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【教育・子育て】「せかいじゅうのこどもたちがいちどにうたったら」が叶う世界にするために、先生ができること ~自閉症スペクトラムグレーゾーン当事者が感じた「がっこう」のしんどさを振り返って~

”せかいじゅうのこどもたちが
いちどにわらったら
そらもわらうだろう  ラララ うみもわらうだろう♪

せかいじゅうのこどもたちが
いちどにないたら
そらもなくだろう ラララ うみもなくだろう

とどっけよーう ぼくらのうーたを
とどけよーう ぼくらのうーみを
とどっけよーう ぼくらのゆーめを
せかいに にじをかけよう

せかいじゅうのこどもたちが
いちどに うたったら

そらもうーたうーだろーう
ラララ うみも うたうだろう”


この歌は、先日12年の送迎を卒業した保育所で、発表会か何かで毎年一度は聴いていたのだが、大好きだった。子ども達がときどき調子をはずしながらも一生懸命これを歌うと、毎回涙腺が緩んだ。


世界中の子どもたちが、一度に歌うために、わたしたち大人は、何をしたら良いのだろうか?


ぜひ、時間を取って考えてほしい。


世界中の人が、子どもの頃の夢や希望をそのままに実現し、ありのままを認められ、お互いの得意なところやできないところを支えあいながら、歌うように毎日を生きる世界にするには、あなたには何ができるだろうか?



わたしのこたえは、こうだ。

自分の子どもの頃の傷を、次の世代に引き継がないように、己を知ること。

知ったうえで、それを人のせいにせずに、出会った人の助けを求めながら、自ら傷を癒してゆくこと。

それにきっちり向き合いながら、目の前の仕事に淡々と精進すること。

じぶんの手が携わっているものごとの顛末をちゃんと想像し、その先にいる人間の息遣いに思い致し、自分ができる限りのサービスを、下手でも良いからすること。それによって自分の口に糊すること。



これができるようになるには、自分という人間を形づくる心理を培ってきた、発達に関する知識や養育者の関わり方を、経験や、少なくとも知識として身に付けることが、必修科目なのではないか、と、最近、いろいろあって確信している。ちょっと長いが、経緯と共にまとめてみる。

私と同じく自閉スペクトラムの濃いめのどこかの長女が、数年前、小学校の集団生活に馴染めなかったことがあった。

時を同じくして、「お母さん」劣等生の私が、ワンオペ家事育児と仕事の負担に文字通りおののいていたら、近所の人が児童損男女にいわゆる通報してくださり、どうしようもなく困っていることを相談員の人が分かって下さり、そこからその児童相談所がやっている「発達障害やその周辺にいる子どもを育てる親のためのペアレントトレーニング」を受けることになった。

ペアレントトレーニング、略してペアトレを半年受ける中で、どちらかというとそこで習う発達障害の知識や方策が自分を理解する鍵になることに気づき、昨年までの二年間、筑波大学の障害科学類の科目等履修生として、発達障害について学んだ。

講師として普通高校の教員になって数年、自分自身が受験を頂点とするような学校教育の形やもろもろに馴染めないのを感じており、きっと同胞のいる特別支援教育なら、受験に振り回されることもなく、一人ひとりに関わることができるのではないかと、特別支援学校教諭免許の免許課程の科目を修めていく形で、学んだ。

ペアトレが依拠している「応用行動分析」という学問の理論と応用の科目を取り、子どもへの声がけやかかわり方を学び、目の前の長女との毎日のやりとりで気を付けるようになった。今までかけてやれなかった目を、そのかけ方を学んで、また自分自身への理解が進み、自分自身が落ち着くことで、長女にかけてやることができるようになった。

それは本当に、ここ数か月のことである。娘とのやりとりのチャンネルが、お互いが落ち着くことで、確実に開いて、一つひとつのやりとりが、心が通じていると感じられ、小さなことがこんなにも嬉しいものかと、驚いている。

それには、娘に関わってくださった学級の先生方のお力添えも多分にあって、それは丁寧に、急かさず、よく見て関わってやることによって、確実に実りへ近づいてきた。まるで、栄養と太陽の光を受けた蕾が、その内実を膨らますように。

彼女の変化を間近で見ていて、人は、声がけや話の聞き方によって、こんなにも変化するのか、というのを、思い知らされている。

少し、話を具体的にしたい。

たとえば、自分の子どもの私物が床に散らかっていて、それがパジャマだとして、盛大に脱ぎ捨ててあったとして、あなただったら何と声をかけるだろうか?

