ひとりでいても、誰かといても
早朝のお風呂。蒼い時間。鳥が鳴く。静かで、贅沢だなあって思う。
喜びを伴ってひとりで居られる時間は貴重。
喜びを伴ったひとり時間というのは、ああ、いま自分は100%の自分に近い、と感じられて初めて成立する。
100%に近いとは、満たされているということ。
もちろん誰かといるときに、そして大勢のなかで何かをしていても、100%に近いな!と感じられるとき、ある。
仕事のうえでその瞬間を感じられるならば、それを天職と呼ぶのかも。
仕事しているときのことはいったん横において、
ひとって、誰にとっても誰の前でも、何分の何の自分でしか居られない。
それは目の前の相手だって同じ。
分母と分子の差が小さければ小さいほど親しい間柄と言えるだろうし、その差をギリギリまで小さくすることができる瞬間というのは確かにある。
そして、例えひとりで、好きなことをしていても、いま自分は100%の自分と感じるのって、実はとても難しいのではないかしら。
向上心が強い人ほどそうかもしれない。
そんなわけでひとは誰かを求めるし、いっぽうで瞑想したり、精神修養したりするのかもしれないね。
陰陽だな。
大切なのはひとは誰かの力を借りて生きているってことを解って素直にありがとうと伝える一方で、喜びを伴ったひとり時間を持つことだと思う。
ひとりでいても、誰かといても、満たされているあなたでいるために。