にんじょう。

今からちょうど6年前くらい。
父方の祖父が亡くなった。
当時資格勉強のために定職に就いておらず、家で漠然とした焦燥感に襲われながらも思うように体が動かない自分にモヤモヤする毎日を送っていた矢先、突然その連絡があった。

同じ市内に住んではいたものの、夏休み、冬休み、年末年始くらいしか会う機会はなかった。
おじいちゃんは、とにかく厳しかった。
大晦日に親戚一同集まって過ごす時、大人チームがお酒をがぶがぶ飲みでろんでろん(文字の如く本当にみんなでろんでろんだった。でもあの量飲んだら普通ぶっ倒れる人がいくらか出てもおかしくないので、やはりあの血筋、酒に強い...。)になっている隣の部屋で、子どもチームは大晦日恒例の某バラエティー番組や某体育会系番組を観てのんびりしていた。
そこに来るなりおじいちゃんは、
「テレビばっかり観ていると馬鹿になるぞ」
と言うのである。
せっかくの楽しい雰囲気が一気にどんよりした。
年末年始に関わらず、おじいちゃんがよく口にするのは、
「勉強の方はどうなっている?」
ということだった。
定年までは高校(確か高校...少し曖昧)で国語教師をしていたとのことで、わたしのお父さんを含め自分の子ども4人にも勉学の面では厳しかったようで、それは自然とわたしたち孫の代まで続いていた。

もちろん優しい時もたくさんあった。
特にわたしが好きだったのは、おじいちゃんのくれる帆立の貝柱だ。
今では帆立の貝柱は少量サイズでも結構良いお値段がする高級品だと分かるのだが、当時はそんなことも知らず、際限なくもらって食べていた。今思うと本当に贅沢。そして本当にわたしは幼い頃から帆立の貝柱をはじめ、柿ピー、するめいか等々、所謂酒のつまみが大好きだった。笑
勉強に関しても、良い成績だったよという旨を伝えると笑って喜んでくれたのも覚えている。

大学進学を機にただでさえ多くなかった会う機会が更に減り、わたしが大学在学中には少し認知症のような症状があるとのことで施設に入ったということを親から聞かされた。
正直、最後におじいちゃんに会ったのがいつだったかまったく覚えていない。
でも少なからず施設に入る前なはずなので、亡くなる数年前に会ったのが最後かと思われる。

そんなおじいちゃんの訃報を電話越しに伝えられ、電話を切った後ぶわーっと涙が溢れて止まらなくなった。
わたしにとって、身内の誰かが亡くなるという経験はおじいちゃんが初めてだった。
しばらく会っていなかったおじいちゃん。
いつも厳しくて、同じ空間にいると何を言われるか少し怖くてドキドキしたおじいちゃん。
でも笑顔がとても優しかったおじいちゃん。
“実感が湧かない”とよく言うが、本当にその通りだった。そして”実感“したくなかった。

前述した通り当時資格試験のために勉強中という名のニート生活を送っていたわたしは(学校に通うことはせず完全独学だったので、並行してバイトをしようとしたこともあったのだが、「資格勉強に専念しなさい。お金の面は心配しなくて大丈夫だから。」と父が言うので、つい甘えてしまった。大学生時代も周りのみんながバイトしている中、「勉強するために上京するんだからバイトはしなくて大丈夫。お金は全て工面するから。」と何度も念を押す父の言う通りにバイトはしなかった。実はこっそり数ヶ月焼き鳥屋さんでバイトしたけど。ずっと言ってないしこれからも内緒のお話。でもそれくらいわたしの父も勉強にはうるさく、厳しかった。括弧の中身が長い。笑)すぐに地元へ帰り、お葬式に行った。
相変わらず実感はなく、でも喪失感があり、お葬式というのもはじめてだったので、すごく緊張もした。でもなんとか気丈に振る舞わなきゃいけないと思い、時々うるっとしてもグッと堪えた。

しかしその我慢も、ある話でぷつんと途切れる。
お葬式の際、父の一番上のお兄さんがおじいちゃんのとあるエピソードを話し始めたのだ。

「『もし人が賑わっている店と、閑散とした店がふたつ並んでいたら、閑散とした店に入ってあげなさい。』とよく言っていました。あんなに厳格な父でしたが、そんな人間らしい優しい一面も持ち合わせていました。」
(もちろん一語一句正しく覚えているわけではないけど、言っていたこととほぼ同義)

その話を聞いた瞬間から、たぶん一本の糸線しか既に残っていなかったのであろう。わたしの中でプツリと切れ、涙が止まらなくなった。

わたしはおじいちゃん本人からそんな話を聞いたことはない。
後ほどお父さんににその話を聞いてみたけど、お父さんもそんな話聞いたことがないし覚えていない、とのことだった。(父は4人兄弟の3番目で、年齢も幼い方だったから忘れてる可能性も有り)
しかし、このエピソードが虚構なわけはないし、なんならそのエピソードを聞いたことで、お父さんの普段の行動の謎がようやく解けたのだ。

お母さんは食べることが本当に大好きで、とにかくグルメだ。その中でも特にラーメンが好きで、田舎で店の種類も少ないし、名店!というのもなかったが、いくつかお気に入りのお店もあり、よくそこに行って幸せそうに食べていた。
しかしお父さんはいつも
「あのお店はいつも混んでいるから、たまにはあっちのラーメン屋さん(全国チェーンで安さが売りの某ラーメン店。あえて名前伏せてみます。笑)に行こう。」
と言っていた。
お母さんは食には煩いので、そのお父さんの誘いに乗ることはまずなかったし、特別グルメでないわたしでも、「なんでわざわざ人の少ない人気のないお店に行くの?」と声には出さずとも心の中で思ってしまうほど謎だった。
お父さんは、頭では覚えていなくても心のどこかで、そんな人情深いおじいちゃんの信念や性格を見て学んでいたのかもしれない。

