遠い地の友 ーいつの日かまたきっと①ー
大学2年を休学して行ったインド。
本当に色んなことがあったけど、最終的には行って良かったと思ってる。
過ごした10カ月のことを思い出して書いたものがあったから、それを何回かに分けてnoteにも...。
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はじめに
私の頭の片隅には、ある女性と過ごした日々の記憶がある。もう4年も前の事だけど、今でもふとしたときに彼女のことが頭に浮かぶ。それに、きっとこれからもあの日々を懐かしく思い出すと思う。彼女は今、どうしているだろうか。元気で暮らしているだろうか。前みたいに、泣いて笑って祈って、喜んで、感情豊かに暮らしているだろうか。
私が彼女に出会ったのは、2018年の6月。大学2年になるこの年、私は日本の大学を1年休学してインドに行った。インドのウッタルプラデシュ州アラハバード県(現在プラヤグラージュ県)にある、大学(以下マキノ)で、10カ月学ぶためだ。私が参加したのは、持続可能な農業・農村開発コース(Special Course in Sustainable Agriculture and Development)というもので、このコースは「農村の草の根レベルで持続可能な農業・農村開発に従事する献身的な農村リーダー、NGOワーカーを育成すること(HPより)」を目的としていて、コースの中では、有機農業や稲作、キノコ栽培、養鶏、養豚、食品加工、農村調査などを行った。基本的に毎日農作業があって、多くの時間を土の上で過ごし、毎日足の裏を真っ黒にした。この年このコースに参加したのは、ミャンマーのカチン州から2人(男性2名)、北東インドメガラヤ州から2人(男性1名・女性1名)、そして日本から1人(女性1名)の計5人だった。ミャンマーの2人とメガラヤの2人は、それぞれ彼らの所属するNGO団体から派遣されてきていた。この4人、1人1人の癖が強すぎた。共に時間を共有する中で、私の考え方も、生き方も、「ほんの少し」ではなく、「かなり」影響を受けてしまった。一人一人が、今でも忘れられない大切な仲間だ。本当なら、4人全員についてまとめたいところだけど、それにはとても時間がかかりそうなので、少しだけエピソードを交えながら、今回はその内の1人、北東インドのメガラヤ州から参加した女性についてまとめていきたいと思います。
彼女との出会いは、4人の中でも特に大切なものとして私の心の中に残り続けている。彼女はとても「素敵」な女性なのだ。私は、皆さんにも彼女の事を知ってもらいたい。「素敵」という、たった2文字では説明することは難しく、少し長くなってしまうかもしれないけれど、私の記憶をここ綴ります。
インドへ
このコースでは、男女別にそれぞれ1つずつ部屋が与えられて、コースの期間中は参加メンバーで部屋を共有することになっていた。この年、私以外にもう1人女性がいて、その人が私のルームメイトになることを入学前に聞いていた。これが私にとって、人生初めての寮生活。しかも母国語が異なる人とのルームシェア。いったいどんな生活になるのか。ルームメイトはどんな人だろう。ヒンディー語と英語を教えてもらおう。休日には一緒に出掛けたいな。沢山語り合いたいな。なんて具合に、まだ会ったこともない6月からのルームメイトのことを色々と想像して、会うことを楽しみにしていた。行く前は確か、話せなかったらどうしよう、気が合わなかったらどうしよう、なんて不安を考えった記憶はなく、不安よりも楽しみで一杯だったことを覚えている。
2018年6月18日。成田空港で、参加するコースを運営する団体のスタッフさんと合流した。飛行機は無事に離陸しインドへ向かった。出発当日の夜遅くまで荷造りに追われ、緊張と睡眠不足で少々疲れていた私は、離陸してすぐに目を閉じた。次に目を開けた時には、もう間もなくデリーに着くと機内のアナウンスが言っているときだったので、あっという間のフライトだった。無事に着陸した。ついにインドに着いたのだと思うと、心のどこかで緊張しながら、そしてどこかで少し不安になりながらも、これからの生活に心を躍らせていた。私にとってまず初めの不安は、入国審査だった。これまで海外に行くときの入国審査でそれほど緊張したことはないのだけれど、今回は緊張していた。その一つの原因は、インド英語を聞き取れなかったらどうしよう、という不安があったからだ。
