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真我の自覚を邪魔するものとは

誰もが常に喜んでいたいと願っています。
しかし、多くの方が常に喜ぶことは無理だと信じています。

人は信じていることを疑いません。
日月神示では人の智や学が邪魔をしていると言われています。
智や学とは人が持つ常識、当たり前のことで、それが喜べないことを揺るぎないものにしています。

己の信じているものが己から喜びを奪っているのに気がつかない。
他に進む道があるのにこれしかないと決めつける。
これは無知そのものではないでしょうか。

無知は知れば解決するので問題ではありません。
これしかないとの執着が無知を生み出してしまい問題となるんです。

真実は『嫌えば苦しみ、喜べば喜び』といたってシンプルです。
ですがそのシンプルなことを信じろと言ってもすぐには信じられません。
そこで自分自身を納得させるため、学びという道が必要で、時間もかかるんです。

嫌う心、憎む心、恐れる心に気づいたら、それらにどんな意味があるのかひたすら問うことです。
意味がないとわかるまでひたすら問うことです。

意味がないと納得出来るほど心は反応しなくなります。
私はそれを実践し続けてきたから納得し、こうして皆さんに伝えることが出来ています。

実践という体験なくして納得は出来ません。
実践あるのみです。
以下は師匠からの教えと日月神示に書かれている一文です。

【師匠の教え】
思いが形を生み出しているのです。
思いと形は連動しているから形も大事と言われるのです。

思いが全てです、心が全てです。
これが宇宙の一切の元だからです。

皆さんがどうして今、真我の自覚がないと思いますか?
まだ私は自覚出来ないと思っているからです。
これ以外に邪魔者はないのです。

この思いを変化させて真我を自覚させるのが道なのです。
十分な過程を踏んだという自覚が思いを変化させるのです。

道を歩いて実力がついたから、実力がついたと思えるのではありません。
実力がついたとの思いに至ったから実力が出るのです。

道とは、修行とはただ『私は出来る』という思いを得るためにあるのです。
練習しなければ、道を歩かねば思いが納得しないのです。
邪魔なのは皆さんの自信のなさが邪魔なのです。

何かしらの修行が必要なのか?
思いを変化させ自信が必要でその為の修行なのか?

目的を理解しているのと、いないのでは大きな異なりが生まれるのです。
仏教の唯識では心だけがあると説き、ラマナは真我だけと説く。
ちょっと唯識のほうが詳しく論理的だが、このどちらも同じことを言っているのです。

皆さんも、その時が来れば分かります。
この宇宙は心が生み出しているものです。

どちらにしても、このことを覚えておきなさい。
私には出来ないという自信のなさだけが邪魔なのです。
これは皆さんの為のもので、世界の救済も皆さんの悟りもどちらも大事です。

【黄金の巻 51帖】
喜べよ。
よろこびは弥栄の種蒔くぞ。
祈りは実行ぞ。
言わねばならんし、言えば肉体が申すように思っておかげ落とすし、わからんこと申すように、自分のものさしで測るし、学の鼻高さんには神も閉口

【松の巻 6帖】
今の世に出ている守護神、悪神を天の神とおもっているからなかなか改心難しいぞ。
今までの心スクリと捨てて、生まれ赤子となりて下されと申してあろが。
早よ改心せねば間に合わん、残念が出来るぞ。
この神示わからんうちからわかりておらんと、わかりてからわかりたのでは、人並みざぞ。
地の規則、天の規則となることもあるのざぞよ。

【黄金の巻 67帖】
人の心がまことにならんと、まことの神の力現われんぞ。
身魂磨きとは善いと感じたこと直ちに行うことぞ。
愛は神から出ているのであるから、神に祈って愛さして戴くようにすると弥栄えるぞ。
祈らずに自分でするから、元を絶つから、我れ善しに、自分愛になるのぞ。
自分拝むのは肉愛ではないぞ。

【黄金の巻 68帖】
神と人の和は神よりなさるものであるぞ。
本質的には人間から神に働きかけるものでないぞ。
働きかける力は神から出るのであるから人間から和し奉らねばならんのであるぞ。
信じ合う一人が出来たら一つの世界を得たこと。
一つ得たら二つになったことぞ。
祈りを忘れることは、神を忘れること、神から遠ざかること、それではならんのう。
安全な道通れ。
安全な教(おしえ)の所へ集まれよ。