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今こそ「もののけ姫」(追記:2021.09.11)

※内容の一部に作品のネタバレが有ります。



2つの白い巨体が、順々に朽ち果てた大地へと倒れ込む。その様を観て思った。

「そうか― これはラグナロクなんだ。ある1つの世界とその終焉、『神々の運命』と、その中を旅する者とを描いたサガなんだ」と。

「コロナ禍」というものが生まれた頃、同じくジブリ作品の「風の谷のナウシカ」が度々取り上げられていた。そこから発せられる瘴気によってマスク無しでは人は生きられない腐海が広がる世界、その様な世界で懸命に生きるナウシカたちの物語は、このコロナ禍を生きる私たちにも、しっくりとくるからなのだろう。

それ自体は好いことのように思う。ただ……

ただ、このコロナ禍が始まったそもそもの原因、その1つには、環境問題・自然界や森林の開発破壊があるとも言われる。未開の地を切り拓くことで、そこに在った、封じ込められていた未知の存在、生物、ウイルスというものと接触することになる、ということである。

何故、その事をもっと取り上げないのだろう。

そして、「何故、その事を雄弁に語る『もののけ姫』という素晴らしい作品を取り上げないのだろう。」

ずっとそう思っていた。

※何か放送したらまずいことでも有るのだろうか、等と、勘繰ってしまったりもした(苦笑)。

もう一度言うが、あれ程コロナ禍を雄弁に語っている作品は無い、と思う。ナウシカよりも、はるかにしっくりとくる。

タタラ製鉄とタタラ場での生活の為に森が切り拓かれたことで、遠く離れた地にいたアシタカが呪いをその身に受けることになったことは、このコロナ禍は勿論、温暖化による海面上昇とその影響を真っ先に受けることになる人々といった現在の環境問題や、社会問題のそれだと思う。いわゆる、バタフライ・エフェクトといったところか。

作中、「死ぬのは牛飼いばかり」という台詞を、タタラ場の女性の1人がこぼす。作品世界において、農作業等に重宝する牛とその牛を管理・使役する牛飼いは、人々の生活の根底に位置する最も重要な存在なのだが、モロたち獣を含めた自然の脅威の前において、最初にその被害を被る存在でもある。どこか、医療従事者や飲食業に携わる人々といった、エッセンシャルワーカーの人たちが浮かぶ。

また、戦などにより住む家・村・家族を失った者たち、人身売買される娘たちや負傷者や病に侵された者たちの境遇は、コロナ禍はもちろん、それ以前での現実世界とも重なるものがある。

森とタタラ場、守りたいものが異なることで対立することになるモロとエボシ、そのどちらに拾われたかで対立してしまうサンとタタラ場の女たち、だが、モロは「シシ神の森を守るため」と言いやってきたイノシシたちに守ってきたその森を食い荒らされエボシはタタラ場とそこに住む人々を守るために得た石火矢(鉄砲)や製鉄技術と引き換えにシシ神の首を求められたことで、やはり、自身が守ろうとしたタタラ場と住人たちを危機に晒すことになってしまう。

政を行う朝廷は、不死をもたらすとされるシシ神の首を得ることに躍起で、タタラ場をはじめとする人々には無関心とも取れ、そしてシシ神は作中のキーパーソンであるにも関わらず、それに輪をかけて無関心である。森とタタラ場と、そのどちらにも無関心ではいられない、否が応でも関わらざるを得ない主人公のアシタカとは、その立場も含め正反対である。

シシ神の森とタタラ場との横軸と、アシタカとシシ神との縦軸、それらの対比。その中を、アシタカは自身が負うこととなった呪いと共に彷徨う。

「曇りなき眼で見定め、決める」

この台詞が、アシタカの旅の目的をよく表している。何故、自分は呪いを貰うことになったのか。自分はどうしてゆくのか、どうすべきなのか。呪いを貰い、死という終わりと向き合う、向き合わざるを得ない、そんな自分の在り方とは―

「サンの最後の言葉は、答えが出せないままにアシタカに刺さったトゲなんです。」 -宮崎駿-

旅路の果てに、アシタカは何を見出したのか。

朝日を浴びたことでついに「死」を迎え、大地へと倒れ込むデイダラボッチのその姿は、ユグドラシル(北欧神話に登場する、複数の世界を内包し神話世界を体現する巨大な架空の木)が燃え上がる世界からの火によって焼け落ちたかの様でもある。

今一度、この2時間弱に凝縮された壮大なサガを観て欲しいと思う。特に、今と、これからを生きる子供たちに。そして、当時の、そして今現在の私もそうであるように、この作品が「トゲが刺さった」かの様に心に強く残ったのなら、幸いだと思う。

今こそ、「もののけ姫」を―

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