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蹴った「サッカーボール」はパラドックスではなかった

その瞬間、歴史のパラドックスか? を再々検証したが


「たかがサッカー、されどサッカー」とのたまっている場合ではない!

本田圭佑、~「三笘の1ミリ」とも表現される際どいジャッジに、同組だったドイツを含め各国で議論が巻き起こっていた。
本田は3日、自身のツイッターで「負けたんやからピーピーわめくな。結果は変わらん」、
と投稿し、スコットランド代表MFのグレアム・スーネス氏が「8000万人のドイツ人が激怒している」、などと語った記事を添付し、大批判した。

ドイツ国内で判定への不満が渦巻いているとされる現状に意見を本田はそう述べた。サポーター、VAR論争への意見に「これぞ本田節!」と絶賛。
2022/12/4(日) 5:13配信 THE ANSWER

三苫の一蹴りトップ画像  https://pbs.twimg.com/media/Fi7u6LQXoAE8Aca?format=jpg&name=900x900

この二ユースを単なる「サッカー、スポーツニュース」として書いたとしても、格別別段の異議も批判もないでしょう。

ましてや、「髪の毛一本」の(僅)僅差に、一喜一憂している「ドイツ」8千万人(余りに大雑把数で却って嘘くさい)、に対して、訓戒レッドカードを提示した本田選手は、日本人(■日本人口数)の代弁を買って出たのものでしたね。
■【2022年(令和4年)11月1日現在(概算値)】<総人口> 1億2485万人前年同月に比べ減少 ▲59万人  ▲0.47%) 2022年の出生数は?2022年の出生数(日本人)は、前年比▲5.1%減の77万人前後となる見通し。
16年以降、出生数は年率▲3.5%のペースで減少してきたが、22年はそれを上回る減少率となる見込み。 少子化ペースの加速は、20年から21年にかけて、婚姻数が急減したことが寄与したとみられる。 ※2022/11/10総務省統計局

ついでだから駄目だし数字を披露すればドイツ人口は正確には8313万人 (2021年)であり、残った313万人というのは(移民籍)で、カウントされないという歴史断片を伏せた、と見られても弁明できないという訳か。

まあまあそれは、その程度にしておいて、最後の章として、世界の中の日本のスタンス、サッカーボールの「空中ストップモーション」から読み解く、世界先進主要国の優位性と、それを2000年来崇拝してきた諸外国(筆頭日本)は、そのカタール・ワールドカップ大会で何を学ぶべきなのかを検証した。

それは政治問題と「密接」リンクだが、なぜだか社会(日本人)はタブーする

それは「問題がおきなかったサッカー」、のことと「二律背反」しているし、またそうでないと云える。そのことは過去から、そしてこれから未来に継がれる社会性は存続すると想定されますが、「ヒラリー・クリントン」の必須科目要請GDP2%の案件は、時代の潮流としてその方向に向かうでしょうし、そのことが仮に欧米文化圏で賞賛されるとしたら、すなわち、それが日本サッカーに対して真摯な見方、翻せば8000万人の批判は出ないだろうし、たまさか今年度優勝がなかったとしても、次回優勝が射程距離圏内に入る、そうした世界の国際情勢を生き抜く叡智ではないかと分析したのです。

初っ端、こんな政治課題が、すでに配信されていたのです。先進7か国の議題採択が決まって、さて次のホスト役日本(2023年)に、「先進7カ国(G7)の来年の議長国日本に事態打開に向けた指導力を発揮するよう期待するとともに、中国が台湾侵攻に踏み切った場合、【(相応の)結果が伴う】と警鐘を鳴らした。」、国防費GDP2パーセント、その熱く煮えたぎった鉄拳試案を早々に国会成立させろ、という請願注文は明らかだった。

それで野党はどうする?

マイナンバーカード 漏洩 3万5千人分、紛失漏えい マイナンバー、過去5年間 2022/12/3(土) 16:46配信 共同通信 メント意見抜粋 門倉貴史エコノミスト/経済評論家
政府は、マイナンバーカードを紛失したり、マイナンバーが漏洩しても、それだけでは個人の権利や利益が侵害されることはないので、マイナンバーカードは持ち歩いて使ってかまわないとの見解を示している。ただ、過去5年間でマイナンバーが3万5千人分も紛失・漏洩していたという事実だけで、国民のマイナンバー制度やマイナンバーカードに対する信頼は損なわれてしまうのではないか。紙の保険証が2024年秋に廃止となり、「マイナ保険証」に変わる予定だが、マイナンバーカードについては個人情報流出への懸念が根強いため、2024年秋の時点でマイナンバーカードを取得していない人はかなりの数で存在するとみられる。マイナンバーカードを取得していない人たちへの対応もしていくと、かえって医療サービスの提供が非効率になってしまう可能性もあるだろう。 部分抜粋

