真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【七】昭和十年七月十七日

七月十七日水曜日。雨。
(中略)
 午後一時、軍事参議官会議に出席。まず、土蜘蛛(林陸相)より、軍需資材の検閲に関して説明があり、次いで私の教育総監罷免についての審議に移った。林陸相は「陸軍全体の統制のため、教育総監罷免に対し、強行姿勢を執ったのは遺憾であり、これに伴う影響については責任を負う」と説明。続けて政友会の鈴木喜三郎総裁と会見を行った旨を報告した。私の罷免理由についての要旨は従来と変わっていない。蜘蛛(林陸相)は鈴木喜三郎に、「内閣が天皇機関説事件に対し、何ら対策を講じないなら、陸相として、対策を考える」と答えたという。
 次いで荒木貞夫が口火を切り、「真崎大将では陸軍全体の統制が取れないとはどういう事か」と林に問いかけた。


クモ「現在、陸軍内には真崎らの派閥があって、これに近くないと将来、 出世等がしにくいのではという不安が広がっている。それはその派閥に反対する者たちだけではなく、派閥に属していない者たちも同様に不安を感じている。」と言った。クモは思想の合致する者たちが集まった派閥が実際にあるとした。更に「憲兵の活動も、派閥的な傾向があり、怪文書の乱発も生じている。これらに対し、陸軍中央がそれに関与していると思われないためにも、真崎を罷免した。」と言った。


荒木「それらの責任は真崎にはなく、林陸相にある。風評により真崎罷免を断行するのは間違っている。風評のみにより罷免されるような前例をつくることこそ将来に不安を残すことになる。」


クモ「派閥は本来無いとみているが、派閥を形成している疑いのある者がいることは研究した。派閥はなんとなくは形があり、絶対にないとは言えない。今回の人事に関して他から圧力等が加わった事実はない。」


荒木「巷に広がっている真崎罷免に関する噂が実現したのはどういうことか。噂にあるように真崎罷免に関し、岡田総理や永田鉄山の関与を疑わざるを得ない。もし、これらの噂が事実であれば、ロンドン海軍軍縮問題以上の統帥権干犯問題となる。何故悪評のある永田軍務局長を信じて、登用しているのか。」


クモ「全然そのようなことはない。岡田総理にも、陸軍人事に関し、一度も語ったことはない。永田軍務局長に関しては確かに悪い噂を聞くことはあるが、それらの事実であるという証拠は見たことがないため、登用している。」


荒木「陸軍士官学校事件に関し、永田らの陰謀であるとの噂がある中で、曖昧にするべきではない。本事件は永田等の思想が現れたものである。」
荒木に対し、橋本虎之助次官、杉山元次長より、三長官会議における人事権、永田軍務局長の件、陸軍士官学校事件について弁解があったが虚偽が多くあった。 


 松井石根「既に罷免が決定しまっているので、受け入れる他ないだろう。派閥的傾向が存在していないとは言えない。そのような傾向による弊害は全軍にあると言える。林大臣の単独上奏による真崎罷免はやむを得ない。」
 川島義之は中立論を唱えた。私は彼が私たちの味方をするだろうと思っていたが、その予想を裏切られた。彼は四国猿(四国出身者への蔑称。川島義之が愛媛出身のため)の類いか。我々が正しいということに気づかないとは憐れなる動物だ。やはり、クモの同類である。
 次いで荒木は三月事件の永田クーデターメモから堂々と陸軍の統制について語り、林大臣の軍統制の根本精神について問い糺したが要領を得なかった。足利尊氏思想(天皇に対する逆賊的な振る舞い。真崎罷免が適正でない旨を誇大に表現)によって、陸軍が統一されるならば、一人となってもこれと戦うと極論を披露したが大きな反論はなかった。次いで荒木は「陸軍内の派閥の一方を荒木真崎派と称するのであれば他の派閥は誰が中心であるのか」と林大臣に問いたところ、クモは南次郎であると答えた。この後林大臣は更に面白い(馬鹿馬鹿しい)論を唱えはじめたが時刻が既に五時半になっていたため、軍事参議官会議は解散した。
 帰路、宝亭(飲食店)に教育総監部員を招待していた宴に参加し、八時に帰宅した。
 平野助九郎、牟田口廉也らが来訪してきたが、変わったことはなかった。平野は藤山雷太は教育総監罷免に無理解と言い、勝田主計等は大いに同情していたと言う。
(後略)

〈補足〉
 この十七日の軍事参議官会議については右の高宮太平がそれぞれの発言について詳細な発言を取材し、記録している(高宮は七月一八日としている)。それによると真崎日記の記録以後、永田メモが議題に上がったという。真崎、荒木、菱川が中心に三月事件について宇垣一成、建川美次、二宮治重、小磯国昭、大川周明らが策動し、永田もその一派として行動していたと指摘した。そしてそれを踏まえ永田こそ派閥的な行動を行っていたと林を攻撃した。これに対し、林は具体的な証拠を示すよう、求めたため永田メモが議題に上がることとなる。会議には永田も出席していたため真崎は「これは貴官の執筆と思うが間違いないか」と問いかけ、永田は「その通りである」と答えた。林は怯んだが渡辺が真崎、荒木に永田メモが機密文書であると認めさせたうえで「宜しい。一歩譲って機密公文書と認めよう。それならばお尋ねするが、軍の機密文書を一参議官が持っていられるのはどういう次第であるか。機密書類の保存は極めて大切なことである。これが一部でも外部に洩れたとすれば、軍機漏洩になる。真崎参議官はどうして持参せられたか、御返答によっては所要の手続をとらねばならぬ。」と発言。真崎、荒木は対抗できず、阿部信行の調停で会議は終了したと高宮はしている(参考 高宮太平 軍国太平記)。これは元憲兵隊の大谷敬二郎も別ルートから伝聞しており大きな流れとしては正しいと思われる(参考 岩井秀一郎 永田鉄山と昭和陸軍)。

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