ちょっと考えてみてから、一番近いものを下から選んでみてほしい。

A) 面と向かって「パジャマ片づけなさいよ」

B) あさっての方向をみながら「あらー?こんなところに落し物があるなー…どうしようかなー?」

C) 「パジャマはこんなふうにしちゃいけないって知らないの?パジャマはちゃんとたたんで、〇〇に置いておかなきゃだめでしょう!」

そのうえで、これらを下記の四つの軸で整理してみることで、周囲の人の関わり方が子どもに及ぼす影響が明白になるので、試みてみたい。

【①行為への言及か・②人格への言及か】
【③肯定か・④否定か】

A) 面と向かって「パジャマ片づけなさいよ」
 は、①の行為への言及であり、否定か肯定かで言えば、ニュートラルだ。ただ、これで子どもが大人の指示通り片づけたからといって、本人が身に付けたのは「指示に従う力」である。果たして「指示に従う力」は、わたしたちが、わたしたちの子ども達に、身に付けさせたい力だろうか?

 また、たとえばAに「こんなところに置いてちゃダメでしょ?!もう」パジャマ片づけなさいよ、と一文加えるとどうだろうか?
 これは、①行為への言及×④否定 のパターンであり、仮に(A') として、パターンA’を、自分が上司から浴びせられつづけることを、想像してみてほしい。自分の能力に自信をなくし、その時点の心の免疫力次第では、だんだんと自分という人間にすら、自身を失っていってしまうのではないだろうか。

B) あさっての方向をみながら「あらー?こんなところに落し物があるなー…どうしようかなー?」

パターンBは【①行為への言及か・②人格への言及か】【③肯定か・④否定か】のすべての軸に対してニュートラルであり、本人の行動への否定が含まれていない、ということは特筆すべきだと思う。

「本人に気づかせる」「本人の行動」を促すために、どんな声がけができるか、ちょっと立ち止まって考えたい、と思う。

じゃあ、(B)の結果、子どもが「ああそう、やるんだったー」と、さっさとパジャマを片したとき、すかさず「あれ?こんなにきれいにたためるんだ!知らなかった。しかもすぐやってくれてうれしー^^!」と声をかけたら、明日以降の朝、パジャマを脱いだ子どもが、それをたたんで定位置に置こう、というのが頭にのぼる可能性が、若干でもアップする感じがしないだろうか?

「よいところに着目して、それに注目を与える」

は、前述のペアトレで習った一番のエッセンスだ。

加えて、ペアトレのもう一つのエッセンスは、悪いところには注目しない、つまりスルーする、ということだ。「注目」はいかなる注目でも、つまり肯定的なものか否定的なものかに関わらず、それが与えられた行動を強化する、というのは、一般的に知られていないが、学問としては立証されている、だから結構、少なくとも私にとっては、衝撃の事実だった。

つまり、子どもが騒いでいて「それはやめなさい」と言ったとしても、その言葉がけは注目にあたり、だから子どもの騒ぐという行動は、「注目を得られる(自分にとって)望ましい行動」として強化される。

わたしたちひとは、こんなにも、他者から見ていてほしいし、どんな関心でも持ってほしいという切実な欲求をもって生まれてきているのだな。このセオリーを知ったとき、胸が痛くなった。

C) 「パジャマはこんなふうにしちゃいけないって知らないの?パジャマはちゃんとたたんで、〇〇に置いておかなきゃだめでしょう!」

これが、【①行為への言及か・②人格への言及か】【③肯定か・④否定か】でいうところの、①の行為×④であるのは明らかだが、「知らないこと」の主語への強い否定や、「だめでしょう」の主語のあいまいさが、②の人格への言及の輪郭か、その内側に入ってしまっているのに、気づいていただけるだろうか?

これを聞いた子どもは、知らない自分を恥ずかしく思い、自分をだめだと思い、親に従うことでのみそれを回復しようと努めるでしょう。

そして、それをたまたま満たせず、そこにふたたびこうした人格への否定が少し「乗ってしまった」言葉がけが「たまたま」重なって、それが積み重なったら?そして、その悲しさや苦しみややるせなさを、そのままに受け止め、表現することを手助けしてくれる他者が近くにいなかったとしたら?

