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nurseマティ あれから20年【前編】

勤続20年を迎えたら、何か自分にご褒美をあげようと考えていて、何がいいだろうと悩んでいたら、いつの間にか忘れて今年21年目になっていた。そして未だに特に欲しい物が見つからないでいる事を思い出した。

あれから20年。あの時は20年前。
少し振り返ってみた。

nurse 1歳
専門学校附属の病院に就職。
病床数700床の三次救急を担う大病院。
心臓血管外科、小児循環器科に配属される。
まだナースキャップなるものがあった。
当時は何を調べるにも勉強するにもまずは文献探しから始まり、調べたい物に辿り着くまでにとても時間を要した。
日々勉強と仕事に明け暮れ、お金が貯まるばかりという夢のような一年と、寝ても覚めてもBGMは、心電図モニターの音という仕事に支配された一年を過ごした。そして、お金が貯まるばかりという経験はこの一年で終わり、その後二度と訪れる事はなかった。

nurse2歳
仕事とプライベートの両立ができるようになると、周りの同期は研修医ハンターとなった。
同じ病棟の同期は2人いて、その2人は同じ研修医を好きになって喧嘩し、しまいにその研修医はマティが好きだと言った。研修医には、女子というものがどんなに怖いものか、これから私の身に起こるであろう事を目に焼けつけて欲しいと覚悟して思った。幸いナース服が切り刻まれているような事もなければ、嫌がらせを受けることもなかった。
ジョシッテホントウニコワイ。
私が悪い事をしたわけではないが、気を取り直して仕事に集中した。
心臓血管外科の入院は、術前術後と比較的長期間を要する。退院される時は親しくなっており、心の底から「よかったです。お大事になさって下さい」と思う。
ある時、入院中はハゲトゥルピッカだった年輩の患者さんが「大変お世話になりました」と、髪の毛ふさふさの紳士となって退院された。日常ではかぶられてる方なんだと知り、皆んなはクスっと笑っていたが、私は少し嬉しかったのを覚えている。命に関わる治療に来ているのだから当たり前だったかもしれないが、勝手に信頼関係だと思ったのだった。

nurse3歳
同期は懲りずにまだハンターをしているが、標的は研修医からドクターに移行した。同期の中の一人が目につけたドクターは、マティの事を狙ってると噂がたったドクターだった。
人生の中で時々訪れるモテ期。そういう時は大抵彼とのお付き合いは安定している。浮つくのかどうなのか試されているように感じるが、どんなモテ期が来ようとも、何も動じない安定さだ。そしてその時のその彼は、今のOTTOとなった。
安定とは、他の何をも必要としない、ブレない自分でいさせてくれるもの。当時はそんな事考えていなかったが、今となっては何でもわかる。
結婚後、まるで怖いものがなくなったような気になり、仕事に邁進できた。

nurse4歳
マティ、nurseの次に念願だった母親になる。
5体満足に生まれなかった長男。ただ、生きるパワーとコミュ力は、生まれつき与えられた物だったんだと今だから思える。本当に彼は凄いんだ。手術も乗り越え、育児時間に一年どっぷりとつからせてもらった。

nurse5歳
産休明けの配属先は、内科外来。この時には、ナースキャップは廃止されていた。
外来診察の補助にあたったり、採血点滴ルーム、化学療法室と、日々目まぐるしい。でもここで、採血点滴の技術は確実に磨かれた。また、循環器科と化学療法に興味が湧き、どちらかの道を極めようと同時に必死に勉強した。しかし結局は内科の必要最低限をゆるーく熟知し、認定看護師を目指すところまではいかなかった。
外来看護師は大抵夜勤のできない主婦層の集まりで、同年代から自分の母親くらいまでの幅広い年代だった。子育ての先輩がたくさんいて心強かったのはもちろんのこと、キャラ強めのオバハンも多く、それはそれで楽しかった。

nurse8歳
長男出産後、産後クライシスに陥ったマティ。OTTOには深く申し訳ないと思うのであるが、努力して回復するものではなかった。
長男に弟妹をという一心で、4年ぶりの一発で次男を授かり出産。まぁなんて手のかからない子だ事、と、産後6ヶ月で仕事復帰した。
そこでの配属先は、血液浄化センター(透析)だった。
自分の苦手意識だけで最も避けてきた、勉強すらしてこなかった分野。部署を伝えられた時、初めて「無理です」と言ってみた。が、配属先は変わらなかった。
この時は、腕時計の装着が廃止になっていた。

nurse9歳
何ヶ月経てど、なかなか透析の業務に慣れなかった。外来で鍛え上げた針刺しも、透析の針刺しとはまるで違う。苦手意識のせいで、勉強してもさっぱりわからない。
初めて挫折感のようなものを味わう。
仕事の悩みを打ち明けられずに日々を過ごした。そろそろ夏休みで家族旅行だし、気分転換できたらもしかしたら何か変わるかもしれないという期待もあったから。
そういう時に限って台風が直撃。
旅行が中止になり、浜松のうなぎパイ工場に遊びに行ったのだが、ようやくそこでOTTOに相談する決心がついた。
「うなぎパイ工場で働きたい」
笑われて終わってしまったけれど、私は本気だった。もう、nurse辞めたい。血液から離れたい。ひたすら黙って仕事したい。大好きなうなぎパイに毎日会いたいと本気で思った。

nurse12歳
どうしたことか。いつ、どんなタイミングでこうなったのか。透析nurseとして波に乗っている。あんなに辛かったのに、勉強も仕事もやればやるほど身になっていくではないか。
それとは関係ないが、お祓いに行かなければならない程の本物の霊感を持つ新人さんがきた。今まで先輩たちの数々の体験談を聞いてきたが、それとは比べ物にならないほどの本物を感じた。興味津々で聞くのであるが、その日の夜は怖くてたまらなかった。でも、辛い辞めたいと思っていた日々よりは、断然良かった。
そんなこんなで再び認定看護師の道を進もうとも考えたが、ゆとりない毎日に少し疲れてしまったのがこの時だった。
環境が変わるのは大の苦手だったが、自分にゆとりを作ることが何よりも優先だと思い、初めて勤め先の病院を変えた。
自宅から10分の、病床数300床の総合病院へ。


nurseになって10歳ちょっと。
nurseとしては、咄嗟の判断もままならない、まだまだ頼りない感じ。
私生活では子育てを経験し、今まで持ち合わせていなかった考えや視野が少し広がった感じだろうか。
後の10年、マティはどんなふうに過ごすのだろう。


ーつづくー




noteでの出会いに感謝します
                 ☺︎マティ☺︎

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