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二・二六事件のプロローグ―二月十日夜から二十二日朝―

 
 二・二六事件は、今から八五年前に勃発したクーデター未遂事件であることは、よく知られている。本事件は青年将校運動の参画者が深く関与した、昭和九年(一九三四)の陸軍士官学校事件、翌年の相沢事件などの延長線上に存在するということも、割りあい認知されている様である。

 ただ決起の決意、計画の作成など、細かな部分についてはあまり注目されていない。巷では、北一輝や真崎甚三郎が黒幕であるとか、決起将校らが「一致団結」して起ったなどの言説が未だに見受けられる。しかしそれらは学説としてもはや否定されているものである。

 このような状況は、NHKが一九八八年に放映したドキュメンタリー「二・二六事件 消された真実」において、不用意に陰謀論を吹聴したことにも大きな原因があるが、決起の準備について、あまり描かれてこなかったことにも起因しているのだろう。

 そこで本稿では、それらが如何になされたのかについて、拙いながら先学に頼りつつ、記述する。それが二・二六事件の理解の一助となれば幸いである。

二月十日 第一回会合


 青年将校らが本格的に決起へ動きだしたのは昭和十一年二月十日、決起の十六日前である。決起将校の中心人物、磯部浅一(元陸軍一等主計)の手記を引用しよう。

二月十日夜、歩三の週番司令室に於て、安藤〔輝三〕、栗原、中橋〔基明〕、河野と余の五人が会合した。会談の内容は、いよいよ実行の準備にとりかかろう、準備の為には実行部隊の長となるものの充分なる打合せが必要だから、今後時機を定めて会合する事にしよう、而して秘とくの為、この会合をA会合として、五人以外の他の者を本会合には参加させまい、他の同志を参加させる会合をB会合としておく事にする等のバク然たる打ち合せをした。余は安藤の決心を充分に聞きたかったので、一応正してみると、「いよいよ準備をするかなあ」と云った返答だ。慎重な安藤の云うことであるから、安藤も決心していると考えた。河野は余に語って「今度こそは出来る、顔ブレがいい」と非常に喜んでいた。1

 磯部の証言を信ずるならば、この十日の会合に参加した安藤輝三、栗原安秀、中橋基明、河野寿、磯部の五名が決起部隊の中心となっているように見える。

 しかし、北博昭氏はこの会合を、磯部によって誇張されたものであると指摘している。2氏は以後、磯部の言う五名のみでの会合が行われていないこと、史料上にA会合、B会合という名称もみられないことから、磯部の「独りよがりの弁といえる」とするのである。3筆者も北氏の指摘を首肯する。

 氏は、中橋が「短時間で、私には余り関係のないことの様に思いました」4と公判調書において述べていること、彼が襲撃の具体的な計画が立てられた十八日の会合に出席していないことも指摘しているが、5それらはまさに十日の会合が、磯部の言うようなものではなかったことを証明している。

 また、栗原はこの会合について、「決行に関する具体的のことでなく唯近く決行しようといふ位のものでありまして平素の信念を話し合つた程度でした」6と証言していることからも、北氏の指摘は的を得たものといえる。

 実はこの会合には、村中孝次(元陸軍大尉)も参加していた。7 8これは磯部の誤記によるもので、事件に参加した池田俊彦氏が公判調書を書き写して、『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』として刊行するまで、明らかにされていなかったことである。

 ちなみにこの会合の場所について、磯部は歩兵第三連隊の週番司令室と手記の中でしているが、公判調書で磯部は、村中、中橋、栗原と同様、「将校集会所」とし、9安藤のみ栗原宅としている。10安藤の証言は記憶違いであり、「将校集会所」が正しいものと思われる。

