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Instagram、一抜けた

Instagramによる毒の摂取

Instagramは、きっと多くの人にとって毒だと思う。
ひとたび開けば、他人の日常の切り取りを否応なく見せつけられる。
その日常というのは、たとえば美味しいものを食べている「私」だったり、あるいは友人や恋人と遊んだときの可愛い「私」だったり。例を挙げれば枚挙に暇がない。

このような些細な日常は、ただ単に私生活の一部を切り取っているだけのように見えて、実のところどれも他人に対する「私をこう見てほしい」というメッセージを多分に含んでいる。

そして私たちは、そういう凝った編集がなされた他人の充実したように見える日常に、まんまと騙される。
騙されるとどうなるか?「私もこうあらねばならない」という思いが意識せずとも生まれてしまい、今現在の何も飾らない自分を否定し始めてしまう。



沢山の人がInstagramを利用している。私の周りの人も、多くが。
だけど、私は尋ねてみたい。
Instagramを見ていると自分の人生を生きている心地がしなくなりませんか、息苦しくないですか、と。

自分にとって身近な人であれ、そうでない人であれ、他人の日常を見ていると眩しくて目が眩む。
そしてその眩んだ目で自分という人間を見つめ、自分のこれまでの人生を省みる。そんなことをしたら傷ついてしまうと、分かっていながら。
結局その行為は、他人と比べて自分は情けなく取り柄のない人間だということを自分自身に知らしめる。

そんな負の感情しか生まれない、ある種自傷行為とも言えるようなことを繰り返して心を病む人。
華やかな日常を取り上げた写真が溢れ返っている陰で、そんな風に痛みを感じている人が本当は沢山いるんじゃないかと私は思う。
病むとまではいかなくとも、SNSを見ているとモヤッとするあの感覚。味わったことのない人なんて、きっといないんじゃないの?

そうやって他人の日常を見ることで自分の日常を相対化してしまい、どうしたって自分自身を否定する結末にしか終わらないその全くもって意味を為さない行為には、もういい加減うんざりたった。だから私はInstagramをやめた。



まやかしの日常

ここまではInstagramの受動的な利用によって生まれた弊害について。そして、能動的に利用することで生まれる毒もあると私は思う。

Instagramを利用していた頃、私は何をするにしても常に「Instagramに上げるために」という前提を持っていた。
言い換えれば、“インスタ映え”するかどうかが自分の中の最優先・最重要事項だった。

せっかく友人と一緒に過ごしているのに大した会話もせず、ツーショットを撮りまくってInstagramに載せたときの「私」の顔が一番可愛く見える一枚を得ることに苦心していたり。
美しい風景を見たとき、空気や音、匂いなどその時その場でしか感じられない貴重なものを享受しようとはせず、ただひたすらスマホのカメラで写真をパシャパシャ撮る。この画角なら映えそうだな、とか考えながら。風景そのものが美しいことより、Instagram上に表示される画像が美しいことの方が余程重要だ、と。そうどこかで思っていた。

私の行動基準はInstagramが全てだったし、とにかくInstagram上の自分の都合しか考えていなかった。
日常が先にあり、それを取り上げてみるという本来あるべき順序ではなく、取り上げて他人に見せびらかすために日常が存在していた。
私はただ、フェイクとしか言いようがない、かろうじて日常と見せかけられる虚構をせっせと作り上げていただけ。
こんな生き様で、はたして自分の人生を生きているなどと言えるのか?

もしInstagramをやめていなければ。
きっと私は、煌びやかな他人のコンテンツを見ていくうちに価値観がどんどん肥え、今以上に自分がよりよく見られるものを際限なく追い求めようとしていただろう。Instagramに狂わされて。
その欲求は果てしなく続くから、いつまで経っても満たされないまま。

恐らくこれら私の体験は、現代人、特に若い世代がSNSで日常的に、また無意識にやっていることの例となり得るんじゃないかな。
なぜなら多くの人に当てはまる行動だろうから。

俯瞰して眺めてみると、なかなか愚かなことをしているように思えてくる。
「いま」を生きているはずなのに、まるでどこか違う世界を生きているよう。

承認欲求。他者から認められたいという思い。
全てが悪い訳ではない。全く無いというのはそれはそれで考えもの。なぜならヒトが生き延びる上で、生物的に必要不可欠なものでもあるから。
ただ、現代を生きる私たち、ことInstagramという SNSの場においてはこの欲求が少々、人によっては大分行き過ぎているように思われる。

その正常なラインを超えてInstagramにしか行き場のなくなった承認欲求はきっと、自分の考え方やSNSとの距離の取り方を少し変えてみれば、次第に消えていくはずなのだけど。


本当に大切なことは何?

