鷲田清一さんのコラム集を読んでいて、ふと目が止まった箇所がありました。「時間」についての思索のくだりです。 たしかに、人は、意識や身体の内外、また社会や自然との接触も含め、自らの中にさまざまな時間軸を持っている。それらの時間の交わりにより自我が形成されていくのかもしれません。 コラムを引用してみますね。 ・・・・・・・・・・・ 一つの時間を生きる。あるいは一つの時間をしか生きられないというのは苦しいことである。生きものとして人間に無理をかけるからである。 人はいろん
早朝散策。無縁坂です。写真の右側は、旧岩崎邸。坂を下ると、上野、不忍池に出ます。今の時期は蓮の若葉がみずみずしい。 森鷗外の『雁』を読み返しました。 無縁坂界隈が舞台となっています(少しネタバレがあります)。この坂の途中で、お玉さんは岡田青年を誘うつもりだったのですが、この日彼はたまたま友人と一緒に歩いていて、彼女は声を掛けそびれてしまう。このすぐ後、岡田青年の投げた石が、不忍池にいた雁に当たってしまい、雁は命を落としてしまいます。そして、翌日彼はドイツへ渡航する。 雁
エドワード・ホッパーとモーリス・ユトリロの画集を、交互に眺めています。国籍、生い立ち、絵のタッチは異なりますが、お二人とも、都市の静寂、都市の孤独を描いた画家だと思います。 今回、気づいたのですが、お二人は1歳違いなんですね。ホッパーは1882生まれ、ユトリロは1883年生まれ。同時代を生きている。 ホッパーの孤独は、どこか乾いた感じを受けます。ユトリロの孤独には、情緒、哀愁が滲みますね。ユトリロは、重度のアルコール依存症で、大変な人生だったようですが。 共に、好きな画
荒井由実を久し振りに聴き直していたら、私自身が言葉を綴り始めた頃のことがよみがえってきました。中学3年生の秋くらいからですね、何となく、ノートの片隅に詩(みたいなもの)を書くようになりました。当時聴いていたシンガーソングライターたちの歌詞に影響を受けたんです。 最初は、気に入った詞のフレーズを書き写したりしていたのですが、そのうち、自分のオリジナルを書いてみたくなったのね。表現してみたいという欲求もあったのでしょう。 ・・・・・・・・・・・・・ 小椋佳、荒井由実の詞
時折、思いついたように世阿弥の『花伝書』を読み返します。いつも、同じ箇所で目がとまってしまう。水野聡さんが現代語訳で分かりやすく書いていらっしゃいますので、引用してみますね。 「この道には、二つの天分がある。声と姿だ。この二つはこの年代には、はっきりあらわれる。若々しい盛りの芸の咲きはじめる時分でもある。すなわち一見しただけで、さてはうまい役者があらわれたものだと人も注目するところとなる。名人相手の芸くらべにも、当座の花ゆえの珍しさで競い勝つこともある。それで観客も喝采し
テラスの手摺にもたれ 川を眺めている人がいた。 女性だ 宵に紛れて 齢は判別できない。 スマホでそっと 彼女を撮った。 画面を覗くと テラスには 誰もいない 写っていない。 もう一度 彼女を見つめた。 寂しそうだった。
今頃の東京の街風景というのは、どこか内省的な印象を受けます。歩いているとそのまま風景の中に吸い込まれてしまうような。とくに、夕暮れから宵にかけて、街が、その触手をゆっくり伸ばしてくるのではないか。 幻影という言葉に置き換えられるでしょう。以前、某評論家氏が面白いことを書かれていました。 「日常生活の中にふっと日が陰るように、ちょっと変なことが起こる。ちょっと不思議なことが起こる。ちょっと異次元的なことが起こる。その淡さが好きなんですね。現実と非現実の中間的ぐらいのところが
