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さよなら、“愛”ちゃん 〜一年後、秋・10月〜

 セシボンが食事をしながら何度も後ろを振り返る。こんな光景を前にも見たことがある。セシボンの姉妹猫シンがいなくなった時だ。


 今、帰って来ないのは〝あい〟だ。
 
 セシボン同様黒い猫である。

 黒いは黒いが、真っ黒なセシボンの隣に並んでいるのをじっくり見ると、愛はなんとなく背にわずかに茶が混じっているのがわかる。

 少し横に平たい顔つきのセシボンに比べて、逆三角形の輪郭をしている愛の目は三白眼気味で、セシボンの満月のお月様のようにまん丸で大きくてクレヨンで塗り込めたような黄色い目よりは、少々というか、かなり険しい。
 性格も、おっとりしているセシボンに対して愛には随分せわしないところがあって、朝につけ夜につけご飯が欲しいと言っては、にゃーにゃーにゃーにゃーうるさいくらいに鳴いてアピールをしてくる。

 もっともそのアピールに助けられてもいるのだが。
 いかんせん野良猫なので、その鳴き声が聞こえると今朝もちゃんと生きている、あるいは夕方、庭で餌をねだる声がすれば、あぁ、ちゃんと無事に帰ってきたのだと胸を撫で下ろすのだ。
 
 愛は一緒に生まれた他の2匹の子猫に比べて一回り体格が小さかった。
 茶トラは足がかなり太くてこれはどう見てもオスだろう、サバトラも身体つきは茶トラと同じような大きさですばしこいからオスなのだろうと推測した。その2匹に対して、この黒い子猫は本当に小さくて華奢だから多分女の子なんだろうと思った。
 基本的に家の庭で過ごしていて遠くに行く様子もないところも、母と私にセシボンの姉だか妹だかわからないが姉妹猫のシンを思い出させた。
 シンはイラストに出てくるようなS字を描いた美しいしっぽの際立つ黒猫だった。そのしっぽの他はセシボンと瓜二つで、しっぽを隠されると見分けがつかなかった。
 愛もしっぽは長いけれどシンのような特徴はない。それでも黒い子猫が庭にずっと居るのを見ていると、シンと重ねてしまうのだ。
 それで、丁度見ていたドラマのヒロインからもらって愛という名前になった。


 まだ愛がほんの子猫の頃、情が移らないように身体の色でクロと便宜的に呼んでいた頃に、側溝につながる深い集水枡に落ちて動けなくなっていたことがあった。
 小さな助けを呼ぶ鳴き声だけが何処からか絶え間なく聞こえてくる。声は小さく、道路脇の集水枡の中に辿り着くのは手間取った。
 子猫が枡のフタの隙間から落ちたのかと思ったものの隙間はそこまで大きくはない。不思議に思っていたら、しばらくすると兄弟猫たちが側溝を走ってきて、集水枡を超えて反対側の側溝へとジャンプしていった。クロに見本を見せているかのように兄弟たちは何度も枡部分を飛んで、側溝から側溝へと渡って見せる。どうやら体躯の小さな黒猫だけは渡れずに、遂には集水枡に落ちて動けなくなったのだ。幸い水は溜まっていない。が、兄弟が見本を見せてくれても、枡に落ちているので今更飛んで渡るのは出来ない相談だ。
 そのうちに覗き込む私たちを警戒しつつ、クロの鳴き声に母猫が側溝に姿を見せた。母猫も側溝を飛んでいったが、やがて立ち去ってしまい、兄弟達だけがクロの近くに残った。
 通りがかりの近所の旦那さんとも声をかけあって助けようとしたけれど、そもそも枡にかかる蓋が重くて持ち上がらず、なかなか開けられない。
 結局、人間たちがガタガタ騒いでいる間の、私が見ていない時に、黒い子猫は自力で這い出してくれた。
 お陰様でその旦那さんとは今でも挨拶をし合えるから良かったとしている。

 ある日、母が猫たちの餌にたかる蝿避けにハエ取り紙を物干しに吊るした。ユラユラ揺れている紙を見て子猫たちが玉をとって遊ぶんじゃないかとその紙は止めることにした。
 それで母はハエ取り棒を購入してきて物干しの下に置いていた。
 
 真夜中、ガラガラガシャン、と凄まじい物音で庭に出ると、物干し竿が落ちていた。猫たちは物音で驚いたのか居ないようだった。

 物干し竿を元に戻したその時にハエ取り棒がないのに自分が気がついていたのかどうか、思い出せない。
 その晩、カラァン、カラァンとジュースの空の缶を蹴っているような或いは引きずっているような音が一晩中ずっと響いてきていた。
 何の音だろうと気になって仕方がなかった。正体は分からなかったけれど、どうも公園の方向から聞こえてくる。物悲しげに響いてきて、音は段々遠ざかりながらも、夜のしじまに時折小さく届いてきた。