その二案件は全くクロスしないが、「マイナンバーカード100%保持」を推奨する政府与党は、それもこれも同時並行で進めるのが与党の仕事だ。野党は、その掻痒部分を、東京地下鉄工事のようにむやみに掘り下げるので、社会は、そのネタで終始してしまう。問題は、その「神の毛一本」がラインにあったか、なかったか、の判定である。
(動かぬ証拠VARビデオマッチオフィシャルは<、人間の欲得とは関係なく現象を忠実に記録する機械である。)

それに対してドイツ人8000万人がクレームを付けた(スペインエンリケ監督は作り物だと言い放った)。おそらくその対象国が日本だったから、何事も起きないが、それが、東洋以外の他、だったらとんでもない事態に発展する可能性は必至だった。かえすがえすもそれが日本でよかったと~。

ここまで書く、それを読むと読者は、この人(かいた筆者#つしま昇)もネットの「ネトウヨ」の典型か、と思ったでしょう。
あにはからんや、その反対で根っからの「欧米文化追随者」でありその教祖的科学者、「アインシュタイン」については盲目的に過信しているという西洋かぶれ、そのものなのです。

なぜそれが、国粋的な右思考(こんな単語を入れるとすぐさまアルゴリズムに捕捉される)になるかといったら、その西欧の何が優位なのかを知れば、それを甘受している日本(東洋思想儒教思想)に何が不足し、また欧米の何が特異して、上位保持しているのか、という問題の差異が見える、そう思ったのでした。といっても大学学位論文とは程遠い、個人の世界思想分析でしかありません。

以下の記事は、出口学長の西洋思想(オランダ哲学スピノザ)を語ったものです。

【出口学長・日本人が最も苦手とする哲学と宗教特別講義】デカルトの「二元論」、スピノザの「一元論」、ライプニッツの「多元論」の決定的な違いとは?

2022/12/3(土) 6:01配信ダイヤモンド・オンライン

世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』が「ビジネス書大賞2020」特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。発売3年たってもベスト&ロングセラーとなっている。

《現代の知の巨人》に、本書を抜粋しながら、哲学と宗教のツボについて語ってもらおう。

● デカルトの二元論、スピノザの一元論、 そしてライプニッツの多元論とは?

 ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)は、バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)よりも14年ほど後にドイツで生まれました。ライプニッツはルネ・デカルト(1596-1650)が心身二元論で構築した大陸合理論を、スピノザが「神即自然」の汎神論的一元論で反論したのに対して、さらに新しい理論を提案しました。デカルトは認識の方法として明証・分析・総合・吟味という段階を踏むことを教えました。

 この方法論に対応させていえば、ライプニッツはスピノザが「神即自然」と明証したので、それではとばかり、自然を分析・総合・吟味したのでした。自然とはこの世に存在する万物のことです。

 たとえば、花には花と葉と茎があります。

 花には花びら、雄しべ、雌しべ、などがあります。

 そうやってどんどん分解し、極小化していくと、ギリシャ哲学ではアトム(原子)に行きつくのですが、ライプニッツは独特な考え方をしました。

 花びらと雄しべは別の存在なのだから、分解していっても同じ原子にはならないとライプニッツは主張したのです。彼はこの最小単位をモナドと呼びました。これは原子のように同一の極小単位にはならず、どのモナドも他のすべてのモナドと異なっているのです。それゆえライプニッツのモナド論は多元論となります。彼の考え方は、スピノザのいう自然そのものが神であるという一元論とは異質です。ライプニッツにおける自然は数限りない、多彩なモナドの寄せ集めであるからです。それでは、どうして世界は美しく調和しているのかといえば、ライプニッツは次のように考えました。

 すべてのモナドは独自の知覚力と欲求を内在しており、他のモナドと同一に動くことはない。しかし神はモナドをその知覚力と欲求に合わせて、予定調和的に動くように設計したのである。小川がさらさら流れるのも、神がそのようにプログラミングしているからなのだ。それゆえに世界は美しいのだと。

 「えらい楽観的やな」と思いますか。

 17~18世紀にも多くの人が同様に考えたようです。

 このような考え方に立てば、人間の自由意志とは関係なしに、世界はいい方向に向かう、としか考えられませんね。スピノザとライプニッツは、デカルトに影響され、大陸合理論を発展させる形で、独自の哲学を展開しました。この2人の哲学は、それぞれの形で後世に大きな影響を残しています。

 ライプニッツについては『モナドロジー・形而上学叙説』(清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳、中公クラシックス)が最適だと思います。『哲学と宗教全史』では、哲学者、宗教家が熱く生きた3000年を、出没年付きカラー人物相関図・系図で紹介しました。僕は系図が大好きなので、「対立」「友人」などの人間関係マップも盛り込んだ全3000年史を、1冊に凝縮してみました。 

