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セシボンといわせて

〈その朝/はじめに代えて〉


「セツが掛かってる!」

 階下の母の大声で、文字通りガバッと跳ね起きる。時刻は4時20分。部屋は煌々と明かりがついていた。多分外はまだ暗い。 

 身体が布団の上にあったのかどうかも曖昧で、まだ頭には靄がたちこめているのに、ここから忙しく動かなくちゃならないのだけはどこかで指令を受けでもしたみたいに分かっていて、その前にいったんトイレへ駆け込んでしまう。

 なんで?

 トイレの中でもずっと繰り返してる。シャワーも浴びず、歯も磨かず寝落ちした記憶が何となく戻ってくるけど、そんなことより。

 なんで? 

 なんでセツが掛かる?

 夕べあんなに警戒しとったじゃん。 フンフン、フンフン、嗅ぎ回って、最後まで中には入ろうとしなかったじゃん。だからさ、こりゃ無理だ、って思ったんだよ、 だから、誰か別の子が掛かると思い込んどったんだって。 ミサとか、おっかさんが掛かるかもしれんけど、しし丸だったら万々歳だ、って。
 

 まだ信じられん。心臓がドック、ドックと呑み込んでいる。

 なんでこんな、緊張するかな。

 階段を一段ずつ、体重ごと踏みしめて降りていく。 母の待つ車庫への扉を開ける。
 磨りガラス越しに置かれた長方形の枠の中に、何かしらの塊が見える。

  黒い、生きている質感のある塊の影。
 

 今日は仏滅。明日なら大安だったのに。

 ――って、いかん、いかん。今更何を言ってるんだろ......。


 準備、しなくちゃ、いけない。

 磨りガラスの戸の向こう側の長方形は昨夜仕掛けた捕獲器だ。 捕らえられたのは真っ黒い猫、丸くなっている影が映っている。
 敢えてガラス戸を開けて確認はしなかった。 もう母が〝セツ〟だと確かめているのだから。  猫に、自由にしてもらえるかも、という余分な期待を持たせたくない。


 黒猫、雄猫、成猫、セツ。


 昨日、まだ仕掛けをしていない捕獲器にエサだけ入れて置いてみたら、セツは中に入ろうともせずに、外側から一所懸命嗅ぎ回っていた。警戒心が強いから、臆病なセツが中に入るとはとても思えなかった。
 それはそれとして捕獲器は仕掛けた。去勢済みの猫が掛かったらすぐに逃がすし、去勢していない猫が捕まれば有り難い。

 携帯を見ながら寝落ちした自分が、最後に捕獲器を見たのは午後10時半頃。母が一度起きた夜中3時頃も誰も掛かっていなかった。


 準備、しなきゃならない。


 これから、セツをうちの子として迎え入れるために。

  一緒に暮らしていけるように。



 まだ夜も明けていないのに、手探りの日々が始まろうとしている。


〈一日目①/夜明け前/記録を兼ねて〉


 セツが捕まった。

 1歳半になるかならないかの、雄の野良猫だ。

 捕まらないだろう、と高をくくっていたので、心の準備が出来ていない。


「エサを......」と母が口に出したところに、被せるように、水も替えとくわ、と言ってしまった私の言葉で「そうだね」と母は台所へ水を取りに行ってしまう。私が行くのに、エサの用意の前に彼女が動き出す。二人ともどこか浮き足立っている。

 水を捨てながら考える。
 まずはケージだ。
 車庫の真ん中に仮置きしてあるケージを、セツを迎えたら〝ここに置く〟と決めてある位置まで移動させよう。

 その前に、捕獲器(踏み板式)からケージへ移す時のために、捕獲器内の餌入れが無い側の口を確かめたくて、磨り硝子の戸を引き開け、今日初めてセツに話し掛ける。

「今日からウチの子になってください。正式な名前はセシボンだよ、セツとか、せっちゃんとか(今まで通り)呼ぶけど」
 大人しい。暴れてはいない。丸くなっている。顔は見えない。 

 小さな声で「くぅーん、くぅーん」と鳴く。

  この時、皿の中にはエサが入っていなかったので、ウチらが来たから少しは安心して食べたのかな、などと呑気な思いが片隅にあった。


 スリムタイプのケージは2段型で棚が2つと扉が上下段に2つある。ハンモック付きにしたのは私の好みだ。ケージを設置し直してから、ケージの前面にくっつけるようにして薄型の収納ケース(55cm×40cm×幅12.5cm)を寝かせる。その上に白いワイヤーネットで母が作ったゴミカゴ(40cm×40cm×62cm/今回のためにジョイント部分を紐で縛り直して固くなるよう補強済)を倒して手前に長くなるように置く。捕獲器を乗せる台にするのだ。
 当初は下段の扉から猫を移動させるつもりだった。でもケージ本体の高さや、扉の位置とその形などの兼ね合いでどうにも上手くいかない。上段の方が扉が小さいから試しに捕獲器の口と合わせてみると、上部分には猫が出られるくらいの隙間が出来るものの横幅はぴったりだ。ただ、ケージは引き戸ではなく外開きなので、閉めるのに時間がかかる。そこで逃げ防止対策として上部分の隙間を埋めるためワイヤーネット(29cm×29cm) を紐で縛り付けた。その結び目を解いて垂直方向へ下ろし、入口を塞いでから扉を閉め、ワイヤーネットを上へ抜くことにした。捕獲器の入り口はギロチンみたく上下に動くので、それを上にあげれば猫がケージの中に飛び込んで床に降りるか、或いは下の棚に降りても、ジャンプして上の棚に逃げるだろう、と踏んでいる。
 一昨日何回かシミュレーションしたけれどとうとう本番になってしまった。


 前開きの古い綿ワンピースを全開にして大きめの一枚布の代わりにし、捕獲器を覆ってセツから周りが見えないようにする。
 いざ捕獲器を持ちあげる時になって手袋がひと組しか見当たらない。冬用の合皮厚手の物をセツが暴れた場合に備えて用意していたのに。
 探しついでに母が日よけ用の長袖腕カバーも持ってきてくれた。短い袖のカットソーを着ていた私に、怪我避けに無いよりはマシだろうから、と渡してくれる。
 残念だけど私たちはセツに触らせてもらえるほどには信用されていないから用心に越したことは無い。
 捕獲器の中央の持ち手を両手でしっかり握る。ガタッと斜めに肘ごと重みで引っ張られる。猫が寄っている方へ重みで傾く。ワンピースに隠されて見えなくても猫が身体を硬くするのが分かる。捕獲器の向きに注意しながら、母と声を掛け合って白いゴミカゴの上に乗せる。ケージの上段の扉が開けてあるので、乗せながらその扉の開き口に塩梅よく嵌まるように整える。

 いよいよだ。 

 そんなに簡単にケージへ入ってくれるのか、少し疑問もあるが、今はやるしかない。

 ケージに入ったら、すぐさまワイヤーネットを下ろすんだ。

「上げるよ!」
 捕獲器の、しっかり重みがある扉を真っ直ぐ上に引き上げる。さっ、と残像も残らない程の速さでセツがケージ内、真下に飛び込む。

 やった!!

 が、すぐに下の棚に上がってきた。
 想定外だった。
 下の棚に乗ってくる予定じゃなかった! こっちがほんのちょっとモタついた間にそこへ来てしまった。いや、もちろんこちらも同時進行で必死に動いてるけど、そりゃそーだ、最も外に出られる可能性のある所に来るよ、そんなの。
 ワイヤーネットの結び目を解くのに僅かに時間がかかった。解けて、入り口を塞ぐ為に真下へ下ろそうとして、下ろせはしたけど、猫の動きに驚いて、ネットを支えていた指も外れてしまい、ネットはそのままケージの床へと落下。幸い、落ちていくネットに驚いてセツも床へ。その隙に扉を閉めた。
 母娘で言い合う声のBGMも含めて全体に極く短い間の出来事だ。

 それから洗濯ばさみやカラビナを利用して扉が開かないように留めていく。

 真下に落ちたネットのマス目に猫の足が引っかかって斜めになっている。ケージの隙間から指を入れて直そうとすると、足が抜けて、セツは下の棚へ上がる。杖やら細い棒状の物を差し込んで引っかけて母娘で協力してネットを持ち上げ、猫のトイレとケージとの間になんとか立てかけられた。そこの部分だけ、ケージが格子柄になった。
 

 チャオちゅーるを1本あげる。「くぅーん、くぅーん」と鳴きながら食べてくれた。
 外からの視線を隠して安心させるために段ボールを被せる。この組み立て式ケージが入っていた箱なのでサイズは丁度いいし、上の棚板まで覆い隠せる。

 車庫のシャッターを半分だけ開ける。外はまだ暗くて、それでもどことなくうっすらと群青色が感じ取れる。車庫の電気を消し扉を閉める。5時になったところだった。


〈一日目②/日中/雨〉 


 朝、6時半。外は薄く黄色に染まっている。暑い夏の日の始まりの色。洗い物をしながら何とはなしに顔をあげる。窓からすぐ目の前に植木がある。濃い緑の葉の手前の一枚に蝉の抜け殻が残っている。その隣のかしの木を黒い色がずずずっっ、と落ちていく。トラ縞の子猫は上手く登っているのに、黒い子猫の方が何度も落ちかけ、それでも懸命に練習していた。母猫が近くで身体を舐めながらこちらを窺っている。
 片や自由な外の世界で、片や不自由なケージの中で。

