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期待値

親しい友人と期待値について話す機会があった。
何か興味深い話題がある時、大きな感情を抱いた時、不安定になった時、いつでも答えが出るまで話してくれる大切な人だ。

大人になってから気が付いたが「自分が何を望んでいるか、うれしいと感じるか、人に求めているのか」のような根源的で感覚的な部分がどのような構造になっているかは、これまで長い時間を過ごしてきた環境(=主に家庭・学校等)に左右されるものなのだと実感した。
頭で考えて理解するより早く、瞬発的に感じるものはなかなか変えることが出来ず、非常に根深い要素だと感じている。

◆自分に対する期待

わたしは他人に期待されるととてもうれしくなってしまうタイプだ。
人の好きなものを覚えていたいし、これやってくれたらな~とリクエストされたものを是非やりたいと思ってしまう。そうして、リクエストをしてくれた人が喜んでくれたらなと思ってニコニコしてしまう。
また、”あなたに似合うと思う”のようなわたしの存在を想定した発言にも弱い。実際にそんな服を買ってしまったりする。

こうした他人から受ける影響を望む姿勢は、わたしの内側の問題としてみれば、自分の行動を促すだけなので、人生の生きがいの源にもなり得ると感じている。
このようなポジティブな文脈であればモチベーションアップになるだけなのだが、逆に何も期待されていないと感じるときにはさみしいような、居所のないような、穴が開いたような気持ちに陥ることがある。
つまり、自己の安定を図る意味では、自分の身の振り方について、他人からだけでなく、自身が自分に期待しながら能動的に生きていくことが大切だと感じた。誰からも期待されていなかったとしても、自分の存在自体を肯定していく根性が欲しくなった。
わたしは常々「大人になりたい」と口にしているが、きっと自分の本質を理解することで、何事も乗り越えられる存在になること、これが大人への一歩なのではないかと思い至っている。


◆他人に対する期待

「自分は期待されることが好きだ」と長い間感じ続けていると、お互いが期待しあっていることが当たり前のように感じてしまい、「そうではない人も世の中にはいるし、期待しても仕方がない相手もいる」ということをつい忘れてしまう。

相手の気持ちを考えるように、とは常々自分に課していたいものだが、つい、他人から自分への言動でダメージを受けることがある。たとえば相手に全く悪気のないブラックジョーク等でも、自身のコンプレックスに関わる部分など、やはり動揺してしまう事がある。怒りを感じることもある。
なぜこんなにも他人からダメージを受けてしまうのかと友人に問うた時「他人へ期待しすぎているのではないか」といわれハッとした。

なんとも友人はわたしを知りすぎている…。
これまでの人生、こんなにもままならぬ人間関係の中で「他人を変えることはできない、変えることができるのは自分だけだ」と学んで来たはずなのに、わたしはまだ他人に期待してしまっていたのだ。わたしの想定の範囲内のリアクションをしてくれることを。
もちろん期待しあう関係性を心地よく思うのであれば、いい関係だが、誰にでも期待してしまうとこちらの感情が持たないのだ。

人の数だけ当たり前があるのだから、こんなことは起こらないだろうな~と思っていることも起こるのだ!


◆それでも好きなのかよ

結局のところ、わたしは期待されたらうれしいし、親しい人へは今後もなんだかんだ多少は(又は多分に)期待してしまうのだが、それをうれしく思う、ないとさびしいと思う自分には気が付くことができた。
過分な期待は苦しいこともあるから、気を付けていこう。

人の数だけ当たり前がある、と本当に頭では思ってはいるけれども、みんなどれくらい期待をしたり・されたりして生きているのかなと考えているのでした。



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