(本原稿は、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です) 出口治明


いまどき「アインシュタイン方程式」 「出発前の準備」が特殊相対性理論…「アインシュタイン方程式」にド文系が挑戦 
2021/5/25(火) 11:02配信  現代ビジネス
ベストセラーとなった科学書の編集を何冊も手がけてきたライターの深川峻太郎さんが一般相対性理論の“数式”へと挑んだ話題作『アインシュタイン方程式を読んだら「宇宙」が見えた』。そのプロローグと第1章を、全6回の短期連載で特別公開いたします。

 ド文系が挑む「アインシュタイン方程式」【連載の第1回はこちら】
前回、ようやく方程式の読み方と、その中身がすこし理解できた深川さん。しかしそれによって、最初に見たときでさえ“ワケのワカラナイ複雑な式”だと感じていた「アインシュタイン方程式」が実際は、“あれでもかなり整理されている。いわば、氷山の一角を眺めているようなものだった”と気づいてしまったのでした。今回もガイド役の「しょーた君」とともに一歩ずつ進んでいきます。

「登山前の準備」が特殊相対性理論という現実 特殊相対性理論は準備にすぎない((C)服部元信)
 しかし、そもそもが無謀な挑戦なのだから、この程度で絶望している場合ではない。それに、ここまででも私はかなり進歩したじゃないか。私はもう、アインシュタイン方程式を音読できるだけでなく、何も見ずに書くことさえできる。そんな文系人間は、「鬱」や「薔薇」といった漢字を何も見ずに書ける者よりも圧倒的に少ないだろう。この式を飲み屋でスラスラと書いてみせるだけで「いや~ん、かっこいい~」とモテモテになっちゃうに違いない。それはもう、店でのあだ名が「ハカセ」になりかねないぐらいの勢いだ。
 もう、この先にどんな挫折があろうがかまわない。本物の登山と違って、失敗しても命まで失うことはないんだし。ダメでもともと、である。
 「それじゃあ、登山の準備から始めましょうか」
 と、しょーた君は言った。目指すべき山のリアルな姿は麓から少しだけ垣間見えたものの、まだ登りはじめるのは早い。登山も、まずは必要な装備や道具をえなければいけないし、筋力や持久力をつけるトレーニングもしなければいけないだろう。
 しょーた君が「出発前の準備」として提示したメニューは、次のようなものだった。
 【出発前の準備】
・特殊相対性理論の基本原理と時空図
・k計算法を用いた特殊相対性理論の解法
・不変間隔とローレンツ変換
・4元ベクトルと特殊相対論的運動論

 いずれも、これからメインの教科書として使う杉山直(なおし)先生の『講談社基礎物理学シリーズ9 相対性理論』の目次から取り出したものだ(これも羽澄先生が推薦してくださった。今後、単に「教科書」という場合はこの本を指す)。

 登山の準備だけで体を壊しそうである。というか、これ、最初から登山じゃん。2行目ぐらいでさっそく遭難しそうじゃん。私が読みたいのは重力方程式なんですけど? こういうのを迂回する楽なルートはないの? 
 と、のっけから弱音を吐きたくもなったが、やるしかない。
 アインシュタインも、まずは1905年に特殊相対性理論を発表し、その10年後に一般相対性理論を完成させた。特殊なくして一般なし、である。
 では、そもそもアインシュタインはなぜ特殊相対性理論を考え出したのか。それを理解するには、ガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートンの時代に遡る必要がある。教科書によれば、特殊相対性理論はアインシュタインが一夜にして発明したものではない。その前夜には、「ガリレオの相対性原理」なるものがあった。
 えっ? えっ? ガリレオさんも相対性理論を考えたの? 
 ……などと早とちりしないように。ガリレオのは相対性「理論」ではなく、相対性「原理」である。ド文系のくせに漢字も読み間違えているようでは、数式を正しく読めるわけがないじゃないか。しっかりしろオレ。

