真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【五】昭和十年七月十四日

七月十四日日曜日。曇り。
 柳川平助が来訪。明日、閑院宮殿下の御前にて罷免問題を決定する前に準備をしておく必要があると熱誠を披歴したが、私としては対抗方法無く、かえって私への排撃が激化する恐れがあるため、第三者による仲介を考えていると答えた。なお、荒木貞夫とも相談するとも答えた。
 竹内賀久治が来訪。罷免の場合も考え、私のみ失脚させるわけにはいかないと彼は考え苦慮していた。ただ彼らの考えはこのように足りていない。
須藤憲兵中佐が来訪。先般依頼していた大阪から真崎秀樹宛の件について報告しに来た。
十一時山岡重厚、松浦淳六郎、大谷亀蔵及び鈴木率道が来訪。教育総監罷免を避ける対策を研究し、鈴木率道に起案を依頼した。
山口一太郎十時に来訪。在郷軍人会本部が天皇機関説問題に対し状況を緩和させる目的なのか、各地に講和者を派遣し、国防充実座談会を行いつつありと伝えてきた。
午後一時四十分荒木貞夫の勧めにより林大臣に会い最後の念を押した。内容は「閑院宮殿下に対し罷免問題について論争をすることとなれば、閑院宮殿下の御徳を傷つける結果となる。ひいては閑院宮殿下の聖断を仰ぐ結果となる見込みがあり、臣下として恐懼にたえざることにもなりかねない。何か現状を打開する方法はないのか。もし林大臣が三長官会議において、私が罷免に強固に反対した際に同意まではしなくとも、その場での決定を延期する提案をするのなら、閑院宮殿下と論争するという難関は抜けられる。」と伝えた。林大臣は「閑院宮殿下の教育総監罷免に対する意見は強固であり、私から緩和策を提案する余地はなく、部下に対しても示しがつかない。」と言う。そのため私は誰か、閑院宮殿下に罷免の結論を延期することに同意するよう申し上げることの出来る人はいないのかと相談し、結局菱刈隆陸軍大将に依頼することとなった。二時半に菱刈隆陸軍大将と会見。林大臣との会見内容を報告し、殿下への言上を依頼、快諾していただいた。
三時に帰宅し以上の状況を山岡重厚等一同に報告。私に代わり山岡重厚が荒木貞夫にこの状況を報告した。
大谷一男午後五時に来訪。「断固として罷免に抗い、天皇機関説を林大臣、渡辺錠太郎らが支持している事実を持ち出して、奮闘するべきだ。」という。天皇機関説を私が非難していることが罷免問題の最大要因であるためらしい。私は彼の意見に同意する。
藤原元明に明日の三長官会議において主張する内容を清書させ、これを真崎秀樹に加藤寛治海軍大将へ送らせ、松浦淳六郎に本庄繁へ送らせた。
井上来訪。単に連絡だけであった。
田代俊彦が満州行きのため挨拶に来た。
 牟田口廉也九時二十分に来訪。明日、閑院宮殿下をお迎え申し上げた直後に拝謁し、殿下に明日林大臣の真崎罷免の意見に同意なされるようなことがあったなら、省部協議事項〈注2〉により、重大なる結果が生じる胸を進言すべきと申してきた。私もその意見に同意した。
 十時真崎勝次及び森木五郎が来訪。永田側は私が罷免問題に対し、どういった対策を打ち出してくるのかと心配しているという。その他、青年将校が集会しているとの情報もあったが、特記する程のことではなく、普通の集会で何か行動を起こすものでもないようであると報告してきた。
 荒木貞夫十時半に来訪。菱刈隆陸軍大将と川島義之陸軍大将と会見した様子を報告された。二人は、教育総監罷免の可能性が高いと判断していたという。なお、菱刈隆陸軍大将は明日、閑院宮殿下に拝謁し、私の罷免以外の人事に賛同し、私の罷免に関しては延期を進言するという。なお、荒木は私たちが将来我々が目指すべき理想、三箇条(別紙十五日に行う罷免反対の陳述案の草稿に書いてある。)を示してきた。これに私も同意した。なお、荒木は明日は証拠物件〈注1〉は提示しないほうが良いとの意見を述べた。

〈注1〉この計画書は三月事件の際、小磯国昭(当時は軍務局長)計画に反対する永田(当時は軍事課長)に「小説でも書くつもりで」と無理やり書かせたものである。永田又は小磯がこれを陸軍省に保管したままにしていたため、真崎らの手に渡ることとなった。(参考文献:岩井秀一郎「永田鉄山と昭和陸軍」二〇一九年 祥伝社新書)
〈注2〉ここでいう省部協議事項とは大正二年の「陸軍省 参謀本部 教育総監部 関係業務担任規定」という内規のことを指す。この内規は将官以上の人事については三長官が協議して決定することと記載されている。真崎らは今回の教育総監罷免に関し、真崎以外の二長官(林大臣、閑院宮総長)のみで決定してしまうとこの内規を破壊することであると主張し、罷免に対抗している。しかしこの内規は仮案として決定されたものであり、正式案として裁可された「業務担任規定」では人事について、三長官が協議の上、陸軍大臣が取り扱う、とされており真崎らの主張に合法性は無い。林らはこの点をに関し、明治四十一年の勅令を引き合いに、陸軍大臣に人事権があること、右の内規が三長官会議不一致を想定してはいないがそれによって人事が停滞することは内規の本旨で無いという公式見解を作成し、対抗した。(参考文献:高橋正衛「昭和の軍閥」二〇〇三年 講談社※原著は一九六九年 中央公論社)

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