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新年早々に、自己肯定感について考える

自己肯定感が高いと私はよく言われる。


違うともそうだとも思わないが
あなたがそう感じるならそうなのかも?
と言われた時は
はいどうも、的に受け取っている。


他人に対して多分意見がはっきりしてて
落ち込む姿を見せないからかもしれないし
自分を責めるということをしないからかもしれない。
(一人の時は極限まで考え込むけどね)


「自己肯定感」という言葉が
共通言語になっているので
わかりやすい言葉として使っているが
私自身自己肯定感が高いか?
と言われたらわからぬ。


ただ、自分の意見を持っていて
他人のあれこれに流されず
自分を責めないから
という定義ならそうなのかもしれない。


決して自分を責めることはないが
自分を疑うことはしょっちゅうしている。


あれで良かったのかな?
もっとできることはなかったか?
こうしたらもっと良かったかも?


これは自分を責める作業ではなく
自分に対して疑問を持ち
自己対話を重ね
ちょっと先の未来の自分のための儀式のようなものだ。


とはいえ、
かつて私も(主に思春期)自分をよく責める人間だった。


なんて私はダメなんだ。
なんて私はバカなんだ!
だから私はポンコツなんだ!
こんにゃろこんにゃろ。
自分をいじめまくっていた。


ストレスで
左半身がブツブツで覆われ
摂食障害にも陥った。


自分が自分を粗末にいじめるから
周囲も私のことをそんなふうに
扱うようになった。


状況はどんどん悪化し
自分が自分でいることが心底嫌になった時
きっかけがなんだったか忘れたが
ある時気づいたのだ。


自分を責めて、自分を蔑んで
これって、逃げなんじゃないか?と
自分を生きないことは
自分への裏切りなのでは?

自分が嫌なことは自分が嫌だと言わなければ
一生伝わらない。
自分が良くなりたいなら
自分が動かねば何も変わらない。



そんなふうに思った。(啓示?)


テストの点が悪くて
あ〜全然できなかった。
もうダメだわ。
どうせ勉強したって無理。点取れないもん。

先生が優しい問題を出してくれるか
誰かが答えを教えてくれるかしないと
一生いい点なんて取れない。


で嘆いてまた同じことの繰り返し。
自分を責めて同じ場所から動かない。


これに似ていると思った。


自分への諦めみたいなものが
自分を責めることに似てると
そんなふうに思ったのだ。


自分がどうしたいのか?
を持っていなければ
ただ状況を嘆くだけで終わる。


だけどちょっと先の未来を
どうしたいか?に視点を変えた瞬間
嘆くだけで終わっていた
その失敗たちは有益なデータに変わると確信した。


大勢に多大なる迷惑を被る失敗は
しないに越したことはないが
最善を尽くしたのちの
失敗は多少は仕方がないと割り切ることにして
ちょっと先の自分が
今よりも成長していればいいと
そんなふうに思った。



自己肯定感とは
自分を肯定する、認める
そういうことではなく
自分が健やかに過ごすために健全でいられる感覚
そんな感じではなかろうか?
と思っている。


正しく自分を批判し(真偽、可否の審議)
客観的に自分を分析し
その上で自分の意見を持つ。
否定(打ち消すこと)をするのではなく
建設的に思考を巡らすことが
自己肯定感が高い状態
なのかなぁと改めて感じた。


そしたらこんな動画見つけた


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