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××りんとの決別

久しぶりに揃った面々と、「結婚するなら◯◯さん(共通の知人)みたいな子がいい!」という話をしていて、◯◯さんは私も大好きで親しくしている女の子だから力強く同意したのだけど、「××さん(私のこと)はその真逆を行くタイプですよね」と言われて、がーーーーーーん。真逆?そのゾーンには入っていませんよね、とかって程度でもなくて?180度違う?圧倒的にみんなが安らぎを得ている◯◯さんと正反対?つまりどういう意味だ。

さらに別の人から、「普通か普通じゃないかで言ったら××(私)は普通側ではない」と迷いなく言われて、さらにががーーーーーーーーーーーーん。発言者は、半年に一回は会っていて、旅行も一緒に行く仲である。なんならその人こそ独特な個性を持ったタイプだったので、「あなたに言われるほどに!?」という衝撃もあった。

今年に入ってからだいぶ心健やかに図太く元気に暮らしていたけど、これにはかなり堪えた。ショック。私そんなに奇をてらった個性派と思われてたの。

確かに、二十歳くらいまでの、彼らと一番一緒にいた頃の私は、「左利きAB型」というものにめちゃくちゃに憧れていた。いわゆる「何者か」になりたい願望、選民意識、みたいなのがすんごいあった。小学校の頃、持ち物でも図工の時間のアイデアでもなんでも誰かに真似られるということがものすごく苦痛で、「人と同じ」を避け続けた。大学の頃には好きなタイプを聞かれたら「左利きAB型っぽい人」とかならず答えていたし、私自身がそういう人になりたくて、左手でお箸を使う練習をしてみたり、改札通る時も敢えて左手でICカードをピッとかしたり。鳥のモチーフのイヤリングをつける日には、目玉焼きの指輪をはめてストーリー性を持たせてみたり(イヤリングも指輪も下北沢で買ったハンドメイドのやつ)。「普通じゃない」ということにものすごくこだわっていたので、「変な人だね」と言われるとそれはもう嬉しかった。やった!「ちょっと個性的な女の子」という印象を植え付けることに成功したぞ!という気持ちで、にんまりしていた。なんかだんだん黒歴史な気がしてきた。

が、とにかく、これらはもはや今の私の願望とはまったく異なる。今は普通でいい。というか、なんでもいい。どんな私だっていい。意識してなにかを目指さなくても、枠を決めて押し込めなくても、私はステキ。今の私が最高。そういうわけで、「個性」への執着やその手の価値判断をやめた私は至って平々凡々なもんだと思っていた。不思議なもので、あれだけ欲していた称号も、年を経て私を傷つける。そんなに私個性強めですか?大人になって丸くなったからだと思う。普通でいさせてほしいと願う。

そのまま次の日も丸一日心が晴れなくて、いろんな人に電話したり、グルグル考えた末に、忘れてたことを思い出す。

「あなたはあなたのことを知ってくれている人と付き合った方がいいよ。アプリみたいに外見のイメージから入るようなのじゃなくて」。いつもそう言ってくれる友達がいる。私が10代からずっと悩んできたことのひとつに、私の外見が相手に与えるイメージと、本来の性質とのギャップ、というのがある。高校生の頃からずっと「大人しそう」「穏やかそう」「女の子らしい」「家庭的」に見られやすいこと、本来の私とはかけ離れているのにその印象が強くてなかなか拭えないことにずっと苦しんできた。そういえば。あんな苦しかったのに最近ではすっかり忘れてた。「××りん」と呼ばれるのが苦痛で死にそうだった。付き合った人にもいた。「××ってほんとに穏やかだよね」と言ってくる人がいて、「え、私全然穏やかじゃないよ」と答えたが、謙遜ととられて「いやいや、そんなことないよ、××は穏やか!」などと謎にフォローされたり。本人が穏やかじゃないっつってんだから「穏やかじゃない」が正でしょうよ!とその時は思った。実際には付き合いたてでそこまで心を開けておらず、当社比で大人しくなっていただけだと思うが、3ヶ月くらい経って「やっと素が出せるようになってきた♪」とほっとしていたら、何かにつけて「女の子なんだからそういう言葉遣いしちゃだめでしょ」とか度々言われるようになった。相手を傷つけたり迷惑をかけたりしているならともかく、なんで本来の私を否定して、理想の私に「矯正」しようとするのか、訳が分からなかった。うるさかった。結局別れた。

noteを始めて3年3ヶ月、160本以上書いてる。その一番最初の記事でも書いている、「××りん」。あんなにも私を苦しめていた「××りん」のこと、私はもはや忘れて生きている。「結婚するなら」のあとに続きそうなのが「××りん」という女の子。しかし、私はその真逆だと言う。相手が私を「××りん」として認識しているのを察すると、私は何を話していいか分からなくなるのだと、何も話せなくなるのだと、3年前の私は言っている。「いやいや××は普通じゃないよ」と言ってくれる人たちには、何を話していいかわからなくなるような場面はない。ふと気がついたら、「××りん」は今どこを探してもいない。いなくなってる。私を「××りん」と思う人も、「××りん」である自分のことを否定する私も。考え抜いた末にそこにたどり着いたらちょっと泣けてきた。冒頭に書いた場面であんなにもショックだった訳が分かった気がする。ずっとそこにいたはずの人が知らないうちにいなくなっていて、でもそれが誰なのか思い出せもしなかったのだ。呪いおしまい。少しさみしい。

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