私が初めてインド訛りの英語を聞いたのは、日本でインド大使館に学生ビザを申請する時だった。申請書類を送った数日後にインド大使館から電話がかかってきた。しかしその時、電話の向こうで大使館の人が何を話しているのかさっぱり分からなかった。何語を話しているのかも最初分からず、少ししてから英語が話されていることに気が付いて、急いで「Sorry, Can you say that again? Or can you speak Japanese? (もう一度言っていただけますか、それか、日本語を話すことはできますか)」と聞いたことを覚えている。インド英語はかなり聞き取りづらいと聞いてはいたが、普段私が聞いている英語とかなり違っていたために、英語とは違う言語だと思ってしまったほどだ。まったく、日本語が話せるなら最初から日本語で話してほしかった!と話を終えて思ったけれど、私はこれからこの言葉が話されている国に行くのであって、私が理解できない方が問題なんだと、今の自分の英語力のなさを突き付けられて、インドに行って彼らの話している言葉が理解できなかったらどうしようと先のことを考えて不安になっていた。そんな訳で、入国審査のカウンターにドキドキしながら私は向かった。
しかし、そこにいた入国審査のおじさんは、疲れた顔をして、まるでやる気がないように座っていた。私がパスポートを出すと、しょうがないからやってやるか、とでも思っているかのように、パスポートと私の顔をちらりと見ただけで、「ボン!」とスタンプを押してすぐに返してきた。あれだけ緊張して、心構えして行ったのに、結局何にも聞かれることなくその場を通過した。声がよく聞こえるように髪の毛も耳にかけ、たとえ分からなかったとしても、何か一つぐらいは単語を聞き取ろう!と、かなり構えて向かったので、何も聞かれなかったことに対して私はラッキーとは思えず、少しがっかりしてしまった。目的はなんだとか、どこに行くんだとか、ありきたりな質問だけど何でも良いから1つや2つ聞いて欲しかった。結局、多分Fちゃん(私)の方が時間がかかると思うから出たところで待っているね、と言った一緒に行ったスタッフさんの方が色々と聞かれたようで時間がかかっていた。
そんなこんなで「無事」に入国審査を通り、次に荷物を取りに向かった。Baggage claim で荷物が流れてくるのを待っていると、小さなものがそのローラーの上で動いているのが目に留まった。気になって近づいてよく見ると、それはネズミだった。まるで人間がランニングマシンの上で鍛えているかのように、ネズミも大きなローラーの上で同じ場所をただひたすらに走り続けていた。。ネズミがそこにいても大きな声で叫ぶ者はなく、何にも気に留めることもなく、人々は荷物を待っていた。私は、この光景が何とも可笑しくって笑えてきてしまった。それに、なぜだかその時、そうかこれがインドか、と心の中で呟いてインドに着いたことを実感していた。無事に入国してから、電車の時間までは空港で時間を潰した。アラハバードへ向かう電車がニューデリー駅から出るので、その電車の時間に合わせて、空港から地下鉄に乗りニューデリー駅に向かった。実は、羽田空港で飛行機に搭乗した時から、前にバングラデシュで嗅いだことのある匂いがしていた。日本では中々出会うことのない匂いで、久しぶりに嗅いだこともあり、どこか懐かしい思いになっていた。機内の中からしていたその匂いは、デリーの駅の人混みに紛れているときにさらにその強さを増した。駅には大勢の人がいて、人々の動きと共にその匂いも流れ、さらに私には理解のできない言葉が飛び交い、目の前が激しく動いていた。
駅のホームに入る為には荷物検査とボディーチェックを通らなければならず、初めてで何をすればいいか分からない私は、周りの様子を伺いながら彼らの様に駅のホームへ向かった。電車に乗るためにチェックされるなんて、まるで空港みたいだと思いながらも、彼らがどこか適当にそれらをやり過ごす様子を見ていた。ボディーチェックのセンサーからは、「ピーッ!ピーッ!ピーッ!ピーッ!」と警告音が鳴り続いていたが、チェックする人も立ち止まる人もおらず、まるで意味がない様だった。それに、順番なんてものは関係なく我先にそこを通りすぎようとする人で押し競饅頭状態だった。そのセンサーの下を通らないで入っていく人の姿も多くあり、もうなんでもありなんだと思いながらも、私は律儀に鳴り続けるセンサーの下を通り、人混みの中、何とか自分の荷物を取ってアラハバードへ向かう電車に乗った。