 ともかくこの会合は、北氏のいう様に「微動」ながらも、決起へ向けた本格的な動きのスタート地点となったことは確かである。安藤は別としても、村中は早期に決起すべきであるという考えを一月に磯部に打ち明けているし、11磯部、栗原、河野は一月末から二月の初めに前内大臣牧野伸顕、元老西園寺公望の殺害を計画していたように、12彼らは決起に対して前のめりであった。そのような彼らの会合は、決起の大規模化を方向づけたといえるだろう。

 またそれは、決起が単なるテロではなく、クーデターとしての性格を有するものとなったことと無関係ではないだろう。なぜならば、大規模部隊の投下は、政府中枢を占拠することで政治的混乱を招くことができ、反対勢力に対し武力による圧力をかけることが可能だからである。

 このようにして決起に向けて動き出した青年将校らは、八日後の二月十八日、決起計画を具体化させてゆく。


二月十八日 第二回会合


 二月十八日、栗原宅にて村中、栗原、安藤、磯部の四名による会合がひらかれた。13 14この会合は磯部によると「いよいよ何日に如何なる方法で決行するかを決定しようとの考えで」行われたという。15ただ、安藤は決起に反対している。理由は、安藤自身が公判調書において述べるところによると、決起のみに重点を置き「建設計画を考慮せずと云ふのは自分の腑に落ちぬ」から、というものであった。16 17

この時期、安藤は決起すべきかどうか、相当に悩んでいたようである。歩兵第三連隊の同僚であった新井勲は、連日自室で長時間瞑想し続ける安藤を見かねて話しかけた際のことを、次のように回想している。彼は磯部らが決起に逸っていることを知っていたが、決起には反対であった。

 「安藤さん、顔色が悪いようです。悩んでいますね」
 私は無遠慮に言ってのけた。例のことを話したかったからである。
 安藤はちょっと驚いたようだがさり気なく、
 「そうなんだよ、磯部や栗原に例の気魄でやられるので―。俺も実際苦しいよ」
 といかにも苦しそうであった。18

 この会合の段階においては未だ安藤の決心は揺れていた。「建設計画がない」という反対理由は彼の本心というより、建前であったのかもしれないが、それを証明できる史料はない。

 反対する安藤に反して、村中、磯部、栗原は決起計画の骨子を作成した。四人の公判調書によると、

 ① 近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊に一部を出動させ、重臣らを襲撃する。

 ② 河野指揮の一隊は、前内大臣牧野伸顕を襲撃する。

 ③ 豊橋教導学校勤務の対馬勝雄等により、静岡県興津に所在の元老西園     寺公望を襲撃する。

 ④ 来週中に決行する。19

 これらが決定されたのであるが、磯部によると細部については安藤の決起反対の為、決めることができなかったという。20

 

 同夜、河野と中橋は会合の結果を聞きに栗原の下を訪れている。21翌十九日には、磯部が豊橋に向かい、対馬に西園寺襲撃を依頼、対馬は快諾する。22決起への気運は確かに加速していた。


安藤の苦悩


 このような中にあって、安藤は未だ悩んでいた。悩みの理由は多々あろうが、彼が獄中で記した「蹶行前後の事情並立場心境等につき陳述の補足」では、当時の歩兵第三連隊第六中隊長の役職に就く直前、連隊長の井出宣時に「『誓って直接行動は致しません』との固い誓約」をしていたことを理由の一つに挙げている。23

 

この文書の結びに関して、松本一郎氏は「彼の誠実な人間性を窺わせる文章」と評している24ので、長文だが以下に引用しよう。(原文は片仮名)

此の期に及んで此の如き心境と立場とを申し述べることは、心臆したかの如く取られ、まことに心苦しいことではありますが、前述の諸上官、恩師、先輩、同僚と云ふ方々に対し、今回の蹶起に方り私の煩悶した心裡、その方々に対する手前上最後迄消極的、逃避的な態度をしか取り得なかった点を、何らかの機会に知って頂き度い。然らざるときは、『純真にして生一本、単純な人間』として迎えられ、信用されてヰた私が腹に一物あって虚偽、欺瞞、単純を装って最後まで瞞着してきたと云ふ誤解の下に、三十年間正しき道を踏んで来た私の人間としての価値が失われてしまふ。此の点が最も心残りなるが故に、維新史上に於ける自分の抹殺されることも忍んで、此処に申し述べる次第であります25

