今日は何のひ?昨日は何のひ?暴力にちなんだ日。では、明日は何のひ?

7月28日。午前7時頃。ベッドのなか。僕は浅い眠りから目覚めようとしていた。

夢の中で、母親が何か言っている。何か理不尽な要求をしてきたので、僕は拒んだ。
だんだんと母親の声が荒くなる。ついに僕が干したはずの洗濯物を外してきて、床に叩きつけた。

そして、母親が右手を振りかざしてきた。(母親は左利きなはずなので、奇妙だ…)

その瞬間、僕が発した言葉は、夢の中にしてはよく覚えている。

「待て!(待って?)、暴力を振るうことはお母さん自身にとってもマイナスだ。殴るなら僕も殴り返す。暴力を振るうということは、相手が暴力を振るうことを肯定することになる。それで困るのはお母さんの方だ。
僕は納得すれば、ちゃんと言われた通りにする。だから話し合おう。」

母親はブツブツと何か言いながら風呂場の方へいなくなり、シャワーを浴び始めた。
僕はシャワーの音を聞きながら、意味もなくキッチンの蛇口をひねった。
運動したわけでもないのに、ハア、ハアとひどく息切れがした。
僕は剣道部だった。そして空手とボクシングの基礎がある。でも、シンプルに、怖かった。

考えごとをしながら、僕は徐々に目覚めた。

・なぜ僕は強者側なのに、怖いのだろう。
学生の頃、性加害を受けそうになったときの感覚に似ている。(誰かのトラウマを起こさないよう詳細を伏せる)
力で絶対に勝てるはずの相手からその感情を向けられた時、自分は頭が真っ白で動けなかった。
「痴漢された時、体が硬直して動けなかった」という話をよく聞くが、その気持ちがわかった。
詳細はこちらのツイートにまとまっている。
https://twitter.com/rakuACT/status/1657964006907482112?s=20
「身体が負傷することではなく、人として言葉を封じられることそのものへのの恐ろしさ」っていう、今では言語化。

・なんで寝ぼけているのにあんなセリフがスラスラと出てきて、しかも正確に記憶できているのだろう
乙武さんだ。
1年前、乙武さんは国会議事堂の前で叫んだ。
「むちゃくちゃ怖いよ!!暴力を肯定してしまったら、手や足のない僕はどうしたらいいんだ!!女性や、子どもはどうしたらいいんだ!!」

乙武さんは、作家でありタレントだ。会話の切り返しは早いけど、いつも伝わりやすいように、誤解がないように、問題発言にならないように、彼の言葉は丁寧に練られている。本音を言えなかったり、言い回しを工夫したりとストレスだらけだろう。

が、デモの時の彼のこの叫びは編集一切ゼロ。魂の奥の奥から湧き出てきた、彼の本気の叫びだった。
腹の底どころか、おしりの方まで彼の声が響いた。
内臓がビリビリと揺さぶられた。「どうしたらいいんだ!!」の9文字は雷の余韻のように、僕の耳にずっと住んでいる。

乙武さんのことを考えていたら、意識がはっきりした。午前8:30。
そこで現実に戻る。今日の日付は…

7月27日、つまり昨日は。母の誕生日だった。
僕はプレゼントを贈ったこともないし、LINEもやっていないことになっている。母にLINEなんて教えたら面倒だ。
そんな僕は昨日、メールのタイトルに「おめでとう」とだけ書いて送った。祝ったのは初めてだ。
年老いて穏やかになった母からは嬉しそうに、近況報告やらなんやらの返事が来ていた。文章長かったので返してない。

そんな7月27日。実はフランスの歴史で重要なことがたくさん起きた日なのだ。
フランス革命期、テルミドールの反動が起きた日。ロベスピエールをはじめとする様々な革命指導者が死亡した。
ちなみにテルミドールは7月を意味する。

7月革命が起きた日でもある。ブルボン復古王政が倒れた。

ゴッホが自殺を図った日でもある。

あれ、今日は…7月28日は、僕の最初の彼女の誕生日なのだ。
そして同時に、1914年にオーストリアのセルビア宣戦布告で第一次世界大戦がはじまった日でもある。
受験で頭がいっぱいだったちょうど10年前のあの日、「不謹慎ではあるんだけど…」と僕が始めた戦争の話を彼女はうんうんと聞いてくれた気がする。

チッ。僕はひとりで舌打ちをした。革命に戦争。記念日とは血に関わるものばかりだ。いや、歴史ってそもそもそういうものなのか。

なぜ自分がこんなに日付を覚えているのかというと、戦争映画ばかり見ているからだ。
現在65歳の父は、戦争や外交情勢にそこそこ影響を受けた人物だ。
僕は湾岸戦争がなければ、この世にいなかった。

父の仕事の影響で住んだ中東は、まあそれはそれで天国だった。
ランドセルだったりリュックサックだったりと好きなもので通い、朝の会ではスピッツのチェリーを歌っていた。
僕の同級生が「あたしスピッツが好きなんだー!」とみんなに紹介し、全員で合意をとって決めた。

日本に帰国したら、なんか地獄だった。
ランドセルの売っていない季節。規則ではなく風習に過ぎないと学校の確認を取った上でリュックで通えば上級生に意地悪をされた。
朝の会の歌は先生が決めた、忍たま乱太郎の「勇気100&%」だったりした。
ブラック校則という概念もない中、よく僕は自分の中の違和感を信じ切れたなと思う。
学校に持ってきてはいけないものを持ってきて、わざと先生の前で出した。注意されたのに対して言い返し、論破してしまった。
学校から家へ連絡がゆき、家の玄関を開けたら待っていたのは母親のパンチだった。

小学生の僕は、筋トレをした。毎日友達とボールを追いかけて、体力をつけた。
ボクシングをやっているクラスメートとプロレスごっこを休み時間のたびにやった。
母親のパンチが僕に届かなくなった頃、権力者と戦うためには物理的な武力ではなく、知能やら肩書きやらが必要だと気づいた。大嫌いだが勉強した。

さて、疲れてきた。本当は父についても書きたい。が、今度にする。
人格者で周囲から慕われ、あらゆる能力をもち、決して差別をしないポカポカしたおひさまのような人。
穏やかで争いを好まない彼だが、それに似合わない言葉があった。その言葉はきっと、外交や戦争のような理不尽を知ったから出てきた言葉だと思う。彼の言葉の通り、僕は強くあろうとしてきた。
去年の7月に国会の前で、乙武さんの叫びを聞くまでは。

これについては、来週の8月2日にでも書くとしよう。33年前、湾岸戦争が起きた日。
僕の実家の屋根裏の物置きには、非常用のガスマスクがあった。

<余談>
ちなみに4年前の今日ちょうど、その元カノと銀座線で同じ車両に乗っていて再会するというマンガみたいな偶然が起きた。高校生らしい不器用さとか当時の後悔とかを全て笑い飛ばし、カラオケに行き19時で解散。気持ちよくスッキリと終えた。翌年彼女は結婚した。

朝なので爽やかな後日談で締め括りたい。

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