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#35 立春ももうすぐだ



1月も終わりか。
2月4日、立春ももうすぐだ。

今年はそんなに雪が多くなくて、寒いけど、雪が舞う程度なのがいいね。

■  飛雪帯春風 

唐の時代初め、蘇頲(そてい)という人の漢詩の一節。
舞う雪は、春風を帯びている。
雪は舞うけど、もう春なんだよな。


・・
紀貫之が古今和歌集に載せた歌がある。

■ 袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん

  袖を濡らして(ひぢて)、すくった(むすびし)水が凍ったのを、立春の今日の春風がとかしていくんだろうな。

冷たい水に手を付けるのがつらい季節も、そろそろ終わり。
立春の風が氷をとかすように、春の訪れを喜んでるんだろうな。
という解釈かな。

・・
あ、それでさ、今この貫之の歌の訳をしてみたんだけど、一般的な訳とは違うんだ。
一般的には、

「(夏の日に)袖がぬれて(手に)すくった川の水が、(冬の間は)凍っていたのを、立春の今日の風が吹き溶かしているのだろうか」

なんてのが、一般的な訳として出回ってるんだ。

これって変じゃね?
なんでいきなり、「夏の日に」なんて訳になるのかな?
この歌の直前に「二条のきさき春のはじめの御(み)うた」としか書いてないし。

で、あれこれ解説なんかを読むと、どれも同じように、「この歌は、昨年の夏の日の思い出を想起させ、秋、冬と時間の経過をともなって春の喜びを歌っている」なんて解説ばかりなんだ。

オレもけっこう意訳するけど、この歌のどこをどう読んでも「去年の夏」という意味出てきっこないんじゃない?(笑)


・・
どうしてこうなったかわかんないけど、オレがもってる資料の範囲だと、その道のオーソリティーの大岡信(おおおか まこと)さんが、それを言ってるんだよな。

「去った夏 袖をぬらして戯れたあの水よ 冬のさなか氷ついて動かなかった水よ また思い出の去年の夏よ 今日春立つ朝 思いなしかゆるむ風に 水よ 思い出よ とけて再び流れはじめるか」

んーーーん(笑)
これわかるか?

まあ、大岡さんは、貫之の歌をこう解釈した。
それ、否定しなくてもいいとは思うんだ。

全く正しい解釈ってなくて、読者が自分の中の価値観や視点からそれぞれの解釈をするもの。
そして、その解釈で、その表現を好きだと思うなら、それでいいんだよ。

ただ、大岡さん、「袖ひぢて」で思いっきり「夏の水遊び」と思い込んじゃったのかなとも思う。
それとも、何かオレの知らない約束事があるのかな。

今のところは、オレの読み方の方が無理がないんじゃないかなあ。

■ 袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん

  袖を濡らして(ひぢて)、すくった(むすびし)水が凍ったのを、立春の今日の春風がとかしていくんだろうな。

かなりのビッグネームだから、みんな右へならえしたんじゃないかなあー(笑)

・・
解釈は、その人のものさ。
大岡さんは大岡さん。
オレはオレ。
自分で納得できれば、それでいい。


・・
時々、お姉ちゃんのいる店で歌う曲が、サザンの「栄光の男」だ。

■ ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを
  立ち食いそば屋の テレビが映してた
  シラけた人生で 生まれて初めて
  割箸を持つ手が震えてた
  「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど
  信じたモノはみんな メッキが剥がれてく

「永遠に不滅」って言ったのは長嶋茂雄だ。

まさにオーソリティ。

でも、若いころ、本当にすごいと思っていた人も、時間がたってメッキがはがれていくんだ。

ただ、でも、長嶋がだめなわけじゃない。
桑田は、その視線を自分に向ける。

■ I will never cry. この世に何を求めて生きている 
  叶わない夢など 追いかけるほど野暮じゃない
  悲しくて泣いたら 幸せが逃げて去っちまう
  ひとり寂しい夜 涙こらえてネンネしな

自分には、長嶋ほどの力はない。
自分は自分の道を行くだけ。
ただ、長嶋の今も、自分の今も、幸せが逃げていかないようにとにかく生きている。
そのことは同じなんじゃないかな。

・・と、オレは解釈してる!(笑)
大岡さんの解釈も、オレの解釈も、まあ似たか寄ったかさ(笑)

そう言うオレは、お姉ちゃんの店で歌うのさ。

■ 優しさをありがとう 君に惚れちゃったよ
  立場があるから 口に出せないけど
  居酒屋の小部屋で 酔ったふりしてさ
  足が触れたのは わ・ざ・とだよ

まあ、こんなふうに、セクハラ気味にお姉ちゃんの横で歌う(爆笑)

それはそれで、オレの人生。
恋する春がやってくるよ~(笑)

ま、そんな意味で、飲もうかね。

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