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「正当化」から考える

 noteを書く前は、気軽にnoteを読んでいたように思う。「こんな考えがあるんだな~」と軽くうなずきながら読んでみたり、「なるほどそういう見方もあったか!」と思わず膝を打ったりとか。
 逆に、「ううん……これは、書き手の人、考えが偏っちゃったのでは」とか「きっとこの書き手の人、疲れ切って思考がはたらかないくらいゆがんだ気持ちになっちゃったんだなぁ」と読んでいてかなしく思ったり、考えが突き抜けすぎていてそれはそれでありかな、と思うものもある。
 いろいろ感じるものがある。
 いいなと思うものがあるならば、あんまり好きじゃないな、苦手だなと思うものも当然ある。
 よいものだと私が感心する傍らで、それは悪いものだとけなす人もいる。もっともだ。だって違う人間なんだから。
 生まれた場所も、育ってきた環境も。その人が何を思い、考え、悩み、今の自分になっていったかは当然違う。別ものだ。自分とは別の人。だから、異なる感情や感想を抱くことは別段、不思議なことではない。

 けれど、私の中にも当然譲れない一線がある。
 普段、だれの話を聞いてもだいたい「そうなんですね」・「そうなんだ」と一度受け止めることを旨としている私でも、ちょっとなあ、その考え方・捉え方はまずいんじゃないかなとモノ申したくなることがあるのだ。
 人の考え方、捉え方は千差万別。自分の考えるものと異なることも、ないではない。
 だからこそ私は一度相手の話や考えを受け止める。そこに私の感想や感情は挟まない。そういう考え方もあるのだ、とまず認識し、受け止める。一度受け止めたあと、では私はその話をどう感じるのかと考える。なるほどなーと納得することもあれば、いやそれはまずいんじゃないの~と思うこともある。場合によっては口に出すこともある。
 しかし、よっぽどなことがなければ、相手の話に対して、あまり否定的な感情は抱かない。よっぽどなことといっても、社会的規範からあまりにも外れているとか、世間一般から考えるととんでもないこととか、倫理的に受け入れがたいこととか。あとは、そう、その考え方は歪んでいないか、ということだろうか。
 ただやっぱりというか、当たり前であるが<よっぽど>なものに出会うこともあって、けれども、その考え方や捉え方、その物言いはちょっと、まずいんじゃないの……?と心配になってしまうこともあるのだ。あと、私が単に「腑に落ちない」だけともいう。

 私の中ではよっぽどなものに分類しているその一つ。考え方のゆがみ。タイトルにも書いた「正当化」
 むやみやたらと自分の中で理屈付けして、自分を納得させることほど、怖いものはない。注意深く扱わなくてはと思うのだ。もちろん自戒を込めて。

 ある人がだれかに対して「私の、この考えは正しいんですよ」ということを言いたいときに、誤った例を引き合いに出してくること。そしてその話の後に「絶対に、向こうが間違っている」と言うこと。その上で、最終的に相手へ「配慮をすべきだ」と要求すること。
 ……もちろん、ある人は勘違いしてその例を引いてきたということもあるだろう。そういうこともないではない。
 けれども、だれかが「この考えは正しいんですよ」と言いたい場合、そこにはこの考えを主張したい、この考えに共感を得たいという感情が滲んでいることが多い。そのせいか、「自分の正しさ」を主張したいがために、「絶対」という言葉を使うことがある。そして、最後に「配慮すべきだ」「思いやりが足りない」と主張する。私はそれをこそ、いちばんまずいなあと思ってしまう。
 「自分の正しさ」を主張するのに「絶対」を使ってはならない。
 「絶対」という言葉がに唯一性を感じるならばこそ、「絶対」と断じたり、なにがなんでもというニュアンスを含むそれを口にしてはいけない。
 それは、絶対性を欠くからだ。信憑性を、正しいと主張する正当性を一切失うからだ。
 自分の正しさを主張するとき、相手が間違っていることを前提としている。そして正しさを主張し、強調するために、「~すべきだ」・「~すべきではない」という言葉が飛び出す。
 けれどそもそも、ある人が語った話は実際に、「正しい」・「正しくない(間違っている)」で語れるような内容だったのだろうか。そして、「~すべき」・「~すべきでない」と否定できるほどに、あなたは「正しい」のだろうか。