――その子どもは、心の満たされなさを抱えたまま、それが何なのかも分からないまま成長してゆき、心のその部分は蓋がされたまま塵がつもり、やがて層を成し、心全体のドアさえも拗ねた二枚貝のように固く閉じてしまう。

今朝、小学生の頃のことが、こんなにも、じぶんのなかに傷として残っていたなんて、と自分でも驚くような瞬間があり、その時の自分は胸が怒りと憤りでワナワナして足もがくがくして立っていられず、完全にフラッシュバックで退行していた。

大人にとっては、まして忙しく大人数の相手をする先生にとってはささいなことでも、子どもというのはその弾力のままに受け止めて、深く抱え込んでしまえる。そういうことを、身をもって知らされたできごとでした。


私は問いたいのです。

あなたが、親として、教育者として、近所のおじちゃんやおばちゃんとして、子どもに求めるのは、「従順であること」ですか?

"Ah, look at all those lonely people"

は、ビートルズの何かの歌の歌詞だけれど、まさに、クレームじじいも、いじわるでけちんぼなばばあも、見栄っ張りで権威や地位ばかりが拠り所のおじさんも、裏で同僚の心を操るばかりが趣味のお局さんも、結局はさびしい、満たされない、可哀そうな人なんだと思う。

そんな大人がそうなってしまったのは、小さい頃に周りの大人たちから扱われた何かが必ず干渉していて、だからその小さなボク・あたしをそのいかめしい面や見てらんない位嫌味な顔つきの奥に認めることができたなら、

相手を攻撃しようなんて気には、到底ならないだろう。相手の根本は、5歳やそこらで止まっていて、そこに頭脳や体ばかりが発達してしまったのだから。こころを置いて。そんなのが常套になってるこの社会は、やっぱりおかしい。

大人はみんな、子どもの心を取り戻しに行かなくちゃいけない。
取り戻した人や、だいじに滋養を与えられることを許された人たちがその音頭を取って、世界中のこどもたちがいちどに笑える世界をつくってゆく。

この世を去ってゆくときに、子々孫々に、じぶんのときよりも少し豊かな世界を残すことができたら、それは不死の鬼になるよりも、さぞかし心愉しかろう。

豊かな未来にこそめがけて矢を。

ゆめゆめ自分可哀そうさに、同胞になぞ向けるものではないぞ、と思う。
愚かな権力者のいかに多いことか。

翻って、教育の場こそ、世界中のこどもたちが笑える世界づくりの先頭であれ、と思う。幼稚園や保育園だけじゃない。

小学校も、中学校も、高校も、大学も。

どのような子どももその子独自の尺度を用意され、そこでの成長や達成や喜怒哀楽を認められ、好きなこと存分に伸ばすことのできる支援と、環境を。

自分の自尊心のために誰かを蹴落としたり蔑んだり、自分の癒せていない心の弱さを子どもへの立場で埋めようとするような人間は、謹んで教壇から降りていただきたい。

一生懸命やるのは、人の要求を満たす練習をさせることじゃない。
だったら、私たち教員がその先頭を切らなくちゃ。

先生は、人に言われたことをやるんじゃなく、教員である前にあなたという人間がもって生まれた使命を達成すること。

体面やいかなるコストのリスクにかけても勇気をもって淡々と挑み続ける、それこそ美徳であり、そういう背中を見せたらいいと思う。

完璧に答えを暗記する先生、なんて、AIに任せとけばいい。
不完全で全然オッケー、この在り方が教育現場にもっとあったらいい。
(そういう機運を、わたしはばっさばっさ運びたい)

他方、自分の人としての研鑽も小手先だけで、子どもに指図ばかりしてるようでは、せっかくの原石を無駄に削ぐのみ。

即刻、職員室からも教育界からも足を洗って、一般社会で修行していただきたい。経済的にも自尊心の面でも、一度辛酸を舐めてみて欲しい。「努力してもできない」「努力しようと思っても環境が許さないでここまできた」人がいることを、ちゃんと、理性かからだで理解しない人は、分別があるなら教壇に立つ資格がないと自戒していただきたい。

細やかで感じやすい心は、その弱さを怖気ずに見せる勇気を持つことで、最大の魅力になる。

どうぞ、魅力ある先生になってください。周りの自分より年若い人に、失敗談を聞かせてやってください。こころの兜を脱いでください。成功譚など、求めてません。

人間としての成熟を目指す謙遜の権化のようなあなたに、わたしたちは教わりたいのです。いいですか、ちゃんと失敗して、ちゃんとそこから学んでください。

人間のあなたに、一人の人格をもった人間として認めて、一緒に善い方向へ成長したいのです。


世界中の子どもたちとして、一緒に歌いましょう♪





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