「狂気のタックスヘイブン」としての創作

先日私が書いた音楽ゲームの記事について、非常に熱いリプライnoteを頂きました。

私の作品なども引き合いに出して頂き、誠にありがたい限りです。

こんなに丁寧な返歌をいただけるとは思ってもおらず(そもそもあの雑noteをこんなちゃんと読んでもらえるとは思っておらず)、せっかくなので私もこれを受けてビビッときたことなど書いていこうかと思います。

kqckさんは上のnoteでダンスを客体的/主体的なものに分類しており、氏の「ダンスはMVである」といった論は客体的(視覚的)な側面、私の「散歩も創作だ」という(暴)論は主体的(身体的)な側面を取り上げた議論になっているわけですが、以下ではその身体的な側面についてもう少し深掘っています。

具体的には「なんでダンスなんかするんだ」という疑問と「じゃあダンスゲームにおける譜面の価値ってなんなんだ」という疑問に取り組むnoteです。

身体的な衝動

映画『レオン』で名悪役スタンスフィールド(スタン)がドラッグをキメながら人を撃ちまくるシーンがあるが、ドラッグをキメた直後のスタンはぎこちない動きをしたり、唐突に指揮を振り始めたりする。これはスタンの「狂気」の演出であると同時に、抑えきれなくなった「内なる衝動」が身体と結びついて表出している描写でもある。そして、スタンほどではないにしても、我々だって常に身体的な衝動を携えて生きているように思える。例えば、100均で陶器の棚を見ながら「全部床に落としてめちゃくちゃにしたいな……」と思ったり、静まり返ったコンサートホールで「いま絶叫したらどうなるかな……」と妄想したりする。いやもっとシンプルに、ノリノリの音楽を聞きながら道端でダンスしたくなったりする。これらはすべてスタンが表出していたのと同じような「内なる衝動」ではないだろうか。しかし、我々は社会に生きる人間なので(あとドラッグもキメてないので)100均で暴れることもホールで絶叫することもしないし、道端でダンスすることも……小躍りくらいはするかも知れないけど……基本的にしない。それは、それらの衝動が客観的には「狂気」と映るだからだ。我々の生きる社会は「理由なき身体性」を狂気として認定する。だから、道端で踊っている人や、絶叫してる人や、ヘドバンしている人がいたら社会的には「ヤバい奴」になってしまうのだ。しかし、我々は「狂気」を避けて生きている(「ヤバイ奴」になりたくない!)のと同時に、その狂気のもとである「理由のない身体的衝動」(踊ったり叫んだりしたい!)を常に抱えて生きているという矛盾を携えている。社会で生きるために普段は衝動を抑圧しているが、どこかでその衝動を発散したいとも思っていて、いわば我々は「狂気のタックスヘイブン」を欲しているのだ。

衝動の受け皿

「狂気のタックスヘイブン」とは、つまり「通常は狂気とみなされるような行為も、この空間・この形式・このルールのもとであれば許される」というフィールドである。「みんな衝動を発散したいんだったら、それが許される環境を作りましょう」という取り決めのもとで、人間は数々の「安心して狂える場所」を用意した。それがつまり、カラオケであり、サッカーであり、カバディであり、ダンスバトルであり、ギターであり、書道であり、彫刻であり、クラブイベントであり、ダンスダンスレボリューションであるのだ。これらは「この場所や形式、ルールの下でなら身体的な衝動を発散しても良い」という社会的な取り決めを設けることによって、通常社会で狂気とみなされるような行為の数々を文化という形に昇華する役目を負っていると言える。道端で踊ってたらヤバいが、ステージならOK。会社で叫んだらヤバいが、カラオケならOK。「狂気のタックスヘイブン」は社会で我々が抑圧している身体的衝動の受け皿なのである。

レールとしてのルール

上の例で「ダンスバトル」と「ダンスダンスレボリューション(DDR)」という2つのダンスを挙げた。前者は完全即興、DJがその場で決定した曲に合わせてアドリブでダンスを披露するというものなのに対して、後者は音楽ゲームで、降ってくる譜面に対してできるだけ忠実にステップを踏むことを要求する。すると、このような疑問が考えられる。

「内なる衝動の発散なのに、わざわざその動きを譜面で縛る必要があるのか。即興ダンスのほうが自由に身体が動かせていいではないか」

と。しかし、本当に自由であるほうが良いのだろうか。

まず、我々が抱える衝動というのは、常に混沌であり、普通の人間はその「混沌」をそのまま表現することは不可能である。それは、どんなに歌いたい気分のときでも、「じゃあ今から自由に歌ってください、どうぞ」と言われたら困惑してしまう、という状況を考えるとわかりやすい。何のルールも与えられていない状況では衝動を適切に発散することも難しく、ちゃんと楽しく歌うためには一定のルールを自らに課し(この場合はどの曲を歌うかを選び)、衝動を走らせるためのレールを用意する必要があるのだ。我々が抱えている混沌とした衝動は、ルールという名の型に流し込み、特定の形に整形することで初めて発露させることが可能となる。

混沌の表現と秩序の遂行

ダンスの例に戻るが、ダンスバトルで即興のダンスを披露できる人間というのは、「混沌とした衝動」が走るためのレールを、混沌が求めるままに引くことができる人間、つまり「混沌に奉仕する人間」である。一方で、DDRで誰かが設定した譜面を完璧にこなすことに快を感じる人間は、既定のレールをより高い精度で乗りこなすことができる人間、つまり「秩序に奉仕する人間」である。前者はより創造的な方向に向かい、後者はより競技的な方向に向かう。もちろんこの2つの要素は複雑に絡み合っていて、どちらかに完全に分類できるということはありえない。しかしこの「混沌の表現」「秩序の遂行」という2つのベクトルによって、自由なダンスバトルと縛られたDDRのそれぞれに異なる価値付けを与えることが可能になるのだ。

さらに言えば、ルールで縛ることと創造性を発揮することは必ずしも矛盾しない。サッカーは数多くのルールが設定されているが、そのルールによって路上の自由なボール遊びでは見られない複雑なクリエイティビティが促進されている。ルールを定めることで遊べるフィールドが確定し、その秩序内での混沌の模索が可能となるのだ。逆に言えば、混沌の表現者も常に何らかのルールに依存しているということになる(ダンスバトルはダンスというルールに縛られている)。これらというのは結局レイヤーの違いでしか無いということである。作曲することもカラオケで歌うこともクリエイティブであり、ただそのレイヤーが異なるだけなのだ。

身体性にとどまらない衝動

今回、ダンスと絡めるために身体的な衝動に絞って議論していたが、この衝動は身体性という制限を取り払っても概ね成立する。例えば、我々は社会において「言語的な衝動」を抑制しているわけだが、詩や小説においてはそれらの狂気の発露が許されている。また、視覚的な衝動(幻覚)や、聴覚的な衝動(幻聴)も絵画や作曲という形での発露が許されている。この「文化は狂気のタックスヘイブンである」という論はもう少し転がせそうなので、また隙を見て展開していきたい。

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