 「絶対だよ!」と約束をする小さな子どもが念押しするように、必ずや、という思いが強い言葉なのだ。それを正当性を主張する言葉の一つに選んでしまった時点で、正しさを主張するある人を、私は冷静ではないと思ってしまう。
 そして、「配慮すべきだ」という言葉。「~すべきだ」と主張するとき、それは人に課すものとなる。そうあれかし、と願うわけでなく、「~しなければならない」と人に強いるものだ。
 正確に言えば「~すべきである」にある「べし」という言葉自体は、「~した方がよい」という勧誘の意味も含んでいる。けれどこの正当性の主張することに関しては、「~しなければならない」と意味を固定してしまう。
 一見やわらかな「~すべき」という言葉を用いて、相手は「~するはずだ」という推定、「~しなければならない」という命令に変わってしまう。
 さらに言えば。「配慮」という言葉は「心を配る」ことだ。配慮の慮は「おもんぱかる」。いろいろと考えをめぐらすこと。言葉にせずして「配慮すべき」とはこれいかに、と私は思ってしまう。


 正直な話。
 自分の正しさを、自身の正当性を主張するために「絶対」と付け加え、「配慮すべきだ」と主張することに私は困惑するしかない。
 あなたはいったい何を求めているのだろうか、と。
 正直なところ、その正しさを主張するのは、あなたが傷つけられたことによる怒りなのだと私は思う。その傷つけられてしまったあなたの自尊心をどこで補うのか、どこで補えばいいのか、私はわからない。けれどあなたはきちんと考えたように見せかけて(考えた当人は無意識なので気づいていないが)、相手が間違っていると主張したとしたら、それは<合理化>だ。「行為を行った後、理屈をつけて、それを正当化する」、防衛機制の一種だ。
 おそらく、あなたは、こころのストレスに適応しようと、必死で理由づけをしているのだと思う。
 共感を求めるために、あるいは傷ついた自尊心を安らげるために、自分の正当性を主張することは、ストレスに、現状に適応しようとしたあなたの本能だ。不思議でもなんでもない。あなたはただ、「それはまちがってるよね」「あなたが正しいよ」と言ってもらい、慰めてもらいたいだけなのだから。
 私が困惑するのは、口では「自分の正しさ」を「正当化」し主張しているのに、実際に求めているのは「正当性」なのだ。もしかしたら、正当化されたものであれ、世間一般的に見て自分が正しいと認められること、それこそが最大のストレスへの補填なのかもしれない。
 もしくは、傷つけられた自尊心を満たすために、相手の膝を折りたいのかもしれない。相手を屈服させ、相手に間違っていることを認めさせたいだけなのかも。そうすることによって、もしかしたら、あなたの自尊心は少しは安らぐのだろうか。

