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連載小説|寒空の下(20)

 勤務を終えた足で、駅近くにある会社の事務所に向かった。最後の給料をもらうためだった。いよいよ30万円が貯まり、約二ヶ月という労働生活から逃れようとしていた。到着した頃には夜の八時を過ぎていた。事務所には佐藤しか残っていなかった。可愛らしい女の子たちでもいれば別だったが、彼しかいないせいで、余計に陰気な雰囲気だった。目を合わせることもなく書類を出した。

「改めてお聞きしますが、今日で辞めてしまうんですね?」佐藤の鼻息はいつも以上に荒かった。
「そういう約束だったでしょ?」
「あ、あの・・・」
「言いたいことがあるなら早く言ってください」
「妻が・・・」
「めんどくさいなぁ」
「妻があなたのことを心配してました」
「何で奥さんに心配されなくちゃいけないんですか?」
「妻の名前は花蓮というのですが、彼女もどうにかしてショッピングモールに残るつもりだったんです」
「マジかよ・・・」
「あなたを守ってやれなかったと後悔しているようで」
「あの人は元気にしてるんですか?」
「ええ、今はキューバまで旅行に行っておりまして・・・」
「話はそれだけ?」
「ええ」

 佐藤は給料の入った封筒を俺に差し出した。中身を確認すると、そこには現金と花蓮さんからの手紙も入っていた。目の前でそのラブレターに近いような内容を読み上げてやろうと思ったが、これ以上嫌われたところで何の得にもならないと思い、足早に去った。こうして学資の足しを稼ぐための労働生活は幕を閉じた。

 事務所を出ると近くにはちょっとした夜の繁華街があり、活気づいていた。ぶらぶらと散歩をした。栄えているとは思えなかったが、居酒屋から風俗店までお金を落すところはそれなりにあった。道端には透けた黒いストッキングを穿いた娼婦らしき女が何人も立っていた。俺はただその風景の中を通り過ぎていった。

 ショッピングモールを離れて一週間が経ったある日。仕事をするわけでもないのに働いていた時と同じくらい早起きをして、駅に向かっていた。仕事を辞めてからは夜遅くに帰ってきて夕方に起きる生活に変わった。一緒に住んでいても、理恵の姿はあまり見なくなった。こうやって世の中の夫婦はすれ違っていき、他の人間とセックスをするようになるのだろうか。もしくは他の人間とセックスをするようになるから、すれ違う生活を求めるようになるのだろうか。俺は後者に近かった。

 三月も下旬になり、そろそろ暖かくなってきてもいい頃だったが、風は未だ冷たかった。電車に乗った俺はとある山に向かっていた。電車の中では本を読もうと思っていたが、ついつい遠くに見える山々に目がいき、読書に集中できなかった。小旅行に出向いているのには理由があった。

 山の麓にある駅を降りると一段と空気が冷たくなり、街にいるときより寒く感じた。駅の構内にあるコンビニに寄ってから、さらにバスへと乗り継ぎ、山の上を目指した。バスに乗り、数十分揺られていると、建物が少なくなっていった。山肌はより近くに見え、杉の木が規則正しく並んでいるのが分かった。下方にはエメラルドグリーンをした川が流れ、夏になると人々が集まるであろうバーベキュー場もいくつかあった。

 途中には温泉なんかもあり、街での暮らしに疲れた人々が心身を癒しに来ることも多いだろうと思った。しかし、バスが進んで行く道は両脇を林に囲まれており、暖かな日差しは届かなかった。春がやって来ていないこの季節においては、安らぎの地ではなく、どこか物悲しい僻地という印象のほうが強かった。

 バスは出口の見えない峠道のカーブを、ブレーキも使わずに勢いよく走っていった。道路に目を凝らしていたが、連続カーブに気分が悪くなりそうだった。もう少し丁寧な運転をしてほしいものだと苛立ったが、席を立って運転手に文句を言えるほどの余裕はなかった。

 早々に目的の人間を探すのを諦めた。少し寝てから、適当なバス停で降りることにした。そうやって、ほとんど目を閉じて眠りかけていたのだが、バスが急停車をしたことで激しく揺られ、衝撃で目が覚めてしまった。

 登り坂の先にあるヘアピンカーブの手前には警備員が立っていた。その先は工事のために片側交互通行になっており、バスは一時停止をした。しかし、停止位置は同じくカーブの先にあり、もっとスピードを出していれば警備員に突っ込むことも容易に起こりうる場所だった。バスを止めた警備員は辛い表情をして、鼻汁を垂らし、誘導灯を水平に掲げようとしていた。が、腕はあまり上がっていなかった。二分くらい経ってから反対車線の車列が切れると、彼は誘導灯を大きく回し、バスを出発させた。真横を通過するまではよく見えなかったが、そこに立っていたのは笠原だった。

 すぐ近くのバス停で降り、来た道を引き返した。峠道には十分な歩道はなく、縁石くらいしかない細い幅の道を進んでいくしかなかった。車はすれすれを通過していった。下手すれば肩にサイドミラーが当たるような気がした。その上、路面は凍結していた。

 10分くらい歩いたところで、ようやく笠原の姿を確認することができた。以前と変わらず太鼓腹だったが、体自体は一回り小さくなったように見えた。彼の持ち場にはひっきりなしに車が来ていた。乗ってきたバスよりスピードを出す車が何台もいた。いつ彼がはねられてもおかしくはなかった。

 反対側にはもう一人の警備員がいて、俺はその近くに立った。細身の男は仕事をしながら、ちらちらとこちらを見て警戒してきた。彼がいることで笠原には近づけなかった。それに、いざ近づいたところで、どんな言葉をかけていいものか分からなかった。歩みを進めることができずにいた。

 仕事自体はそう長く続かず、片側交互通行は俺が来てから30分もしないうちに解除された。笠原は規制線を作っていたカラーコーンを細身の男と一緒に回収し始めた。その間にも車はどんどんと通過していき、笠原の背後をかすめていった。つなぎを着た現場の作業員に怒鳴られながら、笠原は懸命にコーンバーや標識を片付け、トラックの荷台に載せていた。時より本当に息が続かなくなるのか、その場にかがみ込み、大きく肩を揺らしていた。

 全てを片付け終わった笠原は、休む暇もなく「次があるんだから早く乗れよ!」と怒鳴られトラックの助手席に乗り込んだ。隙を見て差し入れを手渡そうとしたが、どうしてもできなかった。トラックはあっという間に峠道を登っていき、目の届かないところへと消えていった。

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