困っている仲間を前にすると ほっとけない奴なの。 ついこの間も 泣きべそかいている女を 一生懸命慰めてた。 結局だまされ 金まで巻き上げられちゃって。 付き人の借金の肩代わりをしたら逃げられる 相棒のけんかに割り込みやくざにはぶん殴られる 飲み屋のママの愚痴話に朝まで付き合っちゃう 別れた奥さんをひたすら賛美しまくる お客の誰もいない興行で満面の笑顔を浮かべる 道端のコオロギにまで愛想をふりまく始末。 言ってやったのよ 要領を少しはわきまえなさい もっと利口になりな。
九月も終わる というのに 強い陽光が肌を刺す 苦味となり 喉元でわだかまっている。 急な石段を上がった先に 詩人の墓はあった すぐ向かいは海が広がっている。 南伊豆、 子浦。 彼女は東京の生まれだが 両親の故郷に葬られたい、と 語っていた。 幼少の頃に亡くなった母 空襲で傷を負った父 父は再婚を繰り返した 異母兄弟を養いつつ 詩人は銀行員を続けた 家の働き手は 彼女ひとり 詩作を 唯一の拠り所にして。 墓には 碑が建っていた。 ―姿見の中でじっと
京急沿線に住んでいました。川崎市川崎区内にある八丁畷という駅、この駅から歩いて5分くらいのところに実家がありました。京急川崎駅のひとつ隣の、各停しか停まらない小さな駅です。 子供の時分は、京浜急行が生活電車でした。すぐ隣の鶴見市場駅の前に、行きつけの書店がありました。花月園前駅(現・花月総持寺駅)から少し坂を上がったところに、青少年センターがあって、当時、クラスメートたちとよく訪ねた。それから、父方の伯父家族が、金沢八景に住んでいたんです。ひとつ年上の従兄がいて、彼と
懐かしい本を読み返しました。 『なみだをふけ門太』(金の星社・刊)。母が買ってくれた本だったと記憶しています。作者は川口半平さん。本の裏に「5年3組、長谷川忍」と私の名前が書かれていた。これは母の字ですね。1968年の初版です。 少し前に川崎の実家に戻った折、父の古い本棚の中にこの本が一緒に残っていて驚きました。かなり埃をかぶっていましたが。弟にことわって、持ち帰ってきました。 両親を早く亡くし、児童養護施設から、小学校、中学校へ通っていた門太少年の成長物語です。今回は
ときどき 表になったり 裏になったりして 私を呼んでいる。 お気に入りの 青いワンピース姿 しきりに挑発するけれど 女子になったり 熟女になったり 実態がつかめないぞ。 一度 齢をそっと尋ねたことがある。 ……そうだよね。 夏が 裏になったり 表になったりする まあ、わからぬでもない 私も同じだから。 新御徒町からすぐの 佐竹秋葉神社がお気に入り 一緒に参拝に出かける 手を清め 柏手を打つ。 このあたりに、住んでみたい 私を誘う セカンド
二、三日前からお風呂の調子がよくない。それでもなだめなだめ使っていたのだが、土曜日の朝、とうとうシャワーが出なくなってしまった。業者に電話をすると、月曜日まで待ってほしいという返事。 やれやれ…、越したばかりなのに。和也はため息をついた。 この部屋に越してきて、間もなく一か月になる。二つの商店街が交わるこの町は、古い都立霊園と、寺社に囲まれ、独特の雰囲気を醸していた。何より、会社のある日比谷まで地下鉄で十五分程度という距離が嬉しかった。 転居したのはいいが、のっけから
コップ酒をいただく時、思い出す光景があります。 もう半世紀近く前ですね。私が中学生だった頃、実家のお店を手伝ってもらっていた畳職人のTさんのお姿であります。 実家は、畳店を営んでいました。川崎の下町のほうです。もう京浜工業地帯に近い。普段は、父親がひとりで仕事をしていましたが、忙しくなると畳職人さんに手伝ってもらっていました。Tさんは、その頃よく通ってくれていた職人さんです。 当時、30代の半ばくらいだったかな。角刈りで、ちょっと強面(こわもて)の方でした