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心もとない


昔HTMLとかCSSでサイト作ったりしてた頃に、なんとなくなんでそれらが誕生したのかってのを調べたことがある。簡単にいうとたくさんの研究者達がとある研究所に出入りしており、日夜研究に励んでいたが、次第にその資料が莫大になってきて管理が大変になってきたので、なんとかしようとなり誕生した、みたいな感じだったんだけど、それから第一次世界大戦のドイツの解読不可能といわれたエニグマ、それらに立ち向かった数学者アランチューリングを始めとした人達がいて、ふたりのジョブズがいて、ラリーペイジとセルゲイ・ブリンがいて、イーロンがいて…と続き、そして今、テクノロジーは勝手に自分で機械学習を進めて、莫大なビッグデータを食っている、ということを考えると、テクノロジーの進歩はとどまるところを知らない。だれがなんと言おうと対抗しようと、ただ進んでいくだけだ、ということがわかってくる。
アップルの🍎あのマークのりんご、あのリンゴのひとかじりは、アランチューリングが青酸中毒で自殺した所から来ているし、グーグルのラリーペイジなんて父親が人工知能をやっていて母親はプログラミングの先生の子供だった。6歳の頃には絵本で読んだものをプログラミングで打ち込んでいたし、子供の頃に読んだ本、それはテスラの本で、その不遇さに涙したという話もある。テスラは本当に純粋な、生粋の天才だと思う。人類の宝のような存在。だからこそ凡人に殺される。それで学ぶ。アイデアだけではダメなんだと。ビジネスとして成功させなければいけないということを。これまで本当に可哀想で理不尽で、信じられないほど不遇な目に遭ってきた宝のような天才たちを、信じられないほどにクソみたいな方法で葬って黙らせてきた歴史があるんだ。人間というのは、そういう生き物だというのを歴史が物語っている。そういうことを、今世界をリードする天才は知っているということも大きな点である。まるでその意思を受け継ぐようにイーロンもラリーペイジも経済的に上手くやっているからだ。
人間の機械化、そして機械の人間化が双方に進み、どちらがどちらだったかなんて見分けもつかなくなる未来は近いんだ。でも人が、人であるための境界線はどこなんだろう。それを私たちはわかっているといえるのか。たとえば、虫歯になれば銀歯を詰めたりするし入れ歯になったりもする。歯を変えたからといって、その人は人間ではなくなったとはいえない。事故にあって片足を切断したら?片腕を切断して義肢に変えたら?目が悪くなって眼鏡にしたら?いずれも人は人である。
歯や腕や足が欠けても人は人だ。整形して顔を変えたって、人は人だ。なら、なにをどこまで代替したら、人は人でなくなったと言えるのか。臓器移植をしたって、その人はその人。そう考えていくとわからなくなる。境界線というものがない。というかその境目はとてもあいまいで私たちだってはっきりとした境界線など見えてない。ちょうど眠る前のいつ眠り落ちたのか記憶があやふやなように、目が覚める前の頭がぼやけてあいまいになるように、境界線というのはよくわからないところにある。狂人と常人と、夢と現実と、人と機械と。
すでに、生きてく中で人がとても機械的に反応しているなと思うこともあれば、機械がとても人間らしいと感じることも瞬間、瞬間にはよくある。
問題はもっと深くて、わたしたちは資本主義の世界を生きている。資本主義は、資本を元に資本を増殖していくゲームである。マルクスの資本論にあるとおり、せこせこ労働したって資本家が資本を蓄えていくスピードには敵わない。そういうシステムであり仕組みである。そこで、問題なのが人間にとっての労働の価値。もうすでに、なんのために労働するのかわからない、という人は多いのではないだろうか。自分の仕事に誇りを持って、自己実現の手段として、またはいきがいとしてやってるという人もいるだろうが、生活のため、メシの種のためにやってるだけ、という人も多い。…なんのために?こんなの機械ができるなら、さっさと機械にやらせればよくないか…?わざわざこんな作業、やってられねえよ。そういう側面も増えてきてはいる。機械なら人件費という大きなコストもないし、寝ないし食べないし愚痴も言わないし凡ミスもしない上に雇う側だって、使いやすいことこの上ない。導入さえしてしまえば、そしてそれで回せるのならそうする、という企業も多いだろう。しかもテクノロジーは日々進化していく。
近代以前は、労働というのは、人にとってよきものであった。人が人の為になにかする。それは生きる力になる。誰かの役に立つ、感謝されたり、助けたり助けられたり、お互いの存在意義を感じられたり、そうして感謝も自然とできて関係性が作られていく。社会というのはそういうものでできた時代があったのだろう。でも今はない。
資本主義はベストではない。ベターなだけ。共産主義を選んだ国はみんな破綻国家になったから他に選択肢がないというか、あとがないだけで、選択肢がないから選んでいる。でもこれは万能か?このまま進んで平気か?と懸念していた哲学者はいて、彼らが懸念していたことのひとつが、この労働によって破壊されるモノとして使われることの個人の阻害だ。
