見出し画像

僕の実家の物置には、ガスマスクがあった。〜戦争が父と僕に突きつけた現実〜

「雨が好きだ。心が落ち着くから。」

6月生まれ。好きな天気は雨。好きな花は紫陽花。

そんな父は、日差しのような人だった。
ギラギラした夏の太陽ではなく、ポカポカした春の日差し。穏やかで、安定していて、暖かい。

そして雨と紫陽花が好きなのに、彼は人生の2/3を中東で過ごすことになった。

「県内高校対抗駅伝大会で区間賞を獲得、体育会系野球部から総合商社」と聞くと、いかにもゴリゴリな古いタイプの男臭い人物像が想起される。

しかし実際の父は、穏やかで物腰柔らかく、腰が低く丁寧、いついかなる時も感情的にならず明るい、そんな人物だ。
SNSではクスリとさせるような自虐をたまに上げているようだ。

父の同世代の、父の周囲にいる女性たちは、女性らしかった。女性らしく振る舞い、男の人をオトコとして扱う。そういうものとして生きてきていた。

しかし彼女たちは、他の男性と違い、父と接するときは"ヒト"になった。自然体で、リラックスしていて、対等な人として父と接しているのが伝わってきた。父は心を開かれていて、信頼されている。ボーヴォワールに見せてあげたい。

僕がある日彼とランチしている時、ジェンダーの話をした。すると、仏教からプロテスタントに改宗した彼は聖書の一節を出し、男女が対等に扱われていないと読み取れる部分の存在を紹介してくれた。自分の信じている宗教の聖典にさえ、思考停止せず、本当に正しいのか問いながら丁寧に読み取っている。

本来、それが当たり前で、褒められることではないのかもしれない。でも居酒屋に入って下品なオジサンたちの話が耳に入ってくるたびに、確率的にいえばこんな父を持てているのはありがたいことなのだと実感する。自分の父が外であんなこと言ってたら本当に嫌だな。
自分が将来父になったら、同じようでありたい。

穏やかで、謙虚で、冷静で、平和的で人に安心感を与え警戒させず、それでいて物事に油断がない。まるで古武士のよう。

人種や性別に関係なく、その人ひとりひとりを見る。そういう人だった。

そんな父が発したある言葉。彼が唯一、性別を主語に話したフレーズ。
僕は今でも、答えが出せていない。

父が日本にいたのは年に3回ほど。一回につき最大で2週間。それ以外の期間は、中東のどこかの国にいた。家には僕と弟2人、そして母親が残された。

日本を出発して現地に戻るとき、玄関で毎回、僕の肩に優しく両手を置いて言った。

「家族の男の中で一番大きいんだから、ちゃんと家を守るんだよ。」

文字通り、「戦え」という意味だ。
いざという時に戦う覚悟を持たなければいけない。諫山創が漫画で描いた通り、戦う覚悟を持たなければ精神の自由を奪われ人間は家畜になってしまう。なぜなら強い者はいつだってその力を振りかざしてくるからだ。

日本は決して暴力が少ない国ではないが、死や暴力を「意識させられることは少ない」国ではあると思う。

一つは戦争。もう一つは泥棒などの犯罪。

(そしてそれ以外の暴力、すなわちDV、性暴力、パワハラ、いじめ、体罰などはその言葉の通り「暴力」とは違う言葉に置き換えられて矮小化されている。)

が、父は海外が長かった。戦争などの国家間衝突と、窃盗などの身近な犯罪その両方のリスクがすぐそこにあった。
そしてそれは僕にも目に見える形で現れていた。
何より、湾岸戦争がなければ僕はこの世にいなかった。駐在先が危険になり、外務省から帰国勧告が父の会社に来た。帰国しても、肩書きは駐在員なのであまり仕事がなく定時帰りでヒマしていた。そんな中で父は母と出会った。

僕の実家の物置には、ガスマスクがあった。

ガスマスク。35年前くらいに作られたものだ。アメリカ製。

父の人生は、戦争とか国際情勢とかに翻弄される人生だった。

日本という、法治国家の中にいれば、暴力や盗み、ぼったくりがあれば司法が動く。
しかし国際間にはそれが成立しない。世界警察も、世界法も、世界裁判所も存在しない。

条約違反や侵攻が起きても、助けるメリットがなければ誰も助けてくれない。なんなら国同士の約束が、その国の間の力関係によって決められてしまう。そんな理不尽で残酷な、弱肉強食が発生しているのがこの世界だ。
国家間は無法地帯。これを外交の言葉で言えば「国家間は無政府状態」と呼ぶ。宇宙人の侵攻でもない限り、当分の間人類は、統一の統治機構を持たないだろう

====================
(上の記述に疑問を抱いた、厳密な議論が好きな方向け。全部読み終わってから読むといいかも)
・「国際法って世界法じゃないの?」→立法機関も、執行機関もない。慣習で成り立っていて、全ての国に拘束がおよぶわけではなく、それぞれの国の合意による。破られたことへの罰則も実効性がない。
・「アメリカは世界の警察ではない?」→ジャイアンや親分、王様のような存在。力があるだけで、ルールを持ってアメリカに対抗する制度はない。国の中で言えば警察権力は民主主義のもとの統制下にある。
・「助けるメリットがない」→ロシアとウクライナで騒がれるのは、ロシアの拡大が主要国(強国)の多くに影響があるから。アフリカに多数ある紛争は、日本にとってメリットがないので報道すらされない。
=====================

日本の、警察をはじめとする公務員は、高くない給料にも関わらず勤勉だ。チップを渡さないと動いてすらくれない国もザラにある。動いても動かなくても給料が変わらないのに動いてくれる日本の公務員には、感謝すべきだろう。

パスポートや金を服の下に身につけておき、愛想のいい人を見れば警戒する。それが海外の「普通」だ。

そんなこんなで、父は国際間の理不尽さ、身近な理不尽さの両方を見てきた。

自分の身を守れるのは、最後は自分しかいない。
僕は気づけば、道を歩いている時、後ろを取られないように歩くようになった。電車の中で寝るときは貴重品をカバンに入れ、カバンの持ち手を手や足に絡めるようになった。ホストクラブを辞めるとき、脅される気配を感じたので傘を持って行った。

戦う覚悟と、警戒心を持ちながら生きる。

しかしその現実は、正しいのか。

子どもは?女性は?乙武さんのような人は?

僕はフェミニストであるための努力を決して諦めたくはない。でも一方で思う。レストランに入って座るたびに、「もし強盗が入ってきたら、戦わなければいけないのは自分だ」という思い込みが頭をよぎる。そして入り口に近い席を選んでしまう。

「もし仮に吉田沙保里と食事をすることになったら、入り口に近い方の席に彼女に座ってもらおう。そう、これはあくまで性別による役割ではなく、個性による役割なのだ…」と思うことで自分を納得させている。でもなんか、モヤモヤする。

「強くならなければ生きていけない」はおそらく正しくない。優しくない。力でまさるのではなく、お互いがお互いを思い合い助け合うことによる共存がいつか人類はできる日が来ることをまだ信じている。そして女性議員が増えたら、その日は近づくんじゃないかと思っている。

そう思いながら、この社会の構造がほとんど見えてなかった小中高大と、僕は強くあろうとして生きてきた。心にモヤモヤを抱えながら。

そして複雑なことに、僕に一番最初に暴力を向け、僕が一番最初に戦わなければいけなかった存在は、同じ家に住む本来守るべきはずの、実の母の拳であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?