それから。
正直に言って大半のコンテンツは時間の浪費でしかないと思う。
他人の日常を見ることに一体どれほどの価値があるのか?
美味しそうなラーメン食べてんな、この子プリクラめっちゃ盛れてんな、その思いから一体何を得るのでしょう。唯一得るのは多かれ少なかれ、結局自己否定なんじゃないの?

Instagramは他人の日常を垣間見ることができる楽しいSNSかもしれない。ただ、見方を変えれば心にとって毒になり得るコンテンツで溢れているSNSとも言える。
精神衛生上あまり見過ぎない方が良いと私は思う。

もちろんInstagramには便利な面が沢山あることも承知の上で。コミュニケーションツールとして、推している人を応援するツールとして、等々。
この記事で私が例として挙げている利用方法なんて、沢山ある活用法のうちの一つにしか過ぎない。もっとも、一番メジャーな使い方ではあるけれども。
また、ストレスフリーで楽しく利用することができる人達がいることも知っている。
Instagramを活用して楽しむ人達を否定している訳ではない。

ただ私は、Instagramを使わないことで保てる価値観は至極尊いものだと思う。
何が本当に大切なことなのか?
他者からどう見られたいかという他人軸に寄りすがって生きていくのではなく、自分はこうありたいという自分軸を持って生きていく。それが人間の根っこにありさえすれば、しなやかに生きていけると私は信じている。
だから、Instagramはもう使わない。


横道に逸れる:気になるあの人の連絡先について

どうでもいい話だけど、今はInstagramがあるおかげで、気になる人の連絡先を簡単に手に入れて繋がることができる。
気になる人ができたら、とりあえず自分のFF内から探し出してフォロー。勇気を出してDMで挨拶をちゃちゃっと済ませようものなら、赤の他人から知り合いという関係にまで漕ぎ着くことができる。

でも、私はメールアドレスか電話番号を聞くしか連絡先を知る手段が無かった昔の方が好きだな。その世代ではないけれど。
だってInstagramのDMで「よろしくね!」と一言メッセージを送信するよりも、「〇〇さん、良かったら電話番号教えてもらえませんか?」と話しかける方が断然勇気が要る行動だし、その分嬉しさも増し増しじゃありませんか。

まあ、今の時代に電話番号やメールアドレスを聞いて好きな人と繋がろうとする古風な方なんていないことでしょう。


Instagramはコミュニケーションにおいて手軽で便利という最大のメリットを持つものの、私はそれが気に食わない。
そんな簡単に気になるあの人のあれこれを知れちゃって満足?と思ってしまう。
手軽さが過ぎる故に、本来ならば味わうことのできた何かをすっ飛ばしてしまってはいないか?

先のInstagramのない時代だと、コミュニケーションをするにはガラケーのメール(もしかしたら手紙?)、電話、直接話す程度しか無かったはず。

でも、私は少しばかり不便で不自由な、そしてどこかもどかしさをももたらすこちらの方が好き。

手っ取り早くその人のことを知れなくていい。話をすれば、質問すれば時間がかかっても分かるから。
コミュニティ内で誰でも閲覧できる公開された情報を知れなくていい。私にだけ教えてくれた秘密が一つでもあった方が嬉しいから。
頑張って自分を良く見せようとして作り上げた、その人の魅力を分かりやすく伝えてくれる投稿を見れなくていい。実際に会って生で見る、表情や感情が動いているその人の方が何倍も魅力的だから。

だから、Instagramは私に必要がない。


Instagram利用解除のすすめ

もし少しでもInstagramをやめてみようかなと思う人がいたら、利用解除という機能がおすすめ。
ログアウトとアカウント削除の中間のような機能で、Instagram上にアカウントが表示されず削除したように見えるけれど、また戻りたくなったらいつでも戻れる、そんな機能。

やめてみると、初めはInstagramを見たくてうずうずしてしまうかもしれない。でも、だんだんそれが心地良いと思えるようになるはず。
Instagramがなくても生きていけるよ。むしろ、使っていた頃よりも心穏やかに。

使うも使わないもあなたの自由。
だけど、他でもない自分の人生を生きることを忘れかけているのなら。
あなたも良かったらInstagramをやめてみて。

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