少し話は逸れるが、わたしのお父さんは贅沢をせず、とにかく物を大事にする人だ。
雪国で冬は心底冷える(というか最早寒さが「痛い」)から冬場絶対必要な手袋もいつも100均で購入したものを使っていた。ちなみにそんなお父さんに、社会人1年目に少し高価な手袋をプレゼントしたのだけど、勿体無くて使えないと言っていた。
身に付けるパジャマや靴下も、明らかに穴が開いていたり破れたりしていても、「まだまだ使えるから新しいのはいらない。」と本当の意味で使い倒していた。お母さんはそれを見ていつも「本当にみすぼらしいからやめてほしい」と言っていたし、わたしもそれくらい新しいの買えばいいのに...と思っていた。
腕時計のベルトが壊れた時も、まだ時計自体はちゃんと動くからと言って、ベルト部分をセロハンテープで修理してしばらくの間ずっと同じものを使っていた。

お父さんは本当に仕事人間だ。(とっくに定年退職の年齢であるが、今も尚働き続けている。職業的に「定年」というのが無いので、本人の意思がある限り働けるらしい。仕事辞めたらボケてしまいそうだから、身体壊すことがない限り仕事するつもりらしい。)
専業主婦のお母さんと子ども2人を何不自由なく生活させることができ、子ども2人が私立大に進学させることまでできるくらいの経済力はある。
今わたしがひとりの母親としてなって思う。わたしのお父さんは本当に、本当に偉大だ。
そんなお父さんが物を大切にするのは、ケチだからでも節約家だからでもない。
お父さんがお父さんから、そうやって育てられたからなのだ。

怒りっぽいとか、几帳面とか、性格の一部は遺伝で似ることも多いと思う。
しかし、環境によって新たに築かれる性格もあるだろう。
人情深いおじいちゃんのおかげで、今のお父さんがあるのだと、わたしは思う。

実家にいた頃はテレビを観ていると、「そんな暇があったら勉強しなさい」と言われるので、自分の部屋に篭って勉強してる振りをしながら、こっそりニンテンドーDSにアンテナを付けて小さな画面で大好きなロンドンハーツを観ていたわたしは、当時は勉強に関しては本当に口煩くて、お父さんが嫌で嫌で仕方がなかった。
でも今思えば、高校の時に文系理系を選ばなきゃいけない時も、当時の担任から理系を勧められていたし、お父さんも職業柄理系を勧めてもおかしくないのに、「好きなことをやりなさい。何を選んでも応援するからね。」と言って、わたしの気持ちを一番に優先してくれた。(実際わたしは文系に進んだ。担任には「もったいない」と何度も言われたが、お父さんは「頑張ってね」と応援してくれた。)
大学に関しても、幾つも大学を受けたのに不合格ばかりでこれは浪人確定か...と落ち込んでいた中、最後に残った一つの大学の結果発表を、職場で苦手なパソコンを使って確認して、合格が分かるとすぐに電話をかけてきてくれて「おめでとう」と一緒に喜んでくれた。

今ならお父さんが勉強勉強とわたしに厳しくしていた理由が分かる。
お父さん自身も、お父さんにそうやって育てられたのだろう。勉強することの大切さを身に染みて分かっていたから、それをわたしにも伝えたかったのだろう。
「お父さんもこんな経験があってね...だから勉強頑張ってほしいんだよ。」
と理由を一緒に述べてくれなかったのが、お父さんの唯一の失敗だと思う。
しかし、仕事の話も家では一切せず、お酒を飲まない限りほとんど寡黙なお父さん。(なんならあまりに仕事の話をしないものだから、ずっとお父さんが本当に仕事しているのか疑問だったし、お父さんの勤め先や役職を知ったのもネットのおかげだった。笑)
わたしももっとお父さんの度重なる「勉強しなさい」の言葉の意味を深く考えるべきだったし、「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いてみるべきだった。これはわたしの失敗でもある。

おじいちゃんの話でもう一つ思い出したことがある。
前述した通りおじいちゃんは定年まで国語教師をしていたのだが、退職後に自動車免許を取得したらしい。(どうしても今の時代高齢者の交通事故が大きく取り沙汰されることが多いし、安全面ではあまり良いことでないのかもしれないが)
本当なら定年退職後はゆっくりすればいいものの、免許のみならず農作業をはじめたり、地元の某高校の下宿所の運営をしたり、とにかく努力家だったのだ。
お父さんもそういう点ではとてもおじいちゃんにそっくりだ。仕事がお休みの日でも宇宙の本、歴史の本等々、仕事に関係のない知識をも取り入れて、常に努力を惜しまない。というか、本人は至って楽しんで取り入れているから、「努力」とは到底思っていないのだろう。
努力を努力と思わずできる人が真の努力家だな、と心から思う。


おじいちゃんの話からはじまり、こうしてお父さんにまつわるエピソードを思い出すと、改めてお父さんの子に生まれて良かったな、あんなお父さんあってこその今のわたしがあるんだな、としみじみ思う。

ただお父さん本人には言えないけど、一つだけここでこっそり言いたい。
物をそんなに大切にするなら、ビールももっと大切にしてあげてね。(500ml缶のビールを永遠と飲み続け、一日6本は軽く飲んでしまうので、、)
そして何より、自分の身体を大切にしてあげてね。
これまでも、そしてこれからも、ずっとありがとう。
いつまでも元気でいてね。

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