  囲われたセツの世界は、私の勝手、私の意思で分けられた。


 2時間ほど経って車庫へ行くと、ケージにかけてあった筈の古いワンピースが、ケージ内に引きずり込まれて丸まってクシャクシャになっている。角にあったので、ケージの柵の隙間からずるずる引っ張り出す。
 ゼリー状のちゅーるをあげようとしたが食べない。セツの目が強烈な負のオーラを放ち、負い目のあるこちらが落ち込んでいく。
 散々暴れた痕跡はケージの床に敷いていたバスタオルを見ても明らかだ。おそらく狭いケージ内で引っ張り回したのだろう。トイレ代わりのバスケット(100円ショップで購入)をバスタオルの上に置いてあったので、斜めになって砂がこぼれている。慣れるまで、トイレは砂系を使うよう勧められ、固まるタイプの砂を用意した。それが飲み水の皿にドッサリこぼれて、皿の形に平たく丸く固まっていた。
 その後も時折車庫を覗くけれど、目が合う度に責められている気がしていたたまれない。 動物病院の先生は二ヶ月はケージから出さないこと、と仰ったけれど。
 

 ここから二ヶ月なんて。
 

 まだ始まったばかりなのに。


 雨が降りだす前にバスに乗って保健所まで捕獲器の返却に行く。借りたのは二度目だ。 初めて借りた去年は、セツとその姉妹猫も捕まえて去勢した。まだ1年にもなっていない。
 返却手続きを終えた帰り道、ボタボタボタッと振り出した雨はあっという間にザアザア降りになって、傘も震えるほどだった。


 やっと帰宅し、セツのケージを見に行く。
鳴いていたのかもしれないけれど、足音で人間が来たのは分かるから、こちらが行くと息を潜めている。

「ねえ、セシボン、って言わせて。セシボンって呼ばせてよ」

  口に出してしまって、更に押し付けるなんて、それともセツに甘えているならお門違いだよ、と自分が嫌になる。


 遅い昼食を済ませる。気が落ち着かない。どうにもやりきれずとうとう犬猫センターに電話してしまう。本当に二ヶ月も閉じ込めておかなくちゃならないのか。どうしたらいいのか、気休めでもいいから知りたかった。
 前に電話で相談した時も気さくに親切に相談にのってくれた。同じ人ではなかったけれど今日も親身に優しく丁寧に応対してくれる。
 先生が仰るなら二ヶ月出さない方がいいでしょう、とのこと。そして、

「お話を聞くところだととても優しい猫ちゃんですし、5年とかじゃなくて1年数ヶ月しか外で生活してないなら、なんとかなるかもしれませんよ」

 その言葉に少し嬉しくなる。すがる思いで、ちょっとずつ心も静めようとする。


 当初、夕方から母と二人で出かける予定があったのが流れた。 

 心底ほっとした。


〈一日目③/夕方/蝶野さん〉


 夕方から出かける予定が流れた。

 よし、ケージの掃除だ。

 セツは今のところ人間の前では一番上の棚から降りてこないので、細心の注意を払ってケージの隙間から手を入れ、餌入れに指を掛ける。バスタオルにまみれて斜め状態だったので、中身のカリカリはほとんどこぼれている。缶詰を入れた方はひっくり返っていて、手が届かない。
 トイレにオシッコはしていない。でもケージの周りにまで砂やエサがバンバンに飛び散らかっている。必死に逃げようとしたのが分かる。
 ケージの床上に敷いていたバスタオルは滑りまくっている。床はプラスチックなのだから、よく考えればこうなるのは予測できたのに、想像力が足りなさすぎた。


 床とケージの扉の隙間からソロソロとバスタオルを引き出す。同時に手が届かなかった皿もついてきた。
 この、缶詰を入れていた餌入れは空で、バスタオルが汚れていない(こぼれていない)ことからセツが食べたと判明。食べた、という事実に胸を撫で下ろす。
 餌入れは専用の物もあるけれど敢えて今は使用せず、植木鉢の受け皿でプラスチックのを使っている。薄くて軽くてケージの柵の間から出し入れしやすい。セツが逃げないよう、なるべくケージの扉を閉めたままやれることはやりたかった。
 ケージ内にこぼれまくっている砂やカリカリは、溝を掃除するタイプの小さな箒を柵の間から入れ込んで掃き出していく。なかなかに時間が掛かる。


 掃除をしながら、ケージに段ボールを敷こうかと考えていると、母が30cm四方の床用ジョイントマットを使おうと言い出した。

 それだ!

 庭にいる子猫達も大人猫達も好んで似たような物でバリバリ爪を研いでいる。そのマット1枚と3分の1枚(に切った)の組み合わせが2つ分で収まる。出っ張る部分はハサミで切り落とした。これを床の隙間から入れ込み、トイレは代用品のバスケットなので本体は軽いから、柵の間から入れた手で持ち上げたりしながら、母と協力して全体にマットを敷くことが出来た。

 

 あんなに土砂降りだった雨がいつの間にか上がっている。
 ケージを掃除した勢いで家の周りも掃いていると、母と誰かが話している声がする。 

 蝶野さんだ。

 蝶野さんはご近所さんで、母の仲良しさんだ。早速セツを見せたらしく、毛の艶がいい、毛並みが良い、上品な顔をしている、と言ってくれる。それから私に、

「また名前、つけるんでしょう。今度はどんなのにするの?」
と尋く。母もいるので、少し遠慮がちに答える。

「まだ母の賛同を得られてないけど、セシボンにしようと」


「まあ、それはいいわね」


  蝶野さんの声が弾む。笑顔が華やかになる。

「そう言ってあげると本人もそうなっていくし、私たちが口にすることで皆でセシボンになっていくから」 


 あぁ、おばさん!ありがとう!

 どんなに心強いか。


 力強い後ろ盾をもらった気がした。

 蝶野さんのおばさんが本当に大好きだ。


 

 私はセツの正式な名前を〝セシボン〟で確定にした。


〈二日目〉

 

 夜中、暴れた跡がある。
 トイレの砂やら飲み水、エサ入れも悉くひっくり返っている。 

 本人の姿はケージに被せた段ボールの影に隠されて見られない。それでもケージの周りを掃除しながらセツに話しかけていけば、くーん、くーん、と鳴いている。 

 昨日は駄目だったけれど、今朝はチャオちゅーるを手から食べたので一安心し、3本もあげてしまう。捕まったばかりでつい甘やかしてしまうのを、きっと今は必要だろうと自分に言い訳して缶詰も切ってやる。
 

 夕方、ケージ内の清掃方法を考えついた母がワイヤーネットを買ってきた。ケージの端から端へ渡し入れて一階部分にフタをするという。もちろん都合よくピッタリとした大きさの物など無いので、長方形と正方形の物を組み合わせ、紐で結び合わせる。これだけだと不安定なので、更にその上に長方形のワイヤーネットを重ね、万一セツが上段から飛び降りて来ても反転して落ちてしまわないようにする。
 ケージに設置してみる。ワイヤーネットと棚板との間に隙間が出来るのは予想していたが、猫の頭が通りそうだ。そこで、トマトを箱買いした時の段ボールの、高さの部分を切ってはめてみると、上手い具合にぴったりと隙間が埋まった。


 一階とニ階部分を分けられたので、下のケージの扉を開けてもセツは逃げられないし、私たちも襲われる危険を回避できる。ようやくケージの床を掃除出来るようになったのだ。
 

 この作業の場面をこの前、夢で見た。デジャヴというのか、夢の中で母と準備しながらも、まだ猫はいないのに――、と思っていたっけ......。


〈二日目〜三日目にかけて〉


 深夜。うたた寝していて目が覚めると時計の針は天辺を過ぎている。

 車庫の電灯のスイッチを入れた途端、ケージの周りに段ボールの屑がボロボロと落ちている様が目に入る。それから におい。独特な違和感のある臭い。 

 あ!

 トイレ代わりのバスケットの一角を越えた所で砂がこんもりと山になっている。バスケットを覗くとその中にも2~2.5cmくらいの黒い排泄物が幾つもあり、砂の塊もできている。
 おぉ~、よかった、やっと排泄したんだ。
 上手に出来たねぇ、と声を掛けながら、ケージの隙間から箸を突っ込み、塊を少しずつ取り除く。こんもりこぼれて山になった砂は箸では取れないので後回しだ。犬猫センターの人が、トイレについては心配しなくても大丈夫、と言っていたが、その通りで感心する。


 段ボールの屑はケージ床やトイレの中にも落ちている。
 この段ボールは元々この組立用ケージが入っていた物で、天地をひっくり返せばケージをすっぽり覆えた。垂れ下がるフラップの部分が良い塩梅でケージの一段目を見えなくしてくれたからセツの目隠しにピッタリだった。ただ、一段目だけではセツにしたら心許ないかもしれないと、更に梱包材として使われていた段ボールの板をガムテープで各フラップ部分に継ぎ足して留めた。これで二段目まで隠れていた。このうちの一枚が三カ所ほど半円を描くように削られている。
 初めは、爪を研いだのかとも思った。それとも床から飛びついたのか、とも。
 この時点でも私はセツに寄り添えてなどいなかった。そもそも初日に捕獲器内の空のエサ入れを見て、私たちが来たから少しは安心して食べられたのかな、と呑気に思っていたくらいだ。 朝が早くてまだ頭が覚めきっていなかったとはいえ、よくよく考えれば今まで去勢の為に捕まえた猫も、捕獲器の中でパニックで皿をひっくり返していたのに。セツを「捕まえた」という事実に興奮していたんだろうか。


