真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【六】昭和十年七月十五日

七月十五日月曜日。晴れ。
(中略)
 江藤源九郎八時に来訪。永田鉄山が天皇機関説に対し、従来は賛成していたにもかかわらず、反対姿勢に転じつつあることを報告してきた。永田の機関説賛成を林銑十郎への攻撃点としようとしていたにも関わらず、反対に転じるとは利己主義な者のすることは困ったことである。
(中略)
 十時林大臣より、三長官会議一時間前に陸軍大臣官邸に来邸の希望の連絡があった。これを承知した。
山岡重厚ら十時半に来訪。一同困った様子であった。事情を聞いたところ、永田がさっぱりと、余裕のある様子であったためだと言う。
(中略)
 十二時半、陸軍大臣官邸に赴く。土蜘蛛(林銑十郎陸軍大臣)は私に向かって、教育総監罷免以外の人事に関しては私の要求を採用するので、教育総監罷免に関しては譲歩してくれと泣きを入れてきた。私は「教育総監罷免を交換条件にて、受け入れることはできず、承知しがたいと一蹴した。
(中略)
 一時半より、三長官会議に入る。まず、土蜘蛛より「本会議の主要問題である教育総監罷免について決定しなければ、他の人事を議論しても意味がない。そのため、教育総監罷免の問題から決定したい。」と申し出た。よって私は土蜘蛛に向かい「林大臣は教育総監罷免を陸軍の統制をとるためと強調するが、陸軍統制の根本方針、基準を承りたい。」と切り出した。蜘蛛は例によって、細々と多の言葉を並べたて、それを顧みてものを言おうとするが他のことを言うなど、要領を得ない回答をした。私は別紙に保存してあった記事〈注1〉により厳粛に意見を表明した。蜘蛛は二三のつまらない、中身のない弁論を行った。次いで閑院宮殿下より「別に特段弁論はないのだが、私もこの際真崎は教育総監罷免という一大英断をする必要がいると思う。真崎に教育総監を代わってもらうことは必要だと信じている。 」との御意見があった。また「総監罷免が実現したならば陸軍において色々な変化(真崎らの反抗)が起こる可能性はあるが、急に変化することはなく、それに際しては林大臣に対し適宜適正な処置があるだろう。」と仰られた〈注2〉。ここに至って私は少し沈黙。蜘蛛から意見を問われたため私は「真崎としては閑院宮殿下の御意に従わないことは誠に心苦しく申し訳ない。しかし、天皇陛下の教育総監としてはこの間違った人事に同意することは出来ない。」と発言した。これを最後に三長官会議は終了。林大臣は単独上奏により今回の人事案を決定することを決意した。
 三時半に帰宅し、真崎勝次を加藤寛治海軍大将の下に派遣し、教育総監罷免に関する事情を伝えた。また、荒木貞夫の来訪を頼み、善後策を講じ、結局荒木宅において鈴木率道に天皇絵の上奏案を起草させた。
(後略)

〈注1〉
 永田の三月事件クーデターメモ。朝日新聞陸軍省担当記者高宮太平の証言より(参考 高宮太
平 軍国太平記)。
〈注2〉
 高宮によるとこの閑院宮の発言は会議の最後(参考 高宮太平 軍国太平記)。

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