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セシボンといわせて(セツ)


〈セツ〉


 母が、最近見かける母猫が可哀相だ、と言ってエサを置き始めたのは確か夏も真っ盛りのころではなかったか。あまりの暑さで、子猫を抱えてエサを探すのは大変だとか、理由をつけていた覚えがある。

 その母猫が連れている三匹の子猫はいつの間にか二匹になっていた。いなくなった子猫の色は白地にぶちだったか。後になって隣家の庭に子猫の頭が落ちていた、という話を聞き、恐らくカラスに食べられたのだと分かった。

 いつしか母猫がいなくなって、二匹の黒い子猫だけが庭で遊んでいる。幾日ぶりかで、やっと母猫が戻ったときには耳が桜カットされていた。親離れの時期も重なっていたのか、 それから先は母猫が訪れる回数はどんどん減っていった。

 子猫たちは毎朝、母が彼らの為に整えた古い犬小屋から、そっくりな真っ黒い顔に黄色いお目々を並べて、首を伸ばしてこちらを見ていた。カーテンが開いて、ご飯がもらえるのを待っていた。
 そっくりな二匹を見分けられるようになるには時間が掛かった。慎重な方はイラストに描かれるような、流れるように美しい尻尾だった。慎重な子なのでシンと呼んだ。
 人に対して積極的で、家の中にも興味津々な子はセツにした。セツは尻尾が太めで割と短めだった。尻尾で見分けられると気が付いた時は大はしゃぎしてしまったっけ。とはいえ、尻尾を隠して座るので、どっちがどっちか分からない時の方が多かった。
 名前をつけてから暫くしてセツが怪我をして現れた。それ以来、セツはとても臆病になってしまった。シンの方が慣れてきたのか臆せず家の中を覗き込むようになった。
 二匹とも、触ることは出来なかったのは残念だったが、庭で遊んでいるのを見られるのは癒やしになった。キクイモの背丈が伸びて林のようになっていて、そこに紛れて隠れたつもりになっていたり、オクラの花で玉をとって遊ぶのも可愛かった。
 シンは暑い夕暮れはお気に入りの腰掛けの上で涼んで、セツが帰るのを待っていて、それから二匹でご飯を食べた。ねぐらは何処にあったのかは知らない。母が犬小屋で寝られるように工夫したりしていたが、そこで泊まる様子はなかった。

 秋になり、母の願い通り二匹同時に捕獲できて、去勢に連れていった。迎えに行った母が、オスとメスだった、早く去勢出来てよかった、と報告してくれたが、さてどちらがどちらかは分からない。骨格がしっかりしているように見えるセツがオスなんだろう、と話し合った。

 サビ猫のミサが庭に現れたのは、子猫らを去勢するより前だった。人懐こい彼女を、私たちは可愛がった。
 まさか、ミサが子猫たちを追い出すなんて想像すらしていなかった。


 黒い子猫のきょうだいは庭から追い出されはしたが、なんとかご飯を食べに来ていた。
 ミサさえいなければ、午後3時を過ぎる頃になるとシンが気に入りの腰掛けの上にいたりしたのに、ある日を境に見なくなった。
 セツだけを見かける夕方が続く。セツはご飯を食べようとしながら、何度も後ろを振り返ってシンを待っている。嫌な予感がしていた。
 数日して、公園に黒い毛の塊と黒い尻尾のような残骸があった、という母の言葉を耳にした時、やっぱりな、と下を向いた。母も同じ思いだったらしい。


 母はどの猫かが食べに来るからと、一日中餌を置いておくようになった。賛成しかねたが私の意見に耳を貸すひとではない。
 置き始めるようになると、いったいどうやって猫たちの情報網にひっかかるのか、次から次へとこの庭での新顔猫たちがやって来た。明らかに大人の猫ばかりで、ますます黒い子猫(中猫?)の姿を見かけることは少なくなっていった。
 真冬になっており、夜には寒さを遮断するためにどうしても家のカーテンを閉めてしまいがちで、夜間にどんな猫が食べているのかわかりにくくなった。黒い猫は尚更だった。
 シンがいなくなってからはセツを見ない日が増えて行き、やがて全く見なくなった。 生きているのかどうかも分からない。どこかで生きていて欲しいと願っていた。