 まだ子猫の頃のセツ。毎朝早くからシンと二匹で物置代わりの古い犬小屋からそっくりな黒い顔を並べてひょこっと出して、満月みたいにまん丸で菜の花色のお目々も四つ並べてこっちを見ていたね。なのに私の我が儘のせいで、ごめん。


 でも今セツは自分が想像していたより、もうずっと体が大きくなっていて、とっくに大人になっていて、その真っ黒な身体を伸ばして段ボールの板を噛みちぎっていた。逃げる為に懸命に頑張った跡だった。



〈三日目〉


 朝。更に段ボールが屑化している。

 オシッコもしてあったので片し、ケージの中に散らかる大きな屑は取り除く。

 あれだけの量を排泄したのだからお腹が空いているだろうと、ちゅーるをやると、終わり辺りで爪で袋を掻き寄せる仕草をする。「 あ ! 」と思い 、すぐに缶詰を開ける 。 なんで最初から缶を切らなかったのか、自分。
 直径12cmほどの植木鉢の受け皿をケージの隙間から差し込んで二段目の棚板に置く。 そこへスプーンで缶詰を掬って一匙ずつ入れていく。
 すると余程空腹だったのか、セシボンが、まだ皿に入れている途中なのに二段目に降りてきてパクパクと食べ始める。缶の量の3分の1くらい食べたところでフイ、と止め (皿にはキッチリ残っている)、上段へと上がってしまう。残った缶詰の中の半分をエサの皿に入れ、ひとまず家の中へ戻る。
 30~40分後、車庫へ戻ると食べてあったので、残りも全部入れておく。


 自分としては本心ではセシボンのケージを食堂か、せめて玄関に置きたかった。が、母は車庫に置くと言ったし、夫はそもそも猫を飼うこと自体賛成では無かったから仕方がない。それに多少の予想はしていたものの、こんなに酷くケージや周りが汚れては難易度は高過ぎただろう。
 でもこの選択はあまり良くはなかった。あくまでも人側の都合だった。日中簡単にセシボンに声を掛けられない。わざわざ車庫へ覗きに行かねばならないし、在宅中の時間の多くを車庫で過ごすのは無理な相談だった。
 つまりセシボンはいつもひとりぼっちだった。

 現にこの日は夜遅く帰宅するまで、ほぼほぼ放ったらかしになってしまった。

 シャッターを下ろしてしまうと外も見えない環境は、セシボンからしたら心底苦痛だったろう。


 2年ほど前まで猫と生活を共にしてはいた。けれど面倒をみていたわけでもない私は、 対ねこド素人すぎて、何にも分かっていなかった。



〈四日目/C'est si bonセシボン〉


 昼間にタレントさんの保護猫預かりの動画を見た。ハンモックは無いが、うちと同じケージのようだ。そのケージの一番上の棚板に寝床が用意されている。

 あ......!
 やってしまった......。

  二週間ほど前、動物病院で少し話を聞いてきた際、まずはケージを用意して中にトイレと寝床を設置するよう教わったのに、寝床を置くのをすっかり忘れていたのだ。 ハンモックはあるがセシボンは使おうとしない。理由はなんとなく察しが付く。ケージを組み立てて付属のハンモックをS字金具で取り付けた時に、これって大丈夫なのかな、と一抹の不安があった。フックが外れてしまいそうな気がしたのだ。子猫ならいいかもだけど。


 今日は車庫を使う用事があって、ケージを外へ出せるように準備をする。シャッターを開けて車庫の掃除をしながら空を眺める。曇天。夕方までもつかどうか。ひさしの下なので濡れる心配は無いだろうが。
 母の帰宅を待って、二人でケージを外に出した。


 夕方訪れた知人にセシボンを会わせる。彼女は黒毛に挨拶し「ここの家でラッキーねぇ」と言ってくれるが、間もなくザーザー降りになり、外に出されたケージの中のセシボンはずーっと、不満そうに、なんだか鳴くというよりは〝言い〟続けている。「よく喋るね、ずっと喋ってるね」   知人が屈託なく笑う。それから「名前は?」と言った。セシボンだと答えると意味を尋ねられた。


 誰かに黒猫の名を問われて〝セシボン〟と答えると、大抵の人が不思議そうな顔をする。意味を聞かれることもある。あまり耳慣れない響きかもしれない。
 元々〝セツ〟は便宜的につけた名だ。〝セッちゃん〟とも呼んでいる。
 ウチの子として迎え入れるなら、きちんと名前を付け直したかった。なるべくセツ本人が混乱しにくいように〝セツ〟や〝セッちゃん〟をいかして〝せ〟から始まる名前にしたかった。――が、考えても考えてもなかなか良い名前が浮かばない。ネット購入したケージがやっと届いて組み立てても考えていたから三週間くらいは考えていたと思う。ずっと和名でつけようとしていた。漢字にして、できるなら幸せになって欲しいから、そんな意味合いも込めたかった。
 ケージを作った翌日だったか翌々日だったか。家への帰り道、すぐそこの坂を上っていたとき、ふと〝セシボン〟という単語が浮かんだ。多分フランス語だ、と思った。すぐにスマホを取り出し、とりあえずカタカナで入力した。

〝セシボン〟はフランス語の「C‘est si bon 」だった。この綴りと、「素敵だ」「素晴らしい」とか「とても良い」などの意味が出てきた。

 これだ!これがいい!


 その場で空中に指でカタカナをなぞり、画数を数えてみる。十三画だ。自分の古い記憶では、十三画はおしゃべりが得意で、歌が上手くて、人生もうまくいくような、良い画数だった。口下手で思いを上手く人に伝えられなくて、その日発した言葉を後悔して、今更 どうしようも無いのに何度も心でやり直してしまう、歌も苦手でカラオケすら片手の指で十分な回数くらいしか行ったことがない、そんな自分には憧れのある画数だったので覚えていたのだ。
 

 幸せな猫生じんせいを送れますように。

 これからはセシボンって呼ぼう。


 あとは母に上手く伝えられるかどうか、だ。でもこの名に関しては引いたらダメだ。間もなく捕まえるから、早くしなくちゃ――
 どうやって話をしたかは忘れてしまったが、案の定、感触は芳しくなかった。それでも、 蝶野のおばさんの後押しをもらってからは、母もセシボンと呼んでくれる回数が増えていった。


〈五日目/シマ〉


 夕べ車庫で2時間くらい過ごした。捕獲して以来初めてだ。

 車庫へ行くと珍しくセシボンがケージの二段目にいる。

 捕獲前、〝セツ〟が来るのを待っていた日々と同じように、青い座椅子を引っ張ってきてゆるっと座る。寝たフリをしたりして、じーっと見つめないようにしている。

 いつのまにかセシボンが床へ降りて排泄し始める。そのおかげでトイレが小さすぎるとわかる。当初のバスケットより二回りくらい大きな古い桐の箱に変えてはいたが、それも小さすぎたのだ。

 日中見た動画とあわせて、寝床と、更に大きなトイレが必要だと分かった。

 午前中トイレと寝床の準備をする。
 母が、以前飼っていた猫のお古のトイレを幾つか残してあるから、その内の小ぶりのを使おう、と言う。猫の顔の形をした物だ。桐の箱より一層大きくなったし、縁も厚みを増したので汚しにくくなると助かる。箱の大きさに合わせていたから今までは砂も少なすぎたかもしれないので多めに入れてみる。
 当初トイレ代わりに使っていたバスケットをきれいに洗って消毒し、母の手縫いの足拭き雑巾の中からふかふかしている物をって敷き、その上に更にハンモックの布を被せてベッドを作る。(今朝、ハンモックが半分外れていたので外側からはずした。)今更なので寝てくれるかは期待していない。

 二人でガタガタやれば猫は怯えて降りてこないかも、と今日は敢えてワイヤーネットで一階と二階を仕切らずにやってみた。
 ベッドを設置する段になって、ハンモックの布だけの方がいい、という母の意見で足拭き雑巾を抜く。そのベッドを一段目の棚板に置きたいところなのだが、一段目はセシボンがいつも身を潜めているので退かす訳にもいかないし、退かす術もないし、そもそもこちらのミスだしーー。で、ニ段目に仮置きした。

 トイレはいい大きさでおさまり ( 既製品なのだから当然といえば当然 ... ... )ついでに爪とぎも置いてみた。
 玩具がいるかどうか悩んだ末に掌に収まる程度の小さな羊のぬいぐるみもケージの枠に挟んでおいた。


 ところで今日は〝シマ〟と〝おっかさん〟を見ていない。
 自分がセシボンの世話で手一杯なのに加えて、外出が続いており、天候不順も相まって、 庭に訪れる猫たちをかまっていられなかった。


 我が家の庭に訪れる野良猫の今のメインはおっかさん一家だ。〝おっかさん〟は〝ミミコ〟という猫の娘だ。この母娘、見た目がそっくりなサビ猫で、なかなか区別がつかずにどちらもミミコと呼んでしまう。とりあえず子猫を産んでからは、うちの母が娘猫を〝おっかさん〟と呼び始めた。当初おっかさんとミミコは二人で子猫たちの面倒をみていた。 猫の習性に疎い私たちにとって、これは驚きの発見だった。
 子猫は三匹いた。茶トラと、黒毛と、濃い灰色の縞模様だった。この灰縞の子猫は身体の模様がクッキリしていたので、シマとかシマシマとか呼んでいた。
 そのシマを今日は見ない。黒と茶トラだけが来ている。
 昨日も来ていない気がする。一ヶ月以上前にもシマだけ数日顔を見せなかったりしたけれど、少し気懸かりだ。