 彼の煩悶がいかに深いものであったかがよくわかる文章であろう。

 十八日の会合の翌日安藤は、同志である野中四郎に対し、決起について打ち明け、相談をしているが、野中は「歩一のものが皆蹶起するのに何故之に同意しなかつたか」と安藤を叱ったという。26同日村中が安藤に対し、「蹶起の時期は延ばしても行動を共にしたい」と説得を行っているが、安藤から決起の確答を得ることは出来なかったという。27

 しかし、ここまで自重論を唱えていた安藤であったが、二十一日、二十二日の磯部の説得を経て、二十二日朝、彼は遂に決起への参加を決定した。

いかなる思いで安藤が決意したのかはわからない。しかし、熟慮の末であることは明白である。彼は二・二六が語られる際、最も「好かれる」青年将校である。彼の推しはかれない心境、葛藤が魅力となっていることは間違いない。

 人望の厚かった安藤の参加は、兵力大動員に繋がったとよく指摘される。しかし、北氏は兵力の大動員は、安藤が事件直前、週番司令の任にあったことが主な要因であったと指摘する。28週番司令は夜間における連隊長の代役である。そのため、夜間には連隊全体の動員が可能となるのである。北氏は安藤の人望を全く無視していないが、週番司令の立場が大動員の主たる原動力だったと指摘している。29

 これまでの「人望」による大動員という、無理のある解釈は改められるべきであろう。

 ともかく、事件の首謀者中一番の慎重派である安藤は参加を決めた。この二十二日、本格的な計画が立案される。

続く

註釈

1 磯部浅一『獄中手記』中央公論社、二〇一六年、二九~三〇頁

2 北博昭『二・二六事件 全検証』朝日新聞社、二〇〇三年、五〇~五二頁

3 同前書、五〇頁

4 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、二五三頁

5 北博昭『二・二六事件 全検証』朝日新聞社、二〇〇三年、五〇頁

6 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、一六三頁

7 同前書、一九、八二、二八四頁

8 磯部は公判調書では村中の名前を挙げているが(同前書、八二頁)、手記では誤記している。

9 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、一九、八二、一六三頁

10 同前書、二八四頁

11 同前書、一九頁

12 磯部浅一『獄中手記』中央公論社、二〇一六年、二六~二九頁

13 同前書、三二頁

14 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、二〇 頁

15 磯部浅一『獄中手記』中央公論社、二〇一六年、三二頁

16 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、二八五~二八六頁

17  安藤は、建設計画がない理由について、予審調書において「君側の奸臣を(中略)除いて而して後如何なる建設を為すべきかという点は(中略)大権私議に亘り(中略)我々同志としては猥りに口にすべきではないとの気分横溢し(中略)其の点に関する工作も無視したる為」としている。(閲覧が困難なため、筒井清忠『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、二〇一四年、九五頁から引用)

18 新井勲『日本を震撼させた四日間』文藝春秋、一九八六年(原著は、文芸春秋新社、一九四九年)一三八頁

19 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、二〇、八二、一六三、二八五頁

20 同前書、八二頁

21 同前書、一六三頁

22 同前書、八三、二二二~二二三頁

23 閲覧が困難であるため、北博昭『二・二六事件 全検証』朝日新聞社、二〇〇三年、五三~五四頁から引用

24 松本一郎「二・二六事件行動隊裁判研究(1)」『獨協法学』四五巻、一九九七年一二月、二七頁

25 閲覧が困難であるため、同前書同項から引用

26 池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』原書房、一九九八年、二一頁

27 同前書、同頁

28 北博昭『二・二六事件 全検証』朝日新聞社、二〇〇三年、五四頁

29 同前書、五五頁

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