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もうひとつの時間を生きる

鷲田清一さんのコラム集を読んでいて、ふと目が止まった箇所がありました。「時間」についての思索のくだりです。

たしかに、人は、意識や身体の内外、また社会や自然との接触も含め、自らの中にさまざまな時間軸を持っている。それらの時間の交わりにより自我が形成されていくのかもしれません。

コラムを引用してみますね。

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一つの時間を生きる。あるいは一つの時間をしか生きられないというのは苦しいことである。生きものとして人間に無理をかけるからである。

人はいろんな時間を多層的に生きるポリクロニックな存在である。仕事にあたりながら、心ここにあらずといった感じで別の思いをずっと引きずったままのときがある。手が止まり、放心したかのように思い出に浸るときもある。ずっと心に引っかかるものがあって、一つのことに集中できないことがある。過去へと流れ去ってくれないトラウマに心がじくじく疼いたまま、というときもある。このように意識がさまざまの時間に引き裂かれ、一つにまとまらないというのは、さしてめずらしいことではない。

ふだんはほとんど気づかれることもないが、人の内にはさまざまに異なる時間が流れている。呼吸が刻むリズム、消化をになう内蔵のうねり、月経の周期、刻々と入れ替わる細胞の時間、そして全体の老い。そうしたさまざまに異なる時間が、ときに眠気や徒労感や空腹感の形で、あるいは尿意や便意、陣痛のかたちで、意識の時間に割って入ってくる。

ゆたかに生きるというのは、それぞれの時間に悲鳴をあげさせないことだ。どれか一つの時間が別の時間に無理をかけているというのは、生きものとして不幸なことだ。が、たいていの人はこの無理を押し隠そうとする。抑え込もうとする。

人は他の生きものと一緒に生きている、老いた家族や幼い子どもとの時間、ペットとの時間、栽培している植物との時間、そういう時間のなかに自分をたゆたわせることもできずに、いまは仕事で忙しいから、しなければならないことがあるからと、耳を傾けずにそれを操作しようというのは、生きものとして歪なことである。余裕のなさから出たその言葉が、自身のみならず、同じ時間をともに生きる相手を想像以上に痛めていることを知るべきだ。

『濃霧の中の方向感覚』鷲田清一(晶文社)

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池波正太郎さんが、人は、もうひとつの人生を味わいたいために、小説を読んだり、芝居や映画を観たりするのだ、とおっしゃっていました。ものを書くという行為も、もうひとつの時間に対する欲求であるのか…? そんなことを考えています。


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