 三、四日前からおっかさんは、子猫がおっかさんのエサを横から食べようとすると、その子猫を足で押さえて威嚇したり、怒ったりするようになっていた。おっかさんを見ないのは、いよいよ子離れの時期だからなのだろうか。
 去年、セツとシンが親猫と別れ、うちの庭に二匹で訪れるようになったのも、 今のシマたちくらいの大きさだったかもしれない。



〈六日目〉

 朝、母がおっかさんを見かけて声を掛けたが、さっと逃げたという。台所の窓の 辺りには黒がいたらしい。
 今日は黒と茶トラだけがずっと庭で遊んでいた。


 今朝もケージ周りが段ボールの屑だらけで、羊の人形も床に落ちている。羊も少しはセシボンの気晴らしになっているのだろうか、それともイライラを増やしただけかしら。


 水も大半が零れていて、爪とぎも濡れていたので乾かすために出して、トイレも皿類も皆 出して、床の敷物も取り外して。
 さあ、掃除だ!
 掃いて、布で拭き、仕上げにアルコールでも拭いた。 

 二段目の棚板に据えたベッドの隣に缶詰を入れた餌入れを乗せる。それだけで狭い棚板は余白が無くなる。すぐに常は一段目に居るセシボンが、その一段目から前足を伸ばして極く少量、口をつけた。そのまま身体全部を二段目の棚板へ持ってきて背中を山型にし、ベッドの隣の狭い隙間にうずくまるように丸くなる。
「皿の上〰〰〰〰っっ」
 声が漏れて黒猫に訴えてしまう。見事に皿に覆い被さっている。それもウェットフード入りの皿だよ......。猫は狭い所が好き、って聞くけど......、好きなんだ......??
 セシボンが一段目に去ってから、ケージの外側より指を差し入れて、中身をひっくり返さないようにバランスをとりつつ、餌入れの皿を床に下ろした。


 午後、出先から帰宅した母に、猫のケージを掃除してない、と指摘される。

「え!掃除したよ。アルコールで拭くまでしたよ」
 車庫へ行くと段ボールは屑化、柵にはめ直した筈の羊も床にいる。

 再び清掃。そのまま車庫で、母と一緒に趣味事に使用する物などの整理を始める。   セシボンはその間中ずーっと「ンー、ンー、ンー、ンー、」とないている。「ミャーウ」とも、なく。私たちが居るからかエサも食べない。


 夜10時前に母が車庫へ行くと特に変わりなく、ちゅーる2本を食べた、と言う。
 小半時もしてから、趣味事の物を借りたいと電話が入り、探しがてら車庫のドアを開ける。
 水は零れているものの、排泄してあるし、缶詰も食べ、カリカリも食べてある。
 上手にトイレをしてるよ、と母に伝える。床に砂は落ちているが、今までよりずっと少ない。
 母も確認して、本当だね、と返してくるが、電話の返事をする為、そのまま車庫を出て行った。


 腰を低く下げてトイレの始末をしながら、家猫にむいてるよ、ね、などと声を掛ける。 次に缶詰用、カリカリ用、水用と皿類を出そうとした時だった。頭上で猫がガタガタッと動いてケージ全体が揺れた。

 ヤバい!――これは、逃げられる、という感情で――
 思わず、「キャーッ」と叫ぶ。びっくりしてセシボンの方が留まる。もしかすると向きを変えただけかもしれないのに、外に出る隙を窺っているような気がしてならない。
 掃除はまだ、二人で行う方がいいのかもしれない。昼間、一人でもうまくやれたから、いい気になってしまったと反省する。昨日は母がちゅーるをあげている隙に掃除したくせに。
 今度は慎重に作業をし、水と餌やりも終え、ケージの扉を閉めた。それからセシボンになんだかんだ他愛のないことを話しかける。セシボンはひたすら「ンー、ンー、」となき続けていたが、私が喋り続けているので、『もうコイツに言ってもムダだ』と悟ったのか、 クロワッサンの体勢を取り、完全に顔をあっちへ背けて見せないようにされてしまった。



〈七日目〉


 そろそろこちらの心が折れそうになってくる。

 どうしたって閉じ込めているのは可哀相だ。
 寝床の用意も忘れていてごめん。 

 ただ、今までみたいに、車に轢かれてやしないか、だの、喧嘩でやられてやしないか、だの、そういう不安からは逃れられて、それこそ己のエゴなのは承知の上で、この〝安心〟はそれはそれで代え難い。
 ケージに入れたセシボンの体躯は、自分が想像していたより大きかったから、ケージが狭くて気の毒で放してあげたくなるけれど、それをやったらエゴの上塗りだ。

 夕方、干していた爪研ぎが乾いたのでケージへ戻した。

  夜にはその爪研ぎは水とカリカリまみれになり、また外へ出した。 

 トイレの粗相は無かったので、排泄物を除きながら上手だねえ、と何回も褒める。 

 今日は全体にケージ周りが汚れなかった。


〈本日のセシボンさん〉

 今日はパウチのウェットフードを用意して、ケージに入れておいた。 

 私が去ったので、棚板の一段目からエサの置かれた二段目へと身体を伸ばし、いざ食べようとしたところに、帰宅した母が車庫の引き戸をガラッと開けた。

 驚いて固まっていたらしい。


〈八日目①/趣味じゃない〉


 朝、ウンチがしてあった。流石に臭かったので掃除する。一昨日から干していた砂と交換する。砂の下に敷いている脱臭抗菌マット(我が家では板と呼んでいる)は何故か二枚重ねてあったのでひっくり返した。それから干した砂に新しい砂も足した。
 けれども今一つ。何だかどうも臭いままな気がする。  

 気懸かりがもう一つ。

 夕べからエサを食べた気配が薄い。とは言え今日は忙しいのでそのままにしてしまう。

 朝から晩方まで外出して帰宅。案の定、エサが全く減っていない。
 代わりと言っては何だけどウンチはしてある。今まで夜一回の排便だったのに、夕べから三回目だ。しかも平たい形状で。そういえば朝も平らだった。もしや下痢している??体調が良くなくて食べないのかな。昨日もあまり食べていなかったし。それともストレス とか......??

 そしてやっぱり何だかくさい......。におい問題が解決されないので改めて砂を替え直そうと、板をはずした。効果てきめん!臭いがしなくなった!
 このマットこそ代えるべきだったのか。二枚重ねてあったし、まだ全然使える、と早合点したのが間違いだった。( マットの説明にも一週間はニオワない、と記載されていました。既に八日目。ちゃんと読めよ、って話です......)
 この際、板ではなく消臭抗菌シートを試してみようと思い立ち、砂も、新しい軽量タイプに替えてみた。


 寝る前にセシボンの様子を見に行こうとすると、車庫の扉の内側まで鳴き声が響いている。漏れ聞こえという音量では無い。「え?ないてる?」と、慌てて扉を開けて明かりを点ける。
 セシボンが二段目の棚板のベッドに陣取り、大声で「ナー」「ナー」訴えている。ケージ に近づくと、トイレの砂を入れる部分がずれていた。
 反対側の床半分(ケージ正面から左側にトイレを置いている、その反対側つまり向かって右側)を大きく埋める形で斜めにずれ、そのために水などもこぼれまくっている。
 ケージの周囲には段ボールも散っている。すぐさま母に助けを乞う。二段目にセシボンが居るとなると一人では処理が難しい。棚板の二段目は、ケージの一階と二階を仕切るワ イヤーネットを渡した場合、位置的にネットの下になる。だから今日の場合、ワイヤーネ ットで仕切ることが出来ないのだ。
 セシボンは私たちに異常を知らせる為に鳴いていたのだろうか。最後に車庫を後にしてから約1時間半経っている。一晩中鳴かせることにならなくて良かった。

 ケージの正面と裏側に母と自分とそれぞれしゃがむ。まだ砂は汚れていないようだ。柵の間から指を突っ込み、トイレのズレた部分を二人の指で持ち上がるか試してみる。軽量の砂に変更していたのが幸いした。協力してずらしながら、持ち上げてトイレの土台の上部分に収めようとし、何回かやり直しながらもきちんとはめ込めた。
 トイレをやり直した時に臭いばかりに気を取られて、はめ込みの確認をしなかったのだろう。消臭抗菌シートの端の部分がトイレの土台からはみ出ているが、破れてはいないので、猫がシートを引っ張ったのでもなさそうだ。
 片付けていると、急にケージがガタガタ揺れた。セシボンが一段目へ戻った反動だった。「あぁ、やっぱり教えてたんだね」と母と話をする。

 

 今日、母と二人で出かけた先で、今回の猫の件は「(貴方の) 趣味(にすぎない)でしょう」と言われた。大好きな人のひと言がツライ。
 趣味じゃないです、と言ったものの、上手く伝えられたかどうか。

