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まことの花

 時折、思いついたように世阿弥の『花伝書』を読み返します。いつも、同じ箇所で目がとまってしまう。水野聡さんが現代語訳で分かりやすく書いていらっしゃいますので、引用してみますね。

「この道には、二つの天分がある。声と姿だ。この二つはこの年代には、はっきりあらわれる。若々しい盛りの芸の咲きはじめる時分でもある。すなわち一見しただけで、さてはうまい役者があらわれたものだと人も注目するところとなる。名人相手の芸くらべにも、当座の花ゆえの珍しさで競い勝つこともある。それで観客も喝采し、自身も得意になりだすのだ。そのことは当人にとり、まったくもって仇となる。これもまことの花とはいえない。若さと見る人の珍しさゆえの一時の花である。
 この時の花こそ初心のたまものと認識すべきなのに、あたかも芸を究めたように思い上がり、はやくも見当違いの批評をしたり、名人ぶった芸をひけらかすなど何ともあさましい。たとえ人にほめられ、名人に競い勝ったとしても、これは今を限りの珍しい花であることを悟り、いよいよ物真似を正しく習い、達人にこまかく指導を受け、一層稽古にはげむべきである。
 この一時の花をまことの花と取り違う心こそ、真実の花をさらに遠ざけてしまう心のあり方なのだ。人によっては、この一時を最後に、花が消え失せてしまうのを知らぬ者もいる。初心とは、このようなものである」

 人が驕っていく様子を的確に指摘しています。まことの花とは、自らの心に咲き続ける「花」ですね。心が美しければ、その人の年齢にかかわらず花の盛りを失わない。美しさとは本来そういうものでしょう。

 人の芸、もとい、人が生きる、というのは、ほんとうに難しいものであります。自戒を込めて。

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