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「古語拾遺」古語の遺たるを拾う

「七人の侍」(黒澤明) 不朽の名作日本映画の金字塔

その黒澤監督については、今後そうした異才は輩出しないだろう、という定型の評価がもっぱらで、まそれも間違いないだろう。

このところ「u-next」映画を立て続け見ていて、それらと比較した邦画の感想は、やはりそれとは違うと感じる。

先日も指摘したが、日本の映画(時代劇)とくに黒澤映画にはセックス描写がが皆無である。だからダメとかイイとかではなく、多分監督は、「そんなもん必要ない」と考えたかどうかは知らないが、なにしろ色のイの字もない。

また観衆聴衆も、それが当然のよう受け止めていて異論を出すものは一人もいない。

またそれ以前の邦画でも同じように「セックス」描写を見たことがない。もっとも自分が子供のころに見た「鞍馬天狗」とか「赤胴鈴之介」映画に、そのセックスシーンがあったら困ってしまうし、おそらく「映倫」規制によって、それはご法度であったのだろう。

そうした経緯を思えばアメリカ西部劇でも、そのセックスシーンはなかった。それはやっぱり映画エンターティメントのハリウッドからそうなったと、思うべきなんだろう。

日本の場合は、そのまま現在も性セックスシーンはなかったが、是枝監督の「万引家族」で初めて見たようなきがする。(日活路線ポルノは別枠)

やはり日本では「性」はタブーというのがあって、また思想的「儒教」の考えが根底にあり「お茶の間井戸端テーマ」にはなり得ない、という不文律が、支配的と思われた。

それで昨今ニュースの未成年少女買春とか、LGBTだとか、もろに性を扱った問題、新宿歌舞伎町界隈トー横少女売春問題とか、学校ではタブー扱いしていた教育不備が、一気に噴き出し、その事件多発という世相に変異している。それでも、おそらく性はこのまま、曖昧な状態で、推移するだろうと予想している。

そして今ネット世界が変質して、既存のメディア倫理の枠から外れた「常識」が支配的になっていて、云ってみれば、なんでもありアナーキータウンの様相を呈している。(このまま進むと自滅崩壊ネズミの行進に至る)

つい2.3日前に書いた記事が運営者側(アルゴリズム)網にかかって、アップ停止という処置に遭遇した。

なにかといったら「露骨な名詞の羅列」(引用記事)がそれに抵触したようだった。云ってみれば「映倫」規制のようなものであり、それを一方的に押し付けてきた。捉え方次第では「表現の自由」侵害であって、もしそれで争うとなれば五歩と五歩の瀬戸際だ。"まあ面倒なことは<>したくない。"

その内容と云ったら「性」であり、それを女性が、正面から声高にネットアピールするというので特集的に記事にしようと、編集記事アップしたところ、それを食らった。

そんなことも含めて類推すれば、その「性」が日本国内で正しく (何がただしいかもわからない)語られ表記されれるのか、それすらままならない。

いやいや熱くなってしまって迷惑なのでこれで止めよう。<(_ _)>

テーマは「黒澤映画」の話しだった。

以下引用文

ダイナミックな映像美が光る、チームアクション映画の原点『七人の侍』は、戦国末期の農村を舞台に、百姓たちが7人の「侍」と協力して野武士の集団を撃退する物語。
侍といっても浪人であり、野武士の略奪行為に泣き寝入りしてきた百姓たちが戦闘のために雇った傭兵である。百姓と浪人が衝突しながら結束を強めていく様子は、最大の見どころのひとつだ。

『七人の侍』の魅力に迫る論考も掲載したBBCもこの点に着目し、チームが作戦に沿って物語を動かすアクション映画の原点にして金字塔だと位置づけた。いずれにも日本人の評論家は投票しておらず、この国内外の評価の差は、海外でも興味の的になっている。

「終戦を境にした特異な歴史」は、黒澤監督も意識していた。自伝『蝦蟇の油』(ガマ)によれば、終戦の詔勅の日、意外にも浮かれた世間の光景に驚き、日本人の柔軟さと虚弱さについて考えこむようになったという。また、日本の文物が海外で評価されると尊重し始める風潮を「悲しい国民性」だと感じるようになった。象徴的だったのが、『羅生門』がベネチアで受賞したとたんに手のひらを返したような態度をとった批評家たちだ。黒澤作品の国内外の評価の差については、前述したBBCの記事でも指摘されている。


「あの人の人生を知ろう~黒澤 明」 自伝「蝦蟇の油」ガマの油
文芸ジャンキー・パラダイス


それとは別の昨日の記事で「イラク戦争」その歴史ドキュメントを書いてあるが、云うならば「アメリカ正義」喧伝プロパガンダであり、英雄伝説武勇物語となっており、それを是とするのは日本が敗戦国という致命的な訳がある。そして映画のプロットはその正当性を主張し、であるから正義なんだという。
そのイラク戦争の結末は、かつて我が国が味わった敗戦(核使用)と酷似しており、それは正しい選択だ、という戦勝国の正義声明だった。

そんなことを思慮すると、これまで書かれてきた世界の神話、伝記、など、すべてそれに該当し、勝ったものの論理で括られていた。

ただ一つ、日本に現存する古文書「古語拾遺」にあっては、政権本流からさげすまされた一族の悔恨の念をしたためた書をもって後世に伝えた古語拾遺は唯一無二の書物として、今後、ますます注目されるだろう。

■『古語拾遺』とは、古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書である。斎部広成(ひろなり)の撰述(せんじゅつ)で、807年(大同2)に成立した。祭祀(さいし)を担当した斎部氏が、同様の職掌に携わっていて勢いを強めた中臣(なかとみ)氏に対抗して、正史に漏れている同氏の伝承を書き記したものであり、正確にいうと、斎部氏によって提出された愁訴(しゅうそ)状であって、『古語拾遺』は後人による命名である。伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神の国生みと、神々の誕生神話から筆をおこし、757年(天平宝字1)の時代までのことが記述されており、斎部氏の氏族伝承をはじめ、記紀に並ぶ古代史の貴重な文献である。神明社



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