  始めたばかりの趣味だったらもっとワクワしそうなものなのに。

 病気や怪我の子を保護したわけじゃない。猫(セツ)本人に頼まれてもいない。

 セツと再会し、悩んで悩んで悩んで、決心して保護(セツからすれば監禁か)へと着手した。だからどんなに今、今、が可哀相でも、ここから先を考えて、心を鬼にして、どうするのが最善なのか分からないまま、手探りで半分泣きそうになりながら、毎日ケージの前にしゃがんでいる。


 ケージの掃除なども一段落し、母がちゅーるをやりながら話しかけている。

「あんたは〝セシボン〟なんだって」

 あ、やっと、名前、認めてくれたんだ。よかった。今日は諸々ささくれ立っていたのがようやく丸くなっていく。
 セシボンは今日は一日、ほぼエサを食べていなかったので、甘々な私たちはちゅーるを何本もあげてしまう。スーパーで少しでも値打ちな時に買い置きする為、味の種類は適当だったが、そのうちの一本だけ嫌がって食べない。貝やホタテ入りの物だ。今までは食べ ていた気がするけれど、いかんせん記憶がない。
 人もお腹の調子が不良のときに貝は避けると思うから、猫も同じなのだろうか。



〈八日目②/シマのこと〉


 夕方、母への来客中、庭では黒と茶トラがじゃれている。随分と大きくなった。月齢は四ヶ月くらいになるだろう。
 

 シマは、――――シマはいない。  

 死んではいないような気がする。思いたいだけなのかは分からない。この辺りは車も多く、よく轢かれるし、子猫はカラスの格好の餌食にされてしまう。

 可能ならいずれは誰かの手に渡したいと人慣れさせてきた。素人の私たちには子猫三匹ともを慣れさせるのは叶わず、シマだけが膝にも乗せられるくらいになっていた。きっと誰かの手で保護されたと思いたい。
 きょうだいの中では一番人懐こくて、初めから物怖じせずに近寄ってきた。
 セシボンの大きくてまん丸な目にくらべると、三匹とも目は小さくて、形が逆三角形気味で、シュッとした顔つきは子どもっぽくはなかった中で、シマの目はまだ丸に近い分、顔も〝子猫〟らしくて愛らしかった。なにより人間に対しても興味津々、少々図々しくて、誰より先に母親のおっぱいを吸いはじめるし、ちゅーるも真っ先にもらいに来るし、なんなら他の子の分まで手を出す要領の良い所さえ茶目っ気があって可愛かった。確か、最初に木登りが出来るようになったのもシマだったと思う。
 他の子よりもすばしっこいものだから、おっかさんがセツを追いかける時に、母親を真似て率先してセツに噛みつきに行くのは参ったけれど。

 ひと月前に母がキャリーケースを買ってきた。それから、いよいよケージも注文した。もしセツがうまくいかなかったらシマを飼うか、とか口にしたことはあったし、 ぼんやり、その方が楽かな、と考えたこともある。が、一方でセツを譲りたくない自分もいた。固よりセツの為に始めているし、猫を飼うにあたっての夫の同意もセツだから得られたのだ。

 それでも最も懐いているシマは私たちにとってやはり可愛かった。

 この間、初めてシマが私の足首にすりすりしてくれた。誰にも言わなかったけど、飛び上がりそうに嬉しかった。そうして、それきりになってしまった。
 シマの別れの挨拶だったのかもしれない。



〈九日目〉


 今日も夕方、車庫を使う用事がある。猫アレルギーの友人が母を訪ねて来るので、夕べ母と約束した通り、朝のうちに車庫の外に猫のケージを出す作業をする。車庫の磨り硝子の引き戸とシャッターの間の軒下は、塩梅よくケージが収まる幅分だけあった。

 セシボンが二段目の棚板に降りてきて寝床に香箱座りしてくれている。昨日は仕方なく座っている、という感じだったから、やっと正式に使ってもらえたようで少し嬉しい。お腹の具合も回復してきている様子で、便も平らな物もあるが、棒状の物もあった。
 夕べ皿に入れた缶詰は手つかずで残っていた。この暑さで腐っているかもしれないので廃棄することにし、水を替え、水分代わりにちゅーるをあげた。
 ケージを外へ出して暫くは、二段目から外界の様子を窺っていたがやがて上段へ隠れてしまった。


 いったい日中、セシボンはどんな風に過ごしているんだろう。

 どうしても知りたくて、ビデオカメラを据えて、2時間ほど録画してみた。

 猫が怪しまないようにカメラを隠すようにして撮った映像を、すぐに見たくてその場で確認する。

 セシボンが動き出したのは1時間15分程経ってからだった。画面が小さくて分かりにくいが、誰かに求めるみたいに鳴きながら床へ降りてきてウロウロしている。座って外を見たり、それから体を伸ばして段ボールをバリバリ。向きを変えてまたバリバリ。身体をうーんと伸ばして、アオーン、アオーン、と鳴きながら柵によじ登り、段ボールに爪を引っかけたまま、フラップ部分をかみ切っていく。それから一段目に戻って、ちょっと鳴いた。8分弱の出来事で、その後は途切れ途切れに鳴く声が小さく入っていたが、車の通る都度、静かになる。

 ケージ横で再生していたが、音量最大にしていたのもあって、画像のセシボンの第一声はハッキリと聞こえた。途端、ケージ内のセシボンがでっかい声で鳴き始めた。ずっと、声が枯れそうなくらいに鳴いている。セシボンが映像の中の自分に助けを求めている。

 昨日お会いした方に宛ててセシボンの写真を送信する。貴方が飼うの?と問われ、続けて「頑張って!命のために」と返信が来た。趣味じゃないという気持ちがどう伝わったかは分からずじまいだけれど、何にせよ励ましは嬉しかった。

 何度か様子を見に行くうちに、どうもケージが小刻みにカタカタ揺れているのに気が付いた。ケージに被せてある段ボールのフラップの猫の背中側にあたる部分をそうっと持ち上げてみても身体をもたせかけているだけに見える。目だけはいつものように見据えていて、腹の辺りがふくふくと動いている。イライラして貧乏揺すりをしているようでもある。
 ケージが収まっている軒下部分は極緩く斜めに下っている。平らじゃない上に外の空気の中にいて、自身の自由は効かず、落ち着かないのも当然か。


 ミサが現れた。
 5時頃、こちらを覗いていたが素知らぬ振りをする。

 10分ほどしてまた庭に入って来た。私の姿を見つけると、そろり、そろり、と歩いてくる。おっかさん一家がいないかどうか、気を払っているのだろう。

 茶やら黒やら混ざり合った毛並みをサビ色というのだとは、ミサと出会って知った事柄だが、発色が強く濃く、色の混ざり具合は贔屓目に見てみても美しいとは言い難いのがミサの特徴だ。威圧的にさえ見える。そのいかつい容姿に反して、女の子っぽい高音の甘えた声で、にゃあにゃあ、にゃあにゃあ、といつものように来訪を告げる。

 ごめん。

 取りあえずエサをやる。食べる様子を見ながら、庭継さんのところでご飯をもらえなかったのかな、と思う。

 客人が帰ったので、ケージを車庫へ入れようとすると、母はこのままでいい、と言う。明日も車庫を使うので朝には再び出さなければならないからだ。内心セシボンが可哀相だったけれど、母に言い切られては逆らえない。薄っすらした不安に蓋をしてもカタカタ、カタカタ小さな音が聞こえている。




〈十日目〉


「すごいことになってる」
 起床した母は、鳴き声で車庫に呼ばれたらしい。

 私も見に行くと、ケージの内、外とも段ボールまみれ。土台から上側がズレて床全体がトイレになっていて今までの中でもかなり凄まじい。それでも初日ほどじゃないな、と思いながら一時間半位かかって片付ける。破れまくっている段ボールのフラップ部分に新たに大きめのものを貼り付けて修繕し、ご飯にカリカリとパウチの餌と、水をやった。
 エサを食べるために床へ来るのに、ケージの枠を伝うように足を滑らせて降りてくるのを見た。狭いので猫なりに慎重に動いている。

 今日は趣味事の仲間がやって来た。猫好きの友はセシボンと会えて喜んでくれた。
 仲間が来る前、セシボンはトイレに座っていて、まるでお風呂につかっているみたいに見え、このままそこにいる気?と、ほっこりする。トイレは扉の向かって左側(二段目の棚板の下)が定位置だが、セシボンが自分でずらして(運んで?)扉の右側になっている。


 自分も疲れがたまってきたのか、9時頃床に就き、翌朝6時まで寝てしまった。家族も車庫へは行かなかったらしい。



〈十一日目/猫パンチ、ガチ〉


 トイレの位置がずれたのを訴えているのか、車庫へ行くと朝から鳴いている。
 程なくしてケージとトイレとの隙間に入ってしまう。この隙間は私たちがしつらえたものではない。トイレを自分でずらしてしまっているので、ケージの前面の左側に隙間が出来て、そこへ入り込んでいる。昨夜から陶器の古い灰皿を水入れに利用しているが、それも移動させていて、隙間の中で香箱化しているセシボン自身の出口を塞ぐような場所にあり、彼の足も濡れている。
 皿に入れた缶詰は、半分は食べたのか。縁周りは乾いている。夕べはカリカリはやらずに水と缶詰にした。床には砂のほかにエサも散らばったりしているけれど、量を多くしなかったので、食べている気がする。

 トイレを元の所に直して部屋へ戻り、朝のうちに再び車庫を訪れると、セシボンが床に居る!
 またトイレの位置がズレていて、ケージ(手前側)との間に斜めの隙間が生じたのでそこに入って、足も水で濡らしている。     排尿があったのでトイレをキレイにし、濡れている床も掃いて拭く。既製品のトイレを入れたので、その横だけにジョイントマットを敷いていたが、掃除しやすいように全面に敷き直した。

 ケージの柵の間からペットボトルに入れてきた水を注ぎ、パウチの餌をスプーンであげると少し食べたので皿にも出してみる。セシボンはしばらく食べたが、二段目に上がり、ベッドに座った。パウチの残りを皿に全部入れ、ようやく仕上げにケージ周りの掃除をしながら、合間にご機嫌取りのちゅーるを2本やる。

 段ボールのフラップの修繕部分がみっともないので、ケージを覆うような布を用意して、段ボールの上から仮に被せていたのだが、セシボンが爪を出して、その布で玉をとるような仕草を見せる。二段目にいるままだ。
 私は彼から向かって少々右側で腰を下ろして、まだ掃除をしていた。
 ズシッ......

