真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【一】昭和十年七月十日


七月十日水曜日。晴れ。
 七田一郎八時に来訪。航空兵候補生選定のため、所沢学校へ教育総監部員を派遣する件に関し、教育総監部本部長より通牒案を持ってきたため私はこれを承認した。
 牧胤吉九時に来訪。早川鉄治の語るところによれば、松浦淳六郎と私は宇垣一成内閣を画策しており、また小寺謙吉が語るところによると今回の陸軍人事において、私たちを(真崎に近い人物)罷免する動きがあるという。これに対し、私は「宇垣内閣を画策するような計画はなく願ってもいない。もしこのような理由で私を罷免するというのなら、大義名分のもと、これに抗う。安心してくれ」と語った。
 十時約束通り、林銑十郎陸軍大臣と会見。人事案を提示されたがほとんど噂通りであり、私は驚いた。しかし、噂を聞いており、これに対し考えを巡らせていたため、強固に反対を主張した。大臣の人事案の主要な部分は菱刈隆陸軍大将、松井石根陸軍大将、若山善太郎陸軍中将の予備役編入、私の軍事参議官専任(教育総監罷免)、教育総監の後任に渡辺錠太郎、秦真次の予備役編入、小磯国昭の陸軍航空本部長就任などであった。林大臣はこの人事案に対し様々な観点から説明していたが、一つも承服できるものではなかった。人事に関する責任をことごとく閑院宮参謀総長に帰していた。林大臣は不逞である。私は林大臣に対し、三長官の一人として人事権があるので、最後まで抵抗すると断言した。更に私は「閑院宮殿下は一視同仁であるためこの人事が不適当である理由を誠意をもって申し上げれば必ず理解していただける。私もそのうちに閑院宮殿下に拝謁しその旨申し上げるが、今日まで林大臣がなんども私たちの悪口を殿下に吹き込んでいると聞いても、陸軍の内部事情を殿下に暴露する危険性を恐れて、忍耐自重してきた。しかし今回ばかりは林大臣の悪口が真実でないと証明できる証拠物件を示して、殿下に申し上げる。要すれば、殿下に現状を伝えて、どちらが臣下として正しく振舞っているのかを明らかにする。」と述べた。
 十二時半竹内賀久治を尋ね、今回の罷免問題の要旨を語り、平沼騏一郎の冷静な判断を要請した。
 一時に荒木貞夫を訪ね、罷免問題の概要を伝え、対策を要請した。
 二時半青山葬儀場において中村少佐の慰霊祭に参列。
 三時加藤寛治海軍大将を訪ね、林大臣との会見内容について報告した。伏見宮博恭王軍令部総長に、臣下同士の争いに介入することなく、全貌が明らかになるまでは静観して頂くのが良いという旨の伝言を要請。加藤大将の承諾を得た。なお加藤大将は私に切に自重を勧め、少なくとも軍事参議官には留まるよう述べられた。
 安井藤治が四時に来訪。杉山元陸軍中将が荒木貞夫と田中弘太郎退役陸軍大将(田中静壱陸軍大佐の可能性あり)、三人で会合をしたいと要請していると伝えてきた。私はこれを承諾した。なおこの機会に林大臣との会見内容を杉山元に伝えるよう依頼した。
 竹内賀久治四時四十分に来訪。平沼騏一郎の考えを伝えに来た。平沼は我々を劣勢と判断し、忍耐すべきとの意見であった。
 森木五郎五時に来訪。今日の林大臣との会見内容を伝え、林大臣への攻撃材料収集を依頼。また、柳川平助に保管していた証拠物件の写しを取るよう指示した。
 山岡重厚七時半に来訪。林大臣と会見内容を伝え、対策について研究を依頼した。
 井上及び坂井一位が来訪。特別な用事は無かった。今日の林大臣との会見内容を伝えた。
 菊池武夫、志賀両名が八時に来訪。今回の人事に関し、心配して来たようだ。近衛文麿語るところによると永田鉄山が警視総監に依頼し、荒木貞夫及び私の行動を捜査しているという事実は公にしてよいらしい。私は二人に対し、応援を依頼した。
 海軍大佐である山下知彦が来訪。私は初対面であった。彼は天皇機関説事件に対する海軍大臣並びに参議官の軟弱さを嘆き、陸軍に問題解決を依頼するしかないと述べた。私も陸軍の状態を説明し、陸軍も同様に機関説事件に対し軟弱であり、それを理由に私に対し圧力が加わっていることを述べ。今日の林大臣との会見内容を説明した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?