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【考察】神社と八百万の神について


ある時、僕が友達と神社に行った時、
小さな男の子が父親に
こう尋ねているのが聞こえてきました。
「ねえねえ、神社とお寺って何が違うの?」

父親はこう答えていました。
「神社は神様、
お寺は仏様が住んでいるんだよ」


子供はさらに質問を重ねます。
「神様と仏様ってどっちが強いの?」

父親は言います。「神様かなぁ」と。

ほっこりする会話です。

僕はこの会話を聞いたあと、
改めて日本の神とはどんな性格なのか
気になりました。
そこで、少し調べました。

今回は、単に僕の中の整理として、
「神社と八百万の神」について纏めようと
思います。

1、神社で祀られる神とは何か

結論から言えば、
神社で祀られる「神」とは
「八百万の神」です。

また、ここで指される「神」とは、
キリスト教の「神」とは全く別のもの
ということには留意が必要だと言えます。

このような相違については詳しく
後述しますが、本項では以降、「八百万の神」
を「神」と称することとします。


まず、「八百万の神」とは
『千と千尋の神隠し』の湯婆婆が
「ここは八百万の神様達が
疲れを癒しにくるお湯屋なんだよ。」

と言っていた「八百万の神」と同義です。

ちなみに、八百万というのは
その名のまんま800万種類の神様
いるということです。

作中では、謎の生き物たちが
お湯に浸かったり、踊ったりするシーンが
たくさんありますが、
それら全てが神社で祀られるなのです。

また、このような神の正体は何かというと
「自然」です。

日本は古来から、山、海、森や木などの
自然界に神様が宿ると信じ、
自然を拝み共に生きてきました。

また、山や川に限らず、田んぼの神様、
厠の神様、台所の神様から米粒の中にも
神様がいると捉え、
それらに敬意を向けてきました。

『千と千尋の神隠し』で絶大な人気を誇る
ハクが「琥珀川」という
小さな川の神様であり、
身体中泥だらけの「腐れ神」
「名のある川」の神様であったことからも
想像されると思います。

また、腐れ神の体からは、自転車やタイヤなど
人間が捨てたゴミが身体中にくっついて
しまっていました。
作中では、
千たちがそれらのゴミを引っ張り出し、
川の神は元の体に戻り、
自分の住処へと帰りました。
このシーンは強いメッセージに感じます。

大自然に神が宿ると信仰することは、
自然の中で、ポイ捨てをやめよう。
水を汚すのはやめよう。伐採はやめよう。
と自制するのにも繋がります。
このシーンからは、僕自身、人間と自然の関係を改めて考えさせられました。

このように自然として信仰したことは、
日本人が古来から自然に対して
感謝敬意というものを忘れなかったという
価値観がよく表れています。


また、時として自然は荒れ狂い、
地震・火山・台風・津波などがおきます。
とりわけ、こうした自然災害は「神の天罰」
として受け止められました。
「神々を忘れ侮ったときに、
天罰となって人々を戒める。」
とした思想です。

古来、日本人は自然の恵みへ感謝を
捧げると共に、自然への無力さを噛み締めて
信仰していたということでしょう。

日本人は山や森そのものや、
森の奥に住む存在を常に身近に感じて、
崇拝したり畏れたりしてきたことが
よくわかります。

また、目に見えぬ自然を神として祀り、
時として現れる動物に対しても
「神の使い」と信じて敬う。
そのような信仰が日本独自の価値観として
発展したのです。

僕たち自身、大自然や絶景を目の前にして、
スケールの大きさ圧倒される何か
感じることがあれば、
それがいわゆるなのかもしれません。

2、神社とは何をする場所か

さて、次は神社についてです。
神社には願い事をするために行くと思っている方が多いのではないでしょうか。
もちろんそれも神社に行く一つの理由ですが、それよりも大事なことがあります。

同じく結論から言えば、
神社に行く最も大切な理由とは
日々の感謝を神に伝えに行くことです。

上で縷々述べてきたように、
古来日本は自然とともに生きて、
ありとあらゆる自然の中に神様がいると
信仰してきました。

自然は容赦なく干ばつや大雨で
苦しめてくる反面、
豊かな実りをもたらし、
人を生かしてくれてきたのです。

人も自然の一部だということを認識し、
生きていられることは
自然の恵みであり、神のおかげであると、
その感謝を伝えに神社に行くのが
本来の目的ということです。

従って、神様に感謝を伝えに行くついでに、
ご利益を願いに行く。
そのようなスタンスを大事にした方が
よさそうですね。

正しいかわかりませんが、ある本を読むと、神社とは神様を閉じ込める施設であるとする解釈もあるようでした。また、閉じ込められた神様が退屈しないように神輿に神を乗せて街を紹介し、相撲や舞は神を楽しませることを目的としているとされていました。
これに関してはソースが不透明なので、頭の片隅に入れておく程度で。

3、日本の神とキリスト教の神の違い

まず、キリスト教の神と日本の神を
英語に訳すと、
前者は「God」、後者は「deity」です。

ちなみに、日本の神社の英語表記では、「kami」と訳され、
やはり「God」とは異なるものとして
定義されます。


まず、「God」というキリスト教の神は、
世界にただ「1」の存在です。
仏像と違い、姿はありません

「父なる神(father-god)」とも呼ばれ、
全知全能の力を持った絶対者として
信仰されます。

また、人間という存在も全知全能の神が
作り出した創作物という理解になります。

さらに、神を全知全能と捉えるということは、
人間の受ける幸福不幸も全て神の計いである
と認識するということです。

つまり、キリスト教の人たちは、
良い友人と出会えたり
何か怪我をしたりするなどの何気ない
生活すべてを神が運命的に決めたもの
として受け止めるのです。

「oh my god」(オーマイガー)
という言葉を、英語圏ではよく聞きます。

驚く時、嘆く時、感激する時すべてで
使われているオールマイティな言葉です。

日本語にすると
「おお、神よ」
→(なんでこんなことするんですか!?)
→(よくぞやってくれました!)
となります。

やはり、語源として、
全知全能の神が全てを決めているという思想が
よく表れた言葉と言えますね。

対して、日本で信仰される八百万の神たちは
全知全能ではありません
日本の神々の性格は悩んだり嫉妬したり、
人間くさい部分があります。

日本の神々についての詳細は、
『古事記』に載っており、
YouTube等で概説されているので
見てみると面白いかもです。(丸投げ)

いずれにしても、
神が最初から物質的に存在して、
それを信仰した
ということではなく、
自然に関する尊さ、感謝というものへ
意識を向けさせる存在として、
人間の主観のうちに神が存在する
ことになった
というのが歴史的な根本なのだろうと
僕は解釈しました。

おわりに

このグラフを見てみてください。

これはそもそも、
「神」の定義が違っているため、
比較になっていないとは思うのですが、
このグラフを参考にするならば、
少なくとも、日本人は神(自然)を敬う精神が
低いという印象を受けます。

とは言っても、僕自身、このアンケートに回答するならば、④につける気がするのであまり強くは言えませんが。笑

現代人は、神と聞くと嫌厭しがちですが、
こうして、神社で信奉される神が
何なのかということを改めて調べてみると、
神という存在が、決して嫌厭するような
胡散臭いものではない
という理解になると思います。

むしろ、こうした古来からの
価値観を改めて受け止めて、
自然の存在を感じて神に感謝を向けることは、
人生をより豊かに、尊く、人間らしい本能的な
生活に戻すことへ繋がるのではないかと、
僕は思いました。

みなさんはどう感じるでしょうか。

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