  顔の左上方向から、まさに目にも止まらぬ速さで、眼鏡のブリッジ部分に瞬間的にずしっとした重みが掛かり、そのまま鼻根に鼻宛てが窮屈に食い込んで鈍い重さを伴った痛みが残 る。正確に当ててきた、と感じた。幸い眼鏡に当たったわけで、怪我もせずに済んだのだが、気持ちが食らった衝撃はハンパなかった......し、怖かった......。
 パンチの勢いのショック......。

 ガチな猫パンチに見舞われたのは初めてだった。

 日中のセシボンは、この二日間を軒下で過ごして疲れていたのか大変静かに寝ていた。夕方になっても、餌は減らず、水入れも何事もなく、トイレも特に変化が無かった。

 夜になって覗きに行くと、床に座ってナーナーと鳴いている。餌も半分は食べてあった。 トイレについてはオシッコのみしてあったが、本体の位置が大きく変わっている。

 ケージの二段目の棚板が左側に設定されているので、床の右側の余白が多い方が猫にとっても降りやすく使い勝手が良いだろうと考えたのと、左開きの扉なので置きやすさから、トイレはケージの向かって左側で、奥に縦長の形で配置していた。が、ここへ来て何回もセシボンによって移動させられ、横長に置かれている。
 セシボンが床に降りてくるとき、ケージの柵を伝っていたりするから、今までの配置の方が降りにくかったのだろうか。

 これからは横長にトイレを置く方がいいのかな。



〈十二日目〉


 朝、猫の世話をしてから外出、帰宅は夕方になった。
 日中はあまり動いた様子はなかったが、夜にはケージの床に敷いたジョイントマットが 咬まれてズタズタに引きちぎられていた。
 夜、母が革の厚手の手袋をはめて撫でようとする。止めて欲しい。
 検索下手の私がようやく辿り着いた、某動物愛護センターのホームページに成猫の保護猫の接し方が分かりやすく書かれていた。いくらなんでもこんなに早く、ロクな信頼関係も無いうちに無理に撫でたら、今後全然触れなくなってしまうかもしれない、と学んだばかりだ。

 捕獲直前までは恐ろしいほどエサを食べていたのに、あまり食べなくなった。動かない所為かもしれないけれど極端に減っている印象がある。カリカリは特に食べない。乳酸菌入りのは食べる。カリカリを食べてくれるとちょっと安心する。

 私と母が車庫で趣味事の件で真剣に色々やっているとセシボンは全く鳴かない。空気を読むのかしらん。

 今日も疲れ切っていて早寝した。


〈十三日目/爪〉


 ジョイントマットが更にボロボロになっている。床の向かって右側のうちの四分の一弱、 失われていて、欠片の屑だらけになっている。

 午前中のうちに母と買い物へ出る。ついでに、先日来、段ボール製の爪研ぎが水でふやけて駄目になってしまったので、麻の爪研ぎというのも購入してみた。
 買い物がてら、新しくできたばかりの動物病院へ立ち寄る。
 セシボンの相談ついでに、母が猫の爪を抜いてもらえるのか尋ねている。余所の病院で断られた、と言っていたのに。いや断られたから尋ねているのか。
 獣医さんが、自分は抜きたくない、爪があっても暮らせる環境を考えましょう、と言う。

 

 我が家には以前猫がいた。青い目の白猫で、人一人が十分育つほど長生きした。

 白猫は母の猫だったので、面倒は母がみていた。母が旅行へ行く時くらいしか私が代わって世話することはなく、そんな機会もそうそうは無かったし、世話といっても、指示通りにエサをやり、ウンチを取り除いた程度だった。

 白猫がまだ相当若い頃、動物病院で勧められた母が、猫の爪を抜くと言い出した。そこの先生も飼い猫の爪を抜いていたそうで、かれこれ四半世紀近くも前の話になる。

 私は反対した。もし自分が同じ目に遭ったらどうなのか、想像するだけでぞっとした。だが母は、家の中がボロボロにされるよりいい、と結局連れて行ってしまった。 そして前足二本の先っぽに真っ赤に染まった包帯をした白い猫を抱いて、可哀相に、可哀相にと、おんおん泣きながら帰ってきたのだ。

 母は、人より体が小さな猫の包帯は割に太い木綿糸だったのと、帰宅して私に酷く責められたのを覚えていると言う。私も、分かってて自分が連れて行ったのだから泣くな、と憤った記憶がある。母を止められない自分も嫌な分まで上乗せしていたと思う。

 それなのに。

 獣医さんの〝爪があっても暮らせる環境を考える〟という答えに、私は心の中で手を合わせ、頭を下げて、心の底から感謝した。


 夕方、ケージが狭く感じるので広くする方法は無いかと、数日考えていた母が、自身でワイヤーネットで組み立てたカゴを、ケージの扉にくっつけようと、真剣に方法を探っている。その行動力にはいつも舌を巻く。

 今日は水がよく減る。飲んでいるのだろうか。それならと、口当たりの良さそうなスープ状のエサをあげてみる。
 夕方にはセシボンも少々ぐったりした風で、四肢を伸ばして頭をケージにもたれている。 蒸し暑いのが堪えているようにも見える。

 夜になりトイレの片付けと餌やりをする間、んー、んー、と鳴いていたが、私に言っても何もしてくれないし、しようがない、と諦めたのか、そっぽを向かれてしまった。



〈十四日目〉


 今日は先だってセシボンの名前の意味を尋ねてくれた知人が尋ねてくる日だ。
 早朝から、猫をケージごと軒下へ。緩やかとは言え斜めに下っている為、母が工夫して古いまな板や板切れをかませてなるべく平らに近づける。その甲斐あって、午後になってもカタカタ揺れるケージの音がしない。前回は猫も緊張していたのだろう。震えているのは緊張しているのだと、保護猫の世話をしているタレントさんが話すのを見たばかりだ。
 ただ、ジョイントマットは咬みちぎられていたし、トイレの位置も変わっていた。     エサのカリカリはメーカーを変えてみたら、食べるようになってきた。

 知人が帰る際に、段ボールのフラップをあげて顔を見ると、それまで静かだったのが、ナーナー、としゃべり出すのが、文句を言っているようでもあって、ちょっと面白い。

 夜、ケージの掃除をしていると、母から、このままじゃいつまでたっても慣れないから近いうちにケージを玄関に引っ越すという話が出る。やっと希望が叶うので勿論賛成する。


〈十五日目〉


 起きると、母が玄関を片付け始めている。いつもながらの実行力に脱帽する。朝のうちなら車も少ないので、重たいトイレだけは出した上で、ケージを道路づたいで移動させて くる。

 玄関にケージを収めると予想通り、急な環境の変化にセシボンが激しく鳴く。車庫からトイレを取ってくる間に床に降りていて、一所懸命訴えている。

 夕方、帰宅。トイレは半分ひっくり返り、その上にジョイントマットが被さっている。
 玄関へ移動したので、夫の帰宅に間に合うように、トイレの砂の入れ替えや掃除を頑張って行う。

 セシボンは夜中中、ずっと鳴き続けた。


〈十六日目〉 


 5時に起きて玄関へ。
 ジョイントマットはズタズタ、ケージ内はトイレの砂にまみれ、餌もない。
 すごいなあ、と漏れてしまう。母からマットをかみ切ってる所を見た、と聞く。 「ストレスかぁ......」「マット、どうしようか」「ストレス解消出来た方がいいから入れたままにしようか」
 夫を送り出す前になんとか片付ける。

 セシボンは一日中大人しかった。玄関を通りがかりに「ん~」などと小さな声で言うくらいで特に騒ぎもしなかった。夕べの疲れもあるのだろう。

 そして私も抱えている足の不調から来る疲労が激しく、八時頃、仮眠だけのつもりで横になり、そのまま朝を迎えてしまった。


〈十七日目〉


「あんた夕べ降りて来なかったのっ!?」 

 母の声に飛び起きる。猫がガーガー、鳴いている。まだ6時にもならない。

 うおっっ......!!
 玄関の光景にたじろぐ。トイレがひっくり返りケージは砂の海だ。水入れ代わりの陶器の灰皿には砂が入って水を吸収しきって灰皿の形にガッチリ固まっている。こんな状態は初めて見た。
 へえぇぇ、なるほどねぇ。こんな風になるんだ。固まってる様が妙に面白くて、笑いたくなるのを抑えている。今までこの状態にならなかったのが不思議なくらいだ。
 猫の訴えを聞き流しながら、玄関のドアを開けて風を入れて片付け始める。母が蚊取り線香を持ってきてくれるのが有り難い。
 ウンチはあちこちに散らばり、ケージ内はハンパない砂の量だ。どこから手をつければいいのだろう。まずはトイレを出して砂を変えながら作業について巡らしていた。