ここはインド。ついこないだまで周りの人に「私インドに行くの」と話して、そのうち行く場所であった場所に、私は既に足を付けていて立ち、10か月の生活を始めようとしていた。
ルームメイトとの出会い
私は、その年参加する学生の中で一番初めにマキノに到着した。マキノへ着くとすぐに、ここが女子の部屋だと2階の一部屋に案内された。1人にしては大きすぎる部屋で、その部屋の広さが、ルームメイトとの出会いをさらに楽しみにさせた。まず、私が到着した次の日にミャンマーからの2人が到着した。ミャンマーからの2人が到着すると、お茶を飲もうと、私と隣の部屋のインド人の女の子2人がスタッフさんの部屋に呼ばれた。私たちがスタッフさんの部屋を訪ねると、2人の青年がベンチに腰を下ろしていた。部屋に入ると、長旅の疲れもあっただろうが、それ以上に緊張している様子で硬い表情をしながら2人は同時に立ったり座ったりしていた。
私は一度だけお辞儀をして彼らの斜め前の椅子に座った。私が自己紹介をすると、まず一人の青年が私に続いた。名前はピーターだと言った。そして次にもう一人の青年が口を開いた。そして彼は、「マ ネミッ ジャ! ジェ エ シ ケ ジャッ!」と少し早口で、こう話した。私は彼の言葉を聞いても、いったい何ていったのか、さっぱり理解することが出来ず固まってしまった。話した青年を見ながら、頭の中は疑問符で一杯になっていた。私は、助けを求めるようにふと周りに目を向けてみたが、スタッフさんはどうやら私と同じ反応をしている様子で周りを見ていて目が合った。そして、2人のインド人の女の子は、何を言っているか分からないけどコソコソと耳元で話してケラケラと笑っていた。私たちの反応を見るとその青年は再び、「マ ネミッ ジャ! ジェ エ シ ケ ジャッ!」と、やはりこう言ったのだった。それに、さっきよりもはっきりとそう言っていたのだった。もちろん、そんな彼に対する私たちの反応は先ほどと変わることなく、私たちは顔を合わせながら、今なんて言ったの?と言わなくても、お互いに理解しているようで推測し始めていた。そうして、スタッフさんが色々と聞いているうちに、彼は「My name is Jack! J A C K Jack!」と、とても丁寧に名前のスペルまでも言いながら話していたことが分かった。これには参った。ミャンマーの英語はなんて癖が強いんだろうか、と私は考えてしまったけれど、それはおかしいことに気づいた。なぜなら、彼の話す英語とピーターの話す英語のアクセントは違ったからだ。ピーターが一体なんて自己紹介したのかなんて、申し訳ないがこれっぽっちも覚えていない。でも、2人の話す英語のアクセントは全然違ったことだけは確かだ。2人は育った場所が違うのかもしれないし、英語を習った場所が違うのかもしれない。そんなことを考えても、彼らのこれまでの人生なんて知らないんだから私には分からない事。ただ、ジャックの英語を聞いて分かったことは、ジャックと話すときには普段以上に十分注意しながら、何を話しているのか聞く必要があるということ。そして、彼の話す言葉に慣れるのには少し時間がかかるのだろうということだった。そんなこんなでミャンマーの2人と対面し、少し不安になる気持ちが増えたことによって、私はルームメイトに会うことがさらに楽しみになっていた。
ミャンマー組が到着した次の日、北東インドメガラヤ州からの学生が到着した。確かお昼前だったと記憶する。メガラヤからの学生を迎えに行った車が到着し、中から背の高い男の人が1人と女の人が2人降りてきた。これまでは私の想像の中のルームメイトだったけど、ついに実際に会う時がやってきた。自分で言うのもなんだけど、私はとても恥ずかしがりやだ。やっと会えることが嬉しかったけど、ルームメイトに会うことをずっと心待ちにしていたからこそ、何だか恥ずかしくなってしまって、すぐに出迎えることなく私は2階からその様子を見ていた。
