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可愛い子/イケメンがタイプって人さぁ

“顔ガチャ”で当たりが出た、この一言に尽きる

「好きなタイプは顔が可愛い子」と言っている男子がいるとぶっ飛ばしてやりたいといつも心の中で思う。いやもう、ものすごく癪に障るんだよね。ウゼェ…と心の中で毒突いてしまう。

人間の本体が魂だとすれば、顔を始めとする身体は結局のところその容れ物でしかない。
君、生まれたときから決まっていてその人には選択権なんてなかった“容れ物”を見ただけで人を評価するという、割と残酷なことをしているんだよ?
顔が可愛いだとかイケメンだとか、綺麗だとか整ってるだとか、そんなの全部「運」の一言に尽きる。

君のタイプな感じの可愛い女の子/イケメンだって、お母さんとお父さんの遺伝子の組み合わせがたまたま良かっただけだよ。
私たちは親を選べない。親ガチャという言葉があるように、顔も同じく「顔ガチャ」でしかない。ガチャガチャで当たりが出た、ただそれだけ。
要するに運ゲーでレア物を手に入れたラッキーな人。

いやなんなら、この日本という国に、地球という星に産み落とされたことが幸運だっただけだよ。
その顔の造形が、今私たちが生きるこの世界の価値観の中で良いとされているものとたまたま合っていた、ただそれだけ。

時代によって、また場所によっても価値観は異なる。
たとえば日本では一重より二重の方が好まれている風潮があるけども、海外に出るとアジアンビューティーとして美しいとされるように。

星によって違う可能性だって無きにしも非ず。
この地球という名の星にある日本という島国では、目が二重で大きい・鼻が高く小さめ・顔が小さい・色白・痩せ型で華奢・童顔っぽい女の子が一般的に巷で「可愛い」とされている模様。なお完全に私の主観。

でももしかしたら、何光年も遠くの星ではこの特徴と全く正反対の女の子が可愛いと称賛されているかもしれない。たとえば「私、鼻が高くてシュッてしてるのがずっとコンプレックスなんだよね。整形しようか本気で悩んでてさ。あーあ、生まれつき団子鼻とかマジ羨ましすぎる」といったように、そういう世界線だってあり得る。


「可愛いけりゃOK」みたいな風潮

女子の多くは、先に書いたような特徴の顔を追い求め、この時代この国の価値観にすっかり染まっているように思う。
プチ整形という軽いニュアンスの言葉で顔をいじることに対する抵抗感を緩和させ、簡単に自分の顔を改造してしまう人が増えたことがそれを物語っていると思う。

最近は「韓国の女の子みたいだね」というのが褒め言葉として捉えられるらしい。
肌が白くてBMI値めちゃくちゃ低そうな感じのKPOPアイドル、そういう女の子を可愛いと思う人が多いらしい。どうやら。

皆揃って似たような理想を掲げるから、必然的に似たような女の子が量産される。

私の周りの青春を謳歌していそうなキラキラ女子高生たちも皆、可愛くなろうとすごく努力しているよう。だから皆割と似たような雰囲気の顔、髪型、スタイルに留まっている。
可愛くなろうと努力するのが楽しい人はそれでいい。

でもそういう風潮は危険を孕んでいる。
こんな定型化された理想像が世間に浸透してしまっているせいで、理想と違う諸々の特徴は排除しなければいけないという思考に陥ってしまう、そんな人たちの存在を無視しないで?
その排除するべき特徴は、本来なら個性として認めていいものなのに。
ルッキズム的な風潮が個性を押し殺してしまう人を生み出しているんじゃないの?

「可愛くなりたい」というささやかな思い。
これが沢山集まって肥大化していくと、陰でそんな弊害を持つ。その残酷な性質が私は嫌い。


ありのままの自分でいなよ

別に可愛くなくたって、イケメンじゃなくたっていいと思う。無理して変わらなくとも、ありのままの自分でいなよ、そう声を大にして言いたい。

顔なんて、所詮その人を覆っている表面でしかない。私たちは、骨格とか、骨についた脂肪や筋肉のつき方とか、はたまた目の上のシワの数とかを見て「イケメン」「可愛い」だなんて言っている。
そう考えてみると、顔の造形だけで人を評価することがいかに内実を伴わない薄っぺらな行為かがよく分かる。

人を美しさという物差しでばかり測る癖がついてしまったら、自分のこともそういう価値観でしか評価できなくなってしまうから、きっと最後には自分自身が一番苦しくなる。

この世で身に纏う、あるいは纏わされる凡ゆるもの

顔に限った話ではない。
化粧やファッション、アクセサリーといった日常的で身近なものから、住んでいる家、お金、学歴、肩書き、社会的地位まで。
物質的・非物質的を問わず、私たちがこの世で身に纏う、あるいは纏わされる凡ゆるもの。
このような観点なら、正と負の二方向しか持たない数直線的な評価の仕方で良いから、容易に人をランク付けできるし、その人を理解できた気になる。そこが恐いところ。

しかし人を知ろうとするときに、これらの先入観が邪魔をし過ぎると、私たちは無意識にその人の本質を知ろうとしなくなる。
なぜなら、表面的な評価で作り上げた人物像が、勝手にその人の未知の部分を補ってしまい、その人を分かったように思わせてしまうから。

美しさに惑わされることなく

私たちはきっと、そういう物差しを使って人をどうこう、ということを完全にはやめられない。
どうしたって、顔で印象が多少なりとも左右されたり、身につけている装飾品のブランドや値段で真っ当な人かどうか確かめたり、高学歴だから言っていることが全て正しいと信じて疑わなかったりしてしまう。
無意識にやっていることだし、全てが悪い訳でもない。
しかもある程度は必要なことだったりするから、物差しを使って人を理解しようとするのをやめるべきだとは言えない。

だけど、それでも。
魂をしっかりと見つめることでしか知り得ないことだって、沢山ある。
簡単に表面には出てこない“その人”をちゃんと知ろうとする姿勢を、私は持ちたい。

出来る限り、物差しから得た思い込みは小さく。
自分の主観だけでその人を知った気にならないように。
そう意識しないと、すぐに物差しを手に取って楽をしようとしてしまうから。

0にはできなくとも、小さくすることはできる。

容れ物の美しさに惑わされる人間になりたくない。
私は本質を知ろうとする人間でありたい。

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