 「配慮すべき」と主張する人たちにはきっと、自分たちが「こうあるべし」との考えがあり、常々相手へも心を配っているのだろう。いいことだと思う。けれど、心を配っているのは、あくまでも<あなたの考え>からくるものであり、その行動は<あなたが考えたことのあらわれ>だ。その心配りからくる行動は、だれかに強制されたわけではない。そして、それはだれかに強制することでもない。
 あなたが快いとするその考えのもとに、あなたは行動するのだ。その考えをだれもが持つべきだと考えるのは、あなたが、あなた自身が快い状態でありたいと願っているからだということ忘れてはいけない。
 だから、あなたが考えるように「あなたも考えてほしい、いや、考えるべきだ」と無言で見つめ続けたとしても、残念ながらあなたたちが「配慮すべきだ」と怒りを感じている相手には決して伝わらない。なぜなら、彼らはあなたがたのように「心を配っていない」し「慮ってもいない」のだから。
 あなたが思っていること、考えていることは、あなたが口に出さなければ伝わらない。相手にとっても、だれかに言われなかったことはなかったことと同じ。
 無神経だと思われる方も多いと思う。けれど、慮る機会がなければ、配慮することも思い至らない。だって、自分の考えるままに動いているのだから、周りがどうなろうと、それはそれ、これはこれ、である。
 配慮を旨としない人たちからしてみれば、「配慮すべき」と主張する人こそ無神経と思うのではないかと私は考えている。なぜなら、他人の思っていることなんてわからないのに、なんで思いを推量しなくてはいけないの? 言えばいいじゃない、言わないのに察してって、あなたと私の神経が繋がっているわけでもないのに。
 ……まぁこれは私のイメージであって、配慮しない人たちがどう考えているかはわからない。けれどこれだけは言える。少なくとも、これを書いている私とあなたの神経は繋がってはいないので、あなたの考えるすべてに気を配れるとは思っていないし、考えても土台無理なことに私は気を配ろうとも思っていない。
 配慮しない人たちが実際にどう考えているかはわからない。もし配慮なんてしませんよ、という方がこれを読んでおられたらぜひともその感覚をご教示願いたいと思っている。私の推測が間違っているならぜひ指摘してほしい。我ながら自信過剰だとは思うのだが、あながち間違ってないんじゃないかな~と悠長に構えている。


 長々と書いてしまったが、あくまでもこれは私個人の意見であり、そうではないだろうと思う人もいると思う。私の考えが優れて研ぎ澄まされているとも思えるほどの自信もない。けれど考え抜くことだけは自負がある。何言ってんだって話ですが。
 もしも、これを読んだあなたが、おかしいぞ!と思ったらぜひ指摘してくださって構わないし、あなたと私で話がかみ合うかはわからないけれど、話せる機会があればいいなとも思っている。

 私自身、「正当化」を行わない人間というわけではない。自分の理解の範囲外のことが起これば怒りもするし、「理解できない」と思ったりもする。けれど、「どうして、相手はそういう行動をとるのか」「なぜ私はその行動に腹立たしく感じるのか」などと突き詰めて考えていくと、案外あっさりと答えが見つかったりする。もちろん見つからないこともある。
 「さっきそういえば買いたかった物が売り切れでちょっと苛立ってたしな……」「だからあんな些細なことで、腹を立てちゃったんだろうな」なんてこともないわけではない。怒りや苛立ちを無理やり抑え込んだ場合、次に何かこころに負荷がかかった場合、さきほどの出来事の負荷に今の出来事の負荷がプラスされる。おかげで大したことでないのに、怒りが倍増してしまっていることもある。


 これを読んだ人に「あなたは配慮しない人に向かって配慮すべきだと要求するべきではない」とは申し上げない。決して。
 ただ、あなたが「配慮すべきだ」と考える過程はきっとこんな感じなのではないかと私は考える。それを、書いてみただけだ。「面白いな」と思ってもらえたなら私はうれしく思うし、「こんな考えはないわー」って思われてもそれはそれで仕方のないことだなと思う。
 あと、<思いやり>がいっとう大事だとも思わない。思いやるのはあなたや私個人の考えであって、強制するものではないから。大体、相手へ思いをやる(あげる)気がない人が思いやれるわけがないと思う。

 そしてその思いやりは、思いをあげたいと考えるあなたや私の心であって、あげたくなければ別にあげなくてもいいのだ。

 こういう考えもあるということ、もしもあなたの頭の片隅においていただけたらうれしく思います。
 長くなりましたがここまでお読みくださり、ありがとうございました。

読んでくださりありがとうございます。もし少しでも<また読みたい>と思っていただけたなら、気が向いたときにサポートいただけるとうれしいです。