 ちりとりをブルドーザーみたく使いながら床の砂を取り除いていくのは少し楽しい。が、セシボンはどうもイライラしているようだ。玄関は親指分くらい、万一猫がケージから出てしまっても外には逃げられないくらいの分を開けてある。外の空気と音が否応なく入ってくる。それをかなり気にしているのが分かる。
 話しかけながら周囲を掃く。セシボンの気を逸らそうといつもは置かない一段目に皿を置いて、乳酸菌入りのカリカリを入れる。ちゅーるも一本入れて匂いで気を引く。食べている間に、ケージに腕をつっこんで箒を持つ手を動かすものの、ガタガタやるので、猫も余計にイラつくんだろう。
 仕上げに小さい箒とちりとりで掃いている最中に頭頂部にバシッと鈍痛が降ってくる。また猫パンチを食らったのだ。痛いッ!、と言う私の大声で母が驚いて飛んでくる。
 もう逃がそうか、と心配して言ってくれるが、それでは元も子もない。怪我はないし、 大丈夫だよ、と言う。

 けれど、何度もパンチを食らうとちょっと悲しい。
 愛情を持って接していれば伝わる、と猫好きな女性から言われた。でも、彼女や母のような接し方が出来ているようには思えない。セシボンにちゃんと愛情があるんだろうか。負い目だけでやってるのか。段々訳が分からなくなる。

 一息入れて夫とお茶にする。和菓子を買ってきてくれていた。玄関のセシボンがガタガタ音を立てているのが聞こえる。ネコもブレイクだね、と夫が笑っている。 

 ???

 ティーブレイクと、暴れる猫をbreakと表して掛けたらしい。 なんだか気が抜けて、大笑いしてしまった。


 夜。一段目に置いたままの皿を取ろうとして、思い切りガシッと右手の甲を引っかかれる。出血したので流水で暫く流す。幸い大したことはない。
 母がミサにやられた時は、腫れ上がって病院へ通ったから、用心している。




〈名字を持つ野良猫〉


 家猫ではない野良猫は大概便宜的につけられた名前で呼ばれるのが多いんじゃなかろうか。まして名字など無いのが殆どだろう。
 彼女は『自分固有の名字』がある珍しい野良猫のうちの一匹(ひとり)だ。    ――――実の所、こちらの無知から名字もついてしまっただけなのだが。

 黒毛の子猫が二匹、いつものように庭で遊んでいるところに、その猫は突然現れた。
 濃い茶色と黒の混ざり具合が混沌としている体の色にも迫力があるが、何より顔が怖かった。その毛色は顔面でさらにキツく見せるような色合いで混ざり合っており、視覚的に威嚇されている気持ちにさせた。

 てっきりオスだと思った。体つきは目の前の子猫たちより俄然大きかったし、いかつい顔と、その見た目だけで勝手に判断したのだ。
 とても強そうなオス猫に見えた。〝金剛さん〟と名前をつけた。

 金剛さんは人に対して甘え声を出した。スリスリするし、撫でて欲しがるし、自ら膝にも乗ってきた。
 さわれる猫に飢えていた私たちは、ついつい金剛さんを可愛がった。〝金剛さん〟はなかなか良いネーミングだったようで、彼女を見た人はすぐに名前ごと覚えてくれた。
 やがて母がサビ猫はメスなのだと聞いてきた。
 本人は自分が人から見ると怖がられる顔だとは知らないし、毛色も自ら望んだものではなく、中身は甘えん坊の女の子だった。それで〝金剛〟は名字にして、下の名前に昔好きだったアニメのキャラクターの名前をつけて『金剛ミサ』と呼ぶことにした。

 ミサは勝手に家の中に入り込む図々しさがある。洗濯物を干す時などに窓を開けているといつのまにか入り込んでいる。
 その頃は部屋に座椅子があったので、そこへ座って眠りたがった。
 ある大雨の晩。にゃあにゃあ鳴いて、入れてくれと呼ぶ。どうにも気の毒になり、つい家にあげたのが二回ほどある。一度目は嗅ぎ回った上、食卓の下で眠った。二度目は座椅子で眠った。お腹を出して安心しきって、何時間も眠り、起こすのも可哀相なくらいで、でもこちらも布団で眠りたい時間だし、ほとほと弱った。

 捕まえて避妊の為に病院へ連れて行くと、手術痕がある、という電話が入った。   飼い猫だったのが確定した。先生は桜カットをしてくれた。

 考えないわけではなかったが、それでも私たちはミサと暮らす選択肢を取らなかった。
 まず、夫が首を横に振った。理由はミサの臭いだった。いわゆる獣臭とでもいうのか、 これが酷い。部屋の中でマーキングしようとして私たちを慌てさせたし、何より咬むのが 困りものだった。
 膝から下ろす時や、撫でている時にいきなり咬まれる。母は二度くらい手をパンパンに腫らせて病院に通った。触る際には分厚い皮の手袋が必須だった。


 ミサは、相手が子猫だろうと全く容赦なく襲いかかった。庭にちょくちょく顔を出すので私たちが相手をするようになると、二匹の子猫を蹴散らし始めた。そのうち黒猫たちをほぼほぼ追い出してしまった。予想外だった。こんなことになるとは思ってもいなかった。
 毎朝、あの古い犬小屋から二匹で顔を出し、黄色いお目々を四つ並べてこちらを見つめていたのに。
 もっとちゃんと平等に接していたら子猫たちを追い出さずにすんだのだろうか。


 しかし〝ミミコ〟が現れて、春を迎える前にはミサもこの庭を追われてしまった。




〈セツ〉


 母が、最近見かける母猫が可哀相だ、と言ってエサを置き始めたのは確か夏も真っ盛りのころではなかったか。あまりの暑さで、子猫を抱えてエサを探すのは大変だとか、理由をつけていた覚えがある。

 その母猫が連れている三匹の子猫はいつの間にか二匹になっていた。いなくなった子猫の色は白地にぶちだったか。後になって隣家の庭に子猫の頭が落ちていた、という話から、恐らくカラスに食べられたのだと分かった。

 いつしか母猫がいなくなって、二匹の黒い子猫だけが庭で遊んでいる。幾日ぶりかで、やっと母猫が戻ったときには耳が桜カットされていた。親離れの時期も重なっていたのか、 それから先は母猫が訪れる回数はどんどん減っていった。

 子猫たちは毎朝、母が彼らの為に整えた古い犬小屋から、そっくりな真っ黒い顔に黄色いお目々を並べて、首を伸ばしてこちらを見ていた。カーテンが開いて、ご飯がもらえるのを待っていた。
 そっくりな二匹を見分けられるようになるには時間が掛かった。慎重な方はイラストに描かれるような、流れるように美しい尻尾だった。慎重な子なのでシンと呼んだ。
 人に対して積極的で、家の中にも興味津々な子はセツにした。セツは尻尾が太めで短めだった。尻尾で見分けられると気が付いた時は大はしゃぎしてしまったっけ。とはいえ、尻尾を隠して座るので、どっちがどっちか分からない時の方が多かった。
 名前をつけてから暫くしてセツが怪我をして現れた。それ以来、セツはとても臆病になってしまった。シンの方が慣れてきたのか臆せず家の中を覗き込むようになった。
 二匹とも、触ることは出来なかったのは残念だったが、庭で遊んでいるのを見られるのは癒やしになった。キクイモの背丈が伸びて林のようになっていて、そこに紛れて隠れたつもりになっていたり、オクラの花で玉をとって遊ぶのも可愛かった。
 シンは暑い夕暮れはお気に入りの腰掛けの上で涼んで、セツが帰るのを待っていて、それから二匹でご飯を食べた。ねぐらは何処にあったのかは知らない。母が犬小屋で寝られるように工夫したりしていたが、そこで泊まる様子はなかった。

 秋になり、母の願い通り二匹同時に捕獲できて、去勢に連れていった。迎えに行った母が、オスとメスだった、早く去勢出来てよかった、と報告してくれたが、さてどちらがどちらかは分からない。骨格がしっかりしているように見えるセツがオスなんだろう、と話し合った。

 ミサが現れたのは、子猫を去勢するより前だった。人懐こい彼女を、私たちは可愛がった。
 まさか、ミサが子猫たちを追い出すなんて思いもしなかった。


 黒い子猫のきょうだいは庭から追い出されはしたが、なんとかご飯を食べに来ていた。
 ミサさえいなければ、午後3時を過ぎる頃になるとシンが気に入りの腰掛けの上にいたりしたのに、ある日を境に見なくなった。
 セツだけを見かける夕方が続く。セツはご飯を食べようとしながら、何度も後ろを振り返ってシンを待っている。嫌な予感がしていた。
 数日して、公園に黒い毛の塊と黒い尻尾のような残骸があった、という母の言葉を耳にした時、やっぱりな、と下を向いた。母も同じ思いだったらしい。


 母はどの猫かが食べに来るからと、一日中餌を置いておくようになった。賛成しかねたが仕方ない。
 置き始めるようになると、いったいどうやって猫たちの情報網にひっかかるのか、次から次へとこの庭での新顔猫たちがやって来た。明らかに大人の猫ばかりで、ますます黒い子猫(中猫?)の姿を見かけることは少なくなっていった。
 真冬になっており、夜には寒さを遮断するためにどうしてもカーテンを閉めてしまいがちで、夜間にどんな猫が食べているのかわかりにくくなった。黒い猫は尚更だった。
 シンがいなくなってからはセツを見ない日が増えて行き、やがて全く見なくなった。 生きているのかどうかも分からない。どこかで生きていて欲しいと思っていた。

 ある朝、見たことの無い糞が車庫側にあった。黄色っぽい俵型で粒々が混じっている。 糞の大きさからして、大きめの犬のものかと思ったけれど、散歩中の犬が排泄するには不可思議な場所にしてあった。どうにも解せなくて調べてみるとハクビシンだと分かった。
 これはもうダメだ、何かあったらご近所にも大変な迷惑を掛ける。それからは一日中エサを置くのは止めてもらい、猫の顔を見た時だけ出すようにした。


 春になり、ミサが庭を追われ、ミミコが我が家の庭主となってしばらくした頃。   セツが再び現れた。 

 夜。ふと、気配を感じてカーテンを捲ると、真っ黒い猫がひっそり、こちらを向いて、目立たぬように座っている。

 セツだ......!生きてた!