しばらくして2人の女の人が部屋に入ってきた。学生は女子が私を含めて2人だと聞いていたから、なぜメガラヤから2人来たのか最初は分からなかった。私はまだインドに来て1日しかたっていないけど、来る前に少しインドに関する読み物をペラペラとめくっていて、少しだけインドに対するイメージを持っていた。その中に、インドでは「一度決まったこともコロコロと変わっていく」というものがあった。だから、そんな感じでメガラヤからの女性が1人と聞いていたけど、やっぱり2人になったのだろうと考えながら、とりあえず何も聞かずに様子を見ることにした。
1人の人は大きな鞄を1つ持っていて、もう1人の人は小さな鞄を1つ持っていた。小さな鞄を持つ女性は、私を見るとすごくニコニコしながら話かけてくれた。その笑顔を見て私の緊張は少し緩み、私も笑みを見せながら話をした。そして話していると、この小さな鞄を持つ女性は、彼らが所属する団体の付き添いであることが分かった。この付き添いの女性は数日ここに泊まるということで、しばらく3人でこの部屋を使うことになった。
小さな鞄を持つ女性が付き添いだということは、もう一人の大きな鞄を持つ女性が私のルームメイトだということだ。このことに気が付くと、付き添いの人と話をしながらも、私はルームメイトのことが気になってしまって何度か様子を伺った。大きな鞄を持つ女性は、こちらを見ることもなく、ベッドの上に座って私たちと反対側をみて座っていた。それに、なんとなく元気もない様子で、小さくなって座っていた。そして、付き添いの人が「彼女が――」と言って大きな鞄の女性の話を始めたタイミングで、私は彼女に「元気ですか?」と声をかけてみた。しかしどうだろう、大きな鞄を持つ彼女は、私と目を合わせることもなく、戸惑った表情をするだけで、彼女から返事は返ってこなかった。でも、その時は彼女も緊張しているんだろうと思って気に止めることもなかった。
私が彼女を初めて見た時の印象は、「とっても若い女の子!!」で、きっと私より年下だろうと思っていたから、あとで彼女のほうが⒑歳くらい年上だと知った時、とても驚き、本当かと疑ってしまったほどだ。最初、話しかけても返事が無いことは全然気にならなかったんだけど、その後何度話しかけても同じ表情をするだけだった。
彼女はなかなか話をしなかった。私もその時、流暢に英語を話せるわけでもなかったけれど、簡単な会話はできていたと思う。これから⒑カ月間一緒に生活するんだから、いくら恥ずかしいとはいえ、少しずつでいいから話をしたいものだと思った。だけど彼女はあんまり私と話したそうにもしていなかった。相当な恥ずかしがりやなんだと思った。だから私は、自然と付き添いの人と話すことが多かった。しばらくベッドに座って話をしている中で、付き添いの人がある事を話してくれた。
それは、「彼女は英語が話せない」ということだった。
それから“ヒンディー語もほとんど話さない”ってことも加えて言った。私もその頃ヒンディー語はほとんど知らなかった。その時知っていたのは多分「ナマステ」だけだったかもしれない。
彼女の出身の北東インドのメガラヤ州にはいくつかの民族が暮らしていて、民族ごと話す言葉も違う。彼女はガロ族でガロ語を話す。ちなみに付き添いの人はカシ族でカシ語を話す。私がガロについて知っていたのは、バングラデシュにもガロ族がいるということだけだった。高校生の頃、バングラデシュに行ったときに、あるガロ族の人に出会ったことを思い出した。
他には何も知らなかった。彼らが話す“ガロ語”なんて知らない。聞いたこともないからもちろん話すことも出来ない。それと同じように、彼女は私の母国語の日本語を知らない。付き添いの人の言葉を聞いて、私は考えを巡らせていた。そして分かったことは、要するに、私と彼女は言葉を通しての会話が困難だということだった。私はこのことに気が付いて、少し悲しくなっていたけど、最初はきっとこんなものだと思って、「話が出来なくても何とかなる。その内話せるようになる」と思ってよく話しかけていた。
つづく
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