 ある朝、見たことの無い糞が車庫側にあった。黄色っぽい俵型で粒々が混じっている。 糞の大きさからして、大きめの犬のものかと思ったけれど、散歩中の犬が排泄するには不可思議な場所にしてあった。どうにも解せなくて調べてみるとハクビシンだと分かった。
 これはもうダメだ、何かあったらご近所にも大変な迷惑を掛ける。それからは一日中エサを置くのは止めてもらい、猫の顔を見た時だけ出すようにした。


 春になり、ミミコが庭を訪れるようになると、他の大人猫たちを追い払っていった。外見がいかついミサですら例外ではなく、それでも最後まで頑張っていたけれど、ついには庭を追われていった。

 ミミコが我が家の庭主となってしばらくした頃。  
 セツが再び現れた。 

 夜。ふと、気配を感じてカーテンを捲ると、真っ黒い猫がひっそり、こちらを向いて、目立たぬように座っている。

 セツだ......!生きてた!

 そういえば子猫の時からそうだった。夜、エサをもらいに来る時は、そうっと座って待っていたっけ。鳴かないとわからないよ、と何度も言ったのに。 

 今思えば、ミミコの娘の〝おっかさん〟が出産のために、うちの庭に来ていない時期で、娘を手伝いに行っていたのか、ミミコも常駐はしていなかった時があった。   その短い数日に姿を見せたのだ。 

 恐らくそれまでもこっそり食べに来ていたのかもしれない。私たちも庭ばかり見ているわけじゃないし、夜来ていたとしても黒猫は見つけるのが難しい。 

 とにかく生きていた、その事実が嬉しくて有り難かった。缶詰を開けたりして、ありったけ食べさせた。
 食べ終わると、少し離れた所に移動して、静かに佇む。なんとなく一緒にいたいんだな、と感じる。ミサのいない夜、何度も同じような時間を過ごしたね。こみあげそうになりながら、台所から漏れる光に浮かぶ黒い姿と同じ空間を共有している。
 しかし突然空気が動いて、さっとセツが消えた。ミミコが走ってきて軽々と塀に上がり、 セツが逃げた方を睨んでいる。

 掃き出し窓の下へ遠慮がちにセツが食べに来たのはその数日だけで、ミミコがずっと庭に居るようになると、また顔を見ることが無くなった。
 今度こそ、どうにかなってしまったのじゃないか、と心配したし、オスは旅に出るとか聞くから、さすらっているのだろうか、とひたすら無事を祈っていた。

 それから四十日ほど経ったある夜遅く。玄関の塀の上でミミコ一家の様子を窺っている香箱座りの黒猫の姿が門灯に照らされていた。私の姿に驚いて、車道へ飛び降りてしまう。 夜でもそこそこ車が通るから、ゾッとする。エサをあげたくて呼び止めたけど、こちらを見上げて、そのままいなくなった。

 私は今度こそセツにお腹いっぱい食べさせてやりたいと思った。オス猫で、もう一歳を過ぎているのに、セツは中猫の印象のままだった。


 一緒に暮らせるようになるかしら。苦労して野良として生き延びてきたのだろうに。 

 明日もまた来るかな。明日はご飯、あげられるかな。

 涙がこぼれそうになる。


 性格の大人しいセツは、自分から喧嘩を仕掛けたりしない。ミミコやおっかさん一家、たまに現れるミサたちに追いかけられ、襲われ続けた。セツの悲鳴を何度聞いただろう。私たちもセツにご飯をやるのに毎日大変な思いをした。


 セツと生きる覚悟を固めるには、この夜からまだ少し、時間が掛かった。




一つ前のお話はこちら↓です🐈‍⬛


☆☆☆見出し画像はみんなのフォトギャラリーより、にきもとと様の作品『黒猫と満月』を拝借しております。いつもありがとうございます🐈‍⬛🐈‍⬛🐈‍⬛☆☆☆☆☆


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