初めまして。と考えたいこと

最近、誰かの意見を聞きました。
最近、誰かに自分の意見を伝えました。

誰かと話しているとき、
同じ考えだなぁ とか、それは違うと思う とか、よく分からない とか、
様々な気持ちになると思います。

自分の考え以外を吸収するのはかなり難しいと思います。
実際、私も苦手です。

この世の中、いつでもどこでも誰でも簡単に意見を世界に伝えられて、
今まで埋もれていた、たくさんの考えが
どんどん話されるようになってきました。
その反面、どんどん世の中は声であふれかえって
それらが大きな塊になって、ものすごいスピードで転がっているような。
誰かの考えとか意見とか、自分の意見でさえも置いてけぼりになっているような。
有益な言葉、解決方法、結論、etc.…を常に求められているような。
考えることを許されているのに時間内に正解しなきゃいけないような。

だからこそ、ひとつひとつ立ち止まってじっくりじっくり考えて、話していく時間があってもいいじゃないか、全部分かり切らなくていいし、答えにたどり着けなくてもいい時間が欲しいな、と思うのです。

たくさんの思考で溢れた中を生きている私達が、

お互いにフラットに今を生きる人間として向かい合っていけるためにどうしたら良いか。

そうだ、対話しよう

20代の若者達の“対話”の様子や、それを通して参加者の一人が考えたことを
このアカウントで話していこうと思います。

”対話”のきっかけとしての哲学対話

初めて“哲学対話”という手法を体験しました。

ひとつの問いに対して、様々な考えを互いに出し合い、そこからどんどん問いを深めていくもの。答えが出ても出なくてもそれでいい。その過程を楽しむものです。

そして、今回の対話のルールは下記のようなものでした。

①他者の考えを一旦受け止める
②納得できないままにしない
③ゆっくりと話す
④自分の意見が変わることを楽しむ

この対話には9名が参加し、進行役のファシリテーター以外の全員が哲学対話は初めて(お話するのも初めまして)ということで、梶井基次郎の『檸檬』を取っかかりとしてスタートしました。
また、ファシリテーターを務めた一人もファシリテーターは初めてでした。

こんな状況下ですので、オンラインで。カメラのオンオフは自由。
画面にはファシリテーターが共有する『檸檬』。

まず『檸檬』を1文ずつ順番に読む。高校時代に現代文の授業でやっていたので、少し懐かしい気持ちになりました。笑
意外と漢字も読めなくなるんだなぁと思いながら進んでいきます。

肺を患い、金もない「僕」が得体のしれない不吉な塊を抱えながら、果物屋で買った檸檬を丸善に仕掛ける話。
そして、紡錘形の檸檬が息の詰まる丸善を爆破することを想像して足取りが軽くなる話。

その後、5分ほど時間が与えられ、『檸檬』からふと浮かんだ問い、または普段の生活から浮かんだ問いを考えました。

様々な問いが出ました。

幸福とは何か、価値観の定義とは、味って何だろう、抽象と具象での表現とは、カーンとなった経験はあるのか……
(ちなみに、私は「みすぼらしくて美しいものの魅力とは」と挙げました)

そして今回の問いとして選ばれたのは

“頭の中で行われる遊びは、みんなにもあるのか”

というものです。

まずそれぞれが日常的に行っている遊びを挙げていきました。 
夢の続きを考えたり、食べたいものを想像していたり、過去に戻ってみたり…
どんなことをしているか挙げ終わると、
どうして頭の中でそういったことをするのかという新たな問いが生まれました。

参加者のひとりが、

「頭の中で遊びを繰り広げることは、それが欲しい理想だからかもしれない」

と話してくれました。

この考え方に納得する参加者は多く、私もそのひとりでした。
ああなっていたら、こうなっていたら。 
楽しかった日を終わらせる夕焼けを見ながら今は朝焼けってことに頭の中でしちゃおう。とか。
それを願ってしまうことが、頭の中での遊びに繋がっているのではないか。

一人が、実現させる理想と頭の中の遊びで完結する理想の話をしました。

「私は理想の身体になるためにダイエットするけど、ホントは食べたいものいっぱいあって、食べたいもの食べるって理想と締まった身体っていう理想の2つがあるんだよね。締まった身体の方が実現させたい理想だから、それよりも実現させなくていい食べ物を遊びで完結させてるのかも?」

また一人が、

「なんか、頭の中の遊びは分厚い本の一ページだけを楽しんでいるけど、ほんとは全部読むことが目的で、みたいなかんじかな?」

「え、っと、全然分かんない!どういうこと?」

ダイエットの一人が目線を泳がせながら、大きな本を想像している。

それを受けて、ちょっと沈黙の後、本の例えを出した一人が答えました。

「大きな理想からどんどん理想が枝分かれしていって、小さな理想に到達して、それが頭の中で繰り広げる遊びになるっていうような。」

あー、なんか宇宙みたい
と、想像を私はしました。

そこからさらに繋げてくれた参加者がいました。

「現実では絶対に出来ない負の理想っていうか、なんか本気でそう思ってるわけじゃないんだけど、すごく過剰なネガティブな遊び?を頭の中で繰り広げることがある。だから別に実現させたい理想ではないっていうか。」

今まで挙がっていた遊びは比較的ポジティブな要素が多かったのです。
だからこそ、“理想”というワードに繋がっていったと思います。
しかしながら、ネガティブであっても“理想”は“理想”です。

ここで気付いたのは、私の中の“理想”はポジティブなイメージで構成されていたこと、実現させたいものであるというものだったと気が付きました。
例えば、お金持ちになるとか海外留学に行くとか…
自分の中の“理想”の意味を、自分で縛っていたと気付かされました。

ここまでで時間が来てしまい、

遊びは”理想”を頭の中で楽しんでいるのかも
ひとくちに“理想”といっても2方向の意味合いがあるのかも

という流れで終わりました。

まとめ

対話の時間は30分くらいでしたが、
自分にはない考えに出会うこと
思いがけない自分の考えに出会うこと
の楽しさを感じました。

なんだかふわふわして、ぼんやりとした時間、それでいてずっしりと疲れる時間。
あー漂ったなぁ、みたいな爽やかな疲労感。

また、それを自分なりに消化して新しい考えとして取り入れる。
誰かと向かい合って真剣に話す。
なかなかに大変な作業ではありますが、
より自分を深められる気がして、少しわくわくしました。
(代わりに、集中力とブドウ糖を大量に消費しましたが…笑)
次回の対話でどんな新しい視点に会えるか楽しみです。

最後に申し上げますが、これが「良い」哲学対話であるのか、わかりません。
ただ、ひとりひとりの言葉を大切に、ゆっくりじっくり向き合う時間にできることを目指していきます。
よちよちと練習中ではありますが、どうかゆっくり、暖かく。

読んでくださり、ありがとうございました!

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