 その理由が夕方になってようやく飲み込めた。朝から見かけなかったクロが、思いがけない姿で現れたのだ。

 クロは背中に赤いプラスチックの細い棒を背負っていた。ベタベタのハエ取り棒だった。
 棒に絡め取られ、びっくりして大暴れして物干しにぶつかって竿が落ちたのだろう。
 棒を立てる為の金物の台座ごと引きずって一晩中苦心していたのだ。
 耳が淋しくなってしまうほど、やたらと悲しく響いていた音は、私の妄想の中ではひとりぼっちの犬が空き缶を小さく蹴っていたものだった。なのにクロを見た途端、犬は公園の電灯に照らしだされた哀れな黒い子猫に変化して、背にくっついたハエ取り棒と土台を必死に取ろうとしていた。

 何とかしてやりたかったが、棒はベッタリくっついていて、被毛を剥がしてしまいそうで怖かった。それはさぞかし痛いだろう。
 本人もあちこち身体をこすりつけているがなかなか取れない。その赤い棒になんだかんだとゴミのような物を付着させて歩いている。棒が取れるまで、その姿を見るにつけ申し訳なくて目を逸らした。
 野良だから人間の予測しないような場所を通るだろうし、とにかく無事に過ごしてくれるのを祈っていた。
 幾日か経って、漸く棒のない姿を見られた時は、本当にごめん、と心の中で謝っていた。

 こうして思い返せば兄弟たちの中でいちばん、心配事やら何やらが色々あった猫が愛だった気がするが、そんな愛は、小柄なのに見た目よりもずっと強いのだ。捕獲器で捕まえた時に、自力でその蓋を押し開けて逃げた実績もある。現場を目撃した母がたいそう驚いていた。
 母猫が子離れして居なくなったのちに、庭に現れるセシボンに果敢に襲いかかって追い出そうとしていたのも愛だった。セシボンは愛たちよりも一年ほど生まれたのが早い分だけ体格差もあるし、子猫を上手にいなしていた、というか動じもせずに避けていたけれど。

 そして、家猫のゆいが脱走した時、居場所を教えてくれていたのも愛だった。
 今でも有難く思っている。


 去勢した際に実は男の子だったと判明したが、そのまま〝愛〟と呼んでいた。
 ただ、占ってつけたセシボンと違って、姓名判断をしないままずっと一年以上も放置してしまっていたのが気になってはいた。それで重い腰をあげてやっと本で調べ、平仮名の〝あい〟に改名した矢先の失踪?だった。

 母が猫の死骸を回収していないかと環境事業所に問い合わせをしたら、事業所のおじさんは、一週間もしたら帰ってくるから、と言ったそうだ。
 あいはこれまでに一度だけ、丸一日ほど戻らなかったことがある。

 もうしばらく待ってみよう。

 なんとなく死んだ気はしない。

 シンの時とは明らかに違う。

 シンが帰らなくなった時、いつも夕方になると香箱座りをしていた掃き出し窓の外に置いてある踏み台に、しばらくの間、あの子の影を感じていた。それが消える前に母が黒い尻尾を公園で見つけた。

 あの時とは違う。何となく生きていてくれる気はしている。


 それでもこの辺りで去年までは何匹も見かけた猫が、今年はほとんど見かけない。
 我が家にゆいが来たように、家猫になった子もいるだろう。
 しかし、それにしても、ご近所さんどうしで話す時、野良猫がいなくなったと話題にのぼるくらいには猫を見なくなっている。

 蝶野さんが、カラスが庭に降りて狙うから猫のエサを置くのをしばらく止めると言ったのは夏にさしかかる前だったか。
 この辺りの氏子の神社は古くて由緒もあるのだが、何年か前に社務所を建て替え、大層立派になさった。その社務所の建築の折りにそこの神社の森に住んでいた烏たちが方々へ逃げ出した。この辺りの公園にもその頃から住み始めたらしい。

 社務所が、どこの神社かと驚くほどに立派になって、森をうるさくしていた建築絡みの車たちも居なくなったのに、烏たちは森に呼び戻されはしないのだ。

 数日たって、ついに〝あい〟が顔をだした。餌を食べて出ていった。
 
 顔を出してくれただけで充分だと思っていたら、翌日、また庭へやってきて、そのままシレッと再び庭で暮らし始めた。

 環境事業所のおじさんは正しかった。

 あいが無事に戻ってから幾日かして蝶野さんとバッタリ会った。
 地主さんの畑の方だかで、でっかいカラスが黒猫を追いかけていたと言う。
 その黒猫があいだったのかもしれない。
 カラスに追われて何処かに隠れていたのだろうか。

 本当のところはわからないけれど。

 無事だった黒猫を見て、〝あい〟に改名しておいてよかったと思ったのは私だけの話だ。



☆☆☆見出し画像はみんなのフォトギャラリーより、あんころう様の作品『古アパートとクロネコ』を拝借しております。ありがとうございます☺️😊☺️☆☆☆☆☆


※※※※あいの兄弟猫のお話です※※※※


**セシボン(セツ)とシンです**


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