 ちなみに自然科学における「原理」とは、辞書的には「ある理論体系の基礎になっている法則および命題」などと説明される。ただし、ややこしいことに、「原理=法則」ではないらしい。法則は、原理によって導かれるものだという。
 しかし一方で、「原理とは事物・事象が従う根本的な法則」であるといった説明もされるのだから堂々巡りだが、要は「なぜそうなるのかを証明できるのがフツーの法則」で、「なぜそうなるのかは証明できないけど経験や実験で明らかな事実として認められた根本的な法則」が原理ということだろう。
 そういえばユークリッド幾何学では、「同じものに等しいものは互いに等しい」的なごくごく当たり前の前提を「公理」と呼んでいた(ド文系とはいえ、私は数学者の著書もお手伝いしたことがあるので、そんな知識も少しはある)。たぶん、物理学の「原理」もそれと似たようなものだと思う。
 そして、いずれわれわれが学ぶアインシュタインの一般相対性理論の根本には、「一般相対性原理」なるものがあるらしい。
 それに先立つ特殊相対性理論の根本にあるのは「特殊相対性原理」だ。さらにその前夜に「ガリレオの相対性原理」があったというのだから、登山の準備はまずそれを知ることから始めなければいけない。
 また、やや先回りして言っておくと、相対性原理では「座標変換」なる概念が重要になる。ガリレオの相対性原理では「ガリレイ変換」、特殊相対性原理では「ローレンツ変換」、一般相対性原理では「一般座標変換」と、それぞれの相対性原理で異なる座標変換を行うらしい。ふーん。わかるのは、「ガリレオ」と「ガリレイ」が同一人物だということだけだ。そっちで呼ぶのかはっきりしてほしい。
 ともあれ、まだ雲をつかむような話ではあるが、何となく全体の道筋が少しだけ見えてきた。とにかく「相対性原理」にも「座標変換」にもそれぞれ3つのステップがあり、それを昇りきったところにアインシュタイン方程式があるのだろう。よしよし。山麓から山頂までのロードマップは把握したぞ。縮尺が小さすぎて、世界地図を頼りに隣町を目指しているような不安はあるけど、いざ行かん。

ガリレオの「相対性原理」とは? 図((C)服部元信)
 教科書によれば、ガリレオの相対性原理とは「異なる慣性系であっても、運動の法則が同じになること」である。それが原理(経験や実験で明らかな事実として認められた根本的な法則)なのだから、こう言い直してもいいだろう。

 「慣性系が異なるからって、運動の法則が違ったりするわけないだろ。そんなの当たり前じゃーん」──そう言われると、当たり前のような気がしてこないこともないと言えなくもないような心持ちになるわけだが、ちょっと待て。そもそも慣性系って何よ。
 
 そこで出てくるのが、かの有名なニュートンの「慣性の法則」である。
 「外部から力が働いていないとき、静止している物体は静止を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける」
 コレですね。直観的には、「いやいや、運動している物体は放っておいたら減速してそのうち止まるでしょ」と言いたくなるが、そうではない。たしかに転がるボールや回転するコマはやがて止まるが、それは摩擦や抵抗などの力がブレーキとして働くからだ。それらの力がまったく働かなければ、いつまでも等速直線運動が続く。このあたりは、高校時代に物理の成績が2だった私にもわかります(5段階評価か10段階評価かは忘れたがどっちであれ大差はない)。
 さて、慣性系の「慣性」は物体の運動状態の性質だとして、「系」とは何か。これは「基準系」のことらしい。物理現象は、それを観測する立場により異なって見えたり、異なった法則にしたがったりすることがあるという。その観測や記述の基準となる立場が「基準系」だ。
 したがって「慣性系」とは、等速直線運動をしている人が見ている風景みたいなものだと思えばよさそうだ。たとえば同じスピードでまっすぐ走る電車の車内は、1つの慣性系である。
 そこにいる人々には、車内や窓外の風景が同じように見えるだろう。一方、「静止」も等速直線運動の一種(速度ゼロの直線運動)だから、線路脇で立ち止まって電車を眺めている人も1つの慣性系である。それぞれ「異なる慣性系」にいて、別々の風景を見ているわけだ。そして、ガリレオの相対性原理は、こう主張している。
 「電車内の人にとっても、線路脇にいる人にとっても、物体の運動の法則は変わらないのだ!」
 やっぱり「そりゃあ、まあ、あたりまえじゃん」という感じですよね。違ったらキモチ悪いっす。
 しかし、ガリレオが『天文対話』という本で示した思考実験を見ると、その「あたりまえ感」がちょっと揺らぐ。たとえば、船のマストからボールを落としたらどうなるか、という話だ(図)。
 静止した船のマストからボールを落とすと、当然、ボールはまっすぐにマストの真下に落下する。船が等速で動いていても同じだ。船に乗っている人から見れば、ボールはまっすぐにマストの真下に落ちたように見える(図の右)。しかし陸にいる人からは、船そのものが移動するのだから、ボールの落下地点も移動して見えるだろう。ボールの動きだけ取り出せば、やや前方に放り投げたような軌道(放物線)を描くのである(図の左)。
 それでも、2つの慣性系で運動の法則が同じだと言えるのか? 船の上と陸ではそれぞれ違う動きをしたように見えるのに、それが同じ法則によるものだなんて、おかしくね? だんだん、そんな気持ちになってきましたよね? 
 だが、これは同じでなければ困るのだ。

以下割愛 



 構成編集//#つしま昇


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