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哀雪


 こんな夢を見た。


 泣き疲れたのか、しゃがみ込み、呆然とする彼女の横で、私は降ってくる雪を眺めていた。辺りは一面の白で、どこにも行く場所はなさそうに思える。白と言っても純白ではない。光を遮断した雲と、濁り混じりの雪の白さが世界を塗り潰していた。

 まるで彼女の心境のようだな、と飽きもせず降ってくる雪を見上げながらに思う。どういうわけか、私は彼女の心境がある程度読みとれる。
 哀しみに暮れた感情だ。自分の弱さを直視し続けることしか、今の彼女にはできない。

 私と彼女と雪と暗雲の中、沈黙には、何かとてつもなく大きなものが這いめぐるような音が充満していた。それは、ある種の沈黙でありながら、概念性のある何かを孕んでいた。時間の経過であったり、この世界の象徴そのものであったりする何かだ。あるいはそういった全てのものを内包した、一部にとって全能的な沈黙である。


 私がこの世界について思考をめぐらせている中、彼女は何回も涙を流した。後悔の念や裏切りの類に対して泣いていた。
 私は、彼女の問題は時間が解決してくれると考えていた。大抵の場合、時間が解決してくれる問題というのは、終わってしまった物事に対してだ。残るは自分の気の持ち様だという場合に、時間は有用に働く。
 だが、彼女はいつまで経っても立ち直りそうになかった。降り積もる雪だけが、ただただ世界を埋め尽くす。幾分、あの暗雲が以前より近くに見える。

「まだ、哀しいのですか」
 私は隣の彼女に声をかけた。久々に発した声は、自分のものとは思えないほど響きを持たなかった。雪が音を吸い込むのだ。
「まだ、哀しいのです」
不気味なほど絶望を思わせる声が、私の耳に辿り着く。
「いつまで、泣いているのですか」
「泣いても泣いても、哀しいのです」
そう言って彼女は手で顔を覆った。
 彼女の哀しみが作用し、雪は激しさを増しているようだった。
「あなたは哀しみを愛しているのですか」
 立ち直る気がないがために、彼女はこんな場所に留まっているのだろうか、と私は思った。
「こんな寒く冷たい場所は好きにはなれません」
 泣きながらにそう答えた。
 彼女は自分の哀しみや弱さを愛せない人間らしい。





 私が、再びこの世界についての思考に耽ってしばらく、暗雲がさっきよりも大きさを増しているような気がした。未だ彼女は哀しみの中だ。
 この世界は、私たちに時間の経過を与えてはいないようであった。
この世界の一部として私たち二人は含まれていないのだろう。この状態では、時間は私たちの間に流れず、彼女の問題に対して有用に働きはしないのかもしれない。

 積もり積もった雪の上、空はいつしか、すぐそこに迫っていた。
 哀しみが積もり続け、彼女の許容範囲を超えてしまったら、彼女はどうなってしまうのだろうか。あの暗雲の中に取り込まれたら、もう取り返しがつかなくなってしまう気がする。

 私は嗚咽を漏らしながらしゃがみ込む彼女の手を取り、立ち上がらせ、どうにかして歩かせた。
 いつまでもここにいてはいけないことは、少なくとも理解できた。
 この世界に捕らわれた彼女をどこに連れて行けばいいのだろうか。
 逃げ切れない気がするこの不安が悪夢を思わせた。どうすれば抜け出せるか、私にはわからなかった。
 あの空に手が届かないうちに、世界の果てまで行かなくては。


 吐息は目に見えず雪に混じっていった。


 この世界は、空っぽのように真っ白だ。









 依然、私は前に前にと進んでいたが、不意に、左手が後方に引かれる感じがした。傍らの彼女と繋いだ手が感じた抵抗から、彼女が立ち止まったことを察した。
「もう、大丈夫ですよ」
 後ろから囁かれた私は彼女の方を振り向いた。
 何が大丈夫なのだろうか、私にはわからない。
「早く逃げなくてはいけないのだよ」
 世界の果てまで行かなくては。
 彼女の哀しみを止めないと。
 道中を急ぐ私とは裏腹に、彼女は私の言葉に笑みを浮かべ、俯き加減に頭を振った。
 私は、しばらくしてはっとする。
 咄嗟に頭上を見上げた。
 綿のような雲が、澄んだ青空が釘付けにする。川のせせらぎが、鳥のさえずりが耳を満たす。

「貴方に手を引かれてなお、私は哀しみに捕らわれていました。貴方に引っ張られて、貴方の背中を見ながら泣いていました。泣いても泣いても哀しかったのです」
 恥ずかしそうに彼女は話し出した。
 彼女の問題は解決したのだろうか。
「そうしてやっと、たくさんの時間が世界と私たちとの間に流れていきました。何故私は、こんなにも哀しんでいるのだろうか。泣きながら、そんなことを考えられるようになっていきました」
 哀しみとは違う涙が彼女の瞳を潤ませる。
 もう、逃げなくてもいいのだろうか。
「そんな時になって、やっと貴方のことを考えることができました。私の手を取り先を急ぐ貴方が、どれだけ私の救いになったでしょう。きっと私一人だけだったら、私はもう、どうにかなっていたに違いありません」
 そこまで言って彼女は、込み上げてくる涙を気にも止めず微笑んだ。
「……随分と、遠くまで来てしまったのだね」
 どうやってここまで来たか、何一つ覚えていなかった。
 だが、もう彼女を脅かすものはないのだろう。空は青く、遠く、果てはなかった。


「……もし私が、またあの世界に閉じ込められたとしても、迎えに来てくれますか」
 依然として繋がれている手を不安げに見つめながら彼女が訊ねた。
 どういうわけか、私は彼女の心境がある程度読みとれる。
「今度は、どうやってここまで来るか、ちゃんと覚えておかなければね」
 一瞬硬直した彼女の顔が綻ぶ。麗らかな陽光のせいだろうか。視界が一層鮮やかになる。
 この顔が見られるのなら、あの世界が押し寄せようと、何度でも迎えに行けるな。そう思った。目を閉じ、朗らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。









 目を覚ますと、隣には彼女がいる。
 泣き疲れて寝てしまったのだろう、寝顔に伝う涙の跡が、くっきりと見えていた。
 僕は彼女の手を握り、もうひと眠りしようと思った。
 ありがとう、と彼女が寝言を漏らした。


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