から真崎秀樹宛の件につ

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【五】昭和十年七月十四日

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【四】昭和十年七月十三日

          七月十三日土曜日。小雨。  小林順一郎が七時半に来訪。私を激励し、かつ私より教育総監の後任に建川美次を提案することを勧めてきた。なお、今回の問題に対し、仲裁を行う場合の適任者を質問してきたので、私は菱刈隆陸軍大将を紹介した。  井上七時四十分に来訪。連絡のために訪れただけで、特別な用事は無かった。  八時加藤寛治海軍大将を訪問し、十日以後の状況を報告し、私が罷免を断る決意を伝えた。  九時半に教育総監部へ出勤。  十時半秋光晃栄の道場にて治療を受ける。彼の懇願により、写真撮影

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【四】昭和十年七月十三日

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【三】昭和十年七月十二日

          七月十二日金曜日。曇り。  竹内賀久治が八時に来訪。私が昨日殿下に申し上げた内容の容姿を伝え、加藤寛治海軍大将に伝達を依頼した。  九時林大臣と会見。三長官会議について今日の開催は乱暴であるとし、延期を主張。もし無理やりに開催するのであれば私は席上で何も答えることは出来ないと迫った。しかし林大臣は元来より、計画的に抜打的に圧迫的に嘘を主張していた(閑院宮が出席する、ということ等)ためかなかなか承知しない。結局開催することとなった。  大臣官邸を出発し大宮御所及び御所に御祝の記

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【三】昭和十年七月十二日

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【二】昭和十年七月十一日

          七月十一日水曜日(誤記。本来は木曜日)。曇り。  石井三二馬が八時に来訪。斎藤瀏、宇垣一成の圧力による陰謀の情報を伝えてきたが、疑わしいものであった。  秋光晃栄が来訪。私(真崎)の運勢良いと透視した。当てにはならないが幾分か心強いことである。川島義之が八時半に来訪。人事の件(真崎の教育総監罷免の問題)について心配し、来たという。私は私の決意及び今日まで人事問題を巡る状況について説明した。  牧胤吉が来訪。牧が早川鉄治に私の決意を伝えたことを報告してきた。  江藤源九郎が九時

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【二】昭和十年七月十一日

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【一】昭和十年七月十日

          七月十日水曜日。晴れ。  七田一郎八時に来訪。航空兵候補生選定のため、所沢学校へ教育総監部員を派遣する件に関し、教育総監部本部長より通牒案を持ってきたため私はこれを承認した。  牧胤吉九時に来訪。早川鉄治の語るところによれば、松浦淳六郎と私は宇垣一成内閣を画策しており、また小寺謙吉が語るところによると今回の陸軍人事において、私たちを(真崎に近い人物)罷免する動きがあるという。これに対し、私は「宇垣内閣を画策するような計画はなく願ってもいない。もしこのような理由で私を罷免すると

          真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【一】昭和十年七月十日