少し話がズレるが、クリエイティブとビジネスというのは、とことん相性が悪いなと思う。私が好きなデザイナーのラリックなんかも、彼は本物の天才だけど、彼の作ったものが簡単にコピーされて量産されて安値で買い叩かれて…そんな風にやすやすと自分の作品たちが穢されていくのに耐えられず、彼は装飾デザインの世界から去ってしまった。唯一無二だから価値があるものは人気商売とは違う、アイドルみたいに人を集めてたくさんファンを集めて、というより、むしろアート的なものは、一点だから、希少価値が高く、高値が付くというものでまったく売り方が違うし、存在自体が別物。みんなに好かれるのではなく、ひとりでも理解者が見つかればそれだけでも価値があるアート。しかも今というより、100年でも1000年でも時を超えていくもの。一方で今をときめかせるものが一般大衆向けのものなのかもしれない。
前に見たアートの一つに岩の彫刻があった。
それは、酔っ払いのトラック運転手が突っ込んできた交通事故で奥さんとお腹にいた赤ちゃんの二人ともが亡くなった事故で、その旦那さんが道路(事故現場の)岩に子宮にいる赤ちゃんの彫り物をしたというものだった。出会うはずだった我が子とこれからの家族の未来。全て消えてしまった現実、を救うのは芸術しかなかったのだろう。奥さんの顔は、描かれていない。描けなかったのだろう。自分なら、と想像したら、もう二度と会えない愛する人の顔を思い出すだけで全身の力が抜けて彫刻刀すら握れないかもしれない。究極だけど個人を救う領域にあると思うよ、芸術は。だからわかる訳ないわな。他人なんかにわかるわけねえ。薄っぺらい共感とか糞だと思うし意味ない。そういうクソみたいな上辺じゃもうどうにもならんとこにある。そもそも他人から評価を受けるというものですらない。この世にひとり、自分だけの世界。本質はプロセス、創造していく過程にこそある。作り手にしかわからん。
少し前までこれは代替されないだろうと言われてきたクリエイティブな領域さえもあっさりと代替されてしまった。(表面上では)映像なんかはとてもクオリティが高いので、グラビアアイドルなんかも淘汰され始めている。もともと女体メインの媒体にすぎないので、それっぽい映像ならもう作れてしまうし、既にAmazonのランキングではAIのグラビア雑誌がずらりと並んでいる。中身のないもの、表層的なものならお手のもんだろう。
ただ人間はまだ全然人間のことについてわかっていないのかもしれない。だからもしかしたら新しい側面を見出すかもしれない。一マイルを4分で走れる人がいない時は誰もできなかったのに、一人、記録を出すと、そのあとに数十人が記録を更新したという事例がある。犬の実験では、小屋から一歩でも出ると激しい電流を与え、まずは痛みを覚えさせる。そして何度も同じことをしたあとに、電流を設置するのをやめたとしても犬はもう小屋から出ようとしなくなるという。人も同じで、このように環境や状況によって、なにかを突破したりすることもあれば、逆に引っ込んでしまうこともあるのだろう。どこかの部族は五キロ先まで見えるほど視力がいいのだが、スマホ慣れした我々現代人はどちらかというと近眼である。視力も2.0はだいぶいい方だけれど、世の中には5.0くらいある人だっているし0.001くらい低い人もいる…
人間の能力の開拓の可能性はどこまで広がっているんだろう。なにも知らないままこうして右往左往しながら生きているのがもどかしい。だから、もっと別の世界が広がるのなら、やはり見てみたい。今までの生活、価値観、世界が壊れて変わってしまうような感覚は恐ろしいがわくわくする。期待してしまう。もっと別の生き方、もっと別の考え方、もっと別の世界が無限に広がっているのなら、狭い世界にいる必要などあるものか、腹を決めてどんどん飛び込んでいけばいい。いうほど簡単なことではないけれど、テクノロジーの進化のことを思うと、もはや飛び込まざるを得ない状況ともいえる。私たちが足踏みしてる間に、テクノロジーは進んでいってるのだから仕方がない。人間の脳みそは旧石器時代から変化していないので、やはり同じ営みを繰り返すだけだ。そしてそれらのいくつがハッピーエンドであったか。大抵は何事も悲惨な最後を迎えている。人間がどんどん壊れていくのはなんだろう。身体が健康であっても自殺してしまうのはなんでだろう。人間関係、借金、挫折、絶望、負担?色んなものがどっしりのしかかった上で、何かが引き金にでもなるのだろうか。人というのは、とことんなまでに一人だ。一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ。生きてるなかで誰かと心を通わせたり、一緒に過ごしたりすることもあるし家族を作ることもある。仲間を作ることもある。たとえば、このアイスが美味しいだとか、あのドラマが面白いだとかは、共感することができる。でももっと深くて複雑なこと、パーソナルな体験に基づくことになると全てにおいて共感など難しい。深い領域では、人は一人だ。己のことは己のみぞ知る。他人にはわからん。そういう部分を持っている。圧倒的に一人、このだだっぴろい世界に突然落とされた点のような存在が人間だと思う。あまりに弱く、あまりに愚かなので、この広い世界を生き抜くには集団を作らないと生きてこれなかったから、抽象概念だとかを信じて、国や通貨や宗教なんかを作り出してここまでなんとかやってきた。どれも、ハリボテのように思う。ガタガタと歪にゆがんでいる。ふと我に帰ることがある。なにを、してるんだろうかと。私は、2023年を生きる20代。心もとなさが常にある。

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