 そういえば子猫の時からそうだった。夜、エサをもらいに来る時は、そうっと座って待っていたっけ。鳴かないとわからないよ、と何度も言ったのに。 

 今思えば、ミミコの娘の〝おっかさん〟が出産のために、うちの庭に来ていない時期で、娘を手伝いに行っていたのか、ミミコも常駐はしていなかった時があった。   その短い数日に姿を見せたのだ。 

 恐らくそれまでもこっそり食べに来ていたのかもしれない。私たちも庭ばかり見ているわけじゃないし、夜来ていたとしても黒猫は見つけるのが難しい。 

 とにかく生きていた、その事実が嬉しくて有り難かった。缶詰を開けたりして、ありったけ食べさせた。
 食べ終わると、少し離れた所に移動して、静かに佇む。なんとなく一緒にいたいんだな、と感じる。ミサのいない夜、何度も同じような時間を過ごしたね。こみあげそうになりながら、台所から漏れる光に浮かぶ黒い姿と同じ空間を共有している。
 しかし突然空気が動いて、さっとセツが消えた。ミミコが走ってきて軽々と塀に上がり、 セツが逃げた方を睨んでいる。

 掃き出し窓の下へ遠慮がちにセツが食べに来たのはその数日だけで、ミミコがずっと庭に居るようになると、また顔を見ることが無くなった。
 今度こそ、どうにかなってしまったのじゃないか、と心配したし、オスは旅に出るとか聞くから、さすらっているのだろうか、とひたすら無事を祈っていた。

 それから四十日ほど経ったある夜遅く。玄関の塀の上でミミコ一家の様子を窺っている香箱座りの黒猫の姿が門灯に照らされていた。私の姿に驚いて、車道へ飛び降りてしまう。 夜でもそこそこ車が通るから、ゾッとする。エサをあげたくて呼び止めたけど、こちらを見上げて、そのままいなくなった。

 私は今度こそセツにお腹いっぱい食べさせてやりたいと思った。オス猫で、もう一歳を過ぎているのに、セツは中猫の印象のままだった。


 一緒に暮らせるようになるかしら。苦労して野良として生き延びてきたのだろうに。 

 明日もまた来るかな。明日はご飯、あげられるかな。

 涙がこぼれそうになる。


 性格の大人しいセツは、自分から喧嘩を仕掛けたりしない。ミミコやおっかさん一家、たまに現れるミサたちに追いかけられ、襲われ続けた。セツの悲鳴を何度聞いただろう。私たちもセツにご飯をやるのに毎日大変な思いをした。


 セツと生きる覚悟を固めるには、この夜からまだ少し、時間が掛かった。



〈十八日目〉


 午前4時過ぎ、母に起こされる。
 トイレを出してケージを掃除しかけている。ジョイントマットは裏までびしょ濡れとのこと。水もひっくり返っているが、量的に水ではなくオシッコで濡れている、というのが母の弁。だから、玄関の外へ出してホースの水で流してきれいにしよう、と言う。
 猫は床に降りていたが、水を流すと慌てて一段目の棚板まで上がる。

 水で自分たちも濡れるのは仕方がない。まだ夏なのでマシだ。床に溜まった水を流し出す時は二人でケージを支えつつ協力して行った。床拭きはワイヤーネットで上下をしっかり分けてから行う。外での清掃なので、セシボンが逃げないように緊張している。
 ジョイントマットは床面の半分に敷き、トイレは二段目の棚板の真下へ設置した。(元々の置き方に戻した。)私がトイレの作業をしている間に、母は玄関の壁の、ケージが接する面にジョイントマットを立てて置き、段ボールを貼り付けてくれる。(壁 、ジョイントマット、段ボール、ケージの順になる)これでセシボンが手を伸ばして爪がとげる。
 玄関にケージを整えると、セシボンはすぐさま床に降りケージの扉の前に陣取る。   ずっと鳴いているけれど電気を消す。すると、黒毛は夜明け前の闇に溶けてしまい、私には君の姿が見えない。

 食堂の扉を僅かに開けておく。玄関に光が漏れている。
 凄く暴れる音がしている。爪で何かを引っ掻く音、バリバリ咬み切る音、何かがボロボロになっていく音......。
 音が落ち着いてから見にいくと、床のマットが咬み千切られており、壁に貼り付けた段ボールと壁の間に立てていたジョイントマットをケージの中へ引っ張っていた。

 その後もずっと鳴き続ける。
 今日は昼過ぎても暴れていて、トイレが反転していたり、ちりとりブルドーザーに発進してもらったりしていたが、朝の8時を過ぎて様子を見に行った時がもっとも酷く、これはまあ、凄いことに......、と絶句した。
 座った状態のセシボンにトイレ本体が被さるような感じになっている。
 どうしようかと、こっちも固まる。すぐにどうにかできそうもない。諦めたくなる。……写真、 取るか、と思いケータイを取りに行ったら、その間に自分で抜け出していた。

  母が、玩具でちょっと遊んでやったと言っていたのを思い出し、ススキの玩具で右耳の辺りを撫でると嫌がらず、寧ろ目を細めて眠そうにしていた。手を止めると鳴き始め、席を立つと、マットをガジガジかじり出す。

 夕方、母が帰るまでのしばらくは大人しくしていたが、帰宅とともにまた訴え鳴きが始まった。
「声、枯れてるねぇ」と言われている。



〈十九日目/今日こそセシボンな日〉


《喜べ   今日はセシボンな日 

まさしく 今日こそセシボンな日 

まさしく その名の輝く日 

まさに 今日こそセシボンな日》



午前5時前  トイレの位置のみ直す。鳴いているのでしばらく側にいる。

午前9時30分   ケージの掃除を始める。トイレを片付け、ケージに引き入れられて、 濡れてぐしゃぐしゃになった雑巾を除く。水をやり、カリカリとパウチのエサをやる。

午前11時   私はレンチンのパスタで昼食の準備。母はドアを開放して空気を入れ換えがてら、玄関周りの掃除をしている。

午前11時20分  「猫、逃げた!」母の大声。


 え? どうやって?
 玄関に置かれたケージをまじまじと見つめる。上下段の扉はどちらも閉まっている。まだケージ内に存在していた気配は消えていない。だのに、確かにケージはもぬけの殻だ。
 居たはずの空間をじっと見つめている。   ケージの左下の隙間に黒い毛が沢山付着している。

 すきま、だ。

 下段扉の左下の角にいつの間にか隙間が出来ている。大きくはない。けれども、よく見れば、扉の左下が外側に向かって歪んで斜めに小さく開いて隙間になっている。

 黒いものが物凄い速さで道路に飛び降りた、あっという間に消えた、と私を窺うように話していた母が、ドアを開けててごめん、と言った。
 お母さんの所為じゃないよ。――――これは本心だ。

 既製品のトイレに変えてから、トイレとケージの間に入り込んで座っていることが多かった。体勢は色々だったっけ。狭いところが好きらしいから、そこにいるんだろうと思っていたんだ。最近の私は油断して、カラビナだのクリップだので留めてはいたけど、その数も初めに比べて減っていたし、下段の扉は左上の角を含む上側だけを留めていた。そこに座っているセシボンに触れてしまって怪我をするのが怖くて、下の角を留めなくなったのが始まりで、いつしか下を留めなくなっていたんだ。

 扉の下角に体をずっと押し付けて、体重を乗せて、乗せて、のせて、のせて、ほんの僅かずつ押し開いて、懸命に作った隙間から、玄関のドアの開いていたチャンスを掴んで、自分で必死に逃れたのだ。

 おめでとう、セシボン。君にとって今日こそセシボンな日。



《叫ぼう、自由を、喜びを 

解放された喜びを

高らかに歌え セシボンな日と 

祝おう、高く、叫べ、セ・シ・ボン!!》



🐈‍⬛🐈‍⬛🐈‍⬛見出し画像はみんなのフォトギャラリーよりにきもとと様の作品『季節の変わり目、ご自愛ください。』を拝借しております。いつもありがとうございます😊🐈‍⬛🐈‍⬛🐈‍⬛

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