側聞するところによると大学内でぼくはキチガイと言われているらしい。友人に君はキチガイだと言われると何故だか嬉しくなる。だが、ぼくの知らないところで悪く言われていると思うとぼくは満足することができないのだ。 こんなことを書くぼくは滑稽な男だ。 ぼくは自分のことをいくらでも悪く書くことができる。ぼくの言語の限界が来ない限りぼくには書くことができる。だが、悪く一言言われるとぼくはすぐに弱くなってしまう。
ぼくたちが格好いいことを言ったとしても、ぼくたちが格好よくなかったら何も意味がないんだ。
失恋によって自殺した物を阿保だと言い切ることが僕にはできないということである
失恋によって、自殺を考える人は阿呆なのか
難しい言葉を獲得すると妙に賢くなった気分になる。そして僕はあらゆる知識人だとか偉人だとか、あるいは僕が好きな学者達と背比べなんてしてしまうほどの阿呆である。 五年前の夏。僕は図書館で「虚栄心」という言葉を発見した。 [僕は普段、虚栄心だとかいうものの為に何かいやらしい事をしていうるのだな。そのいやらしさから好感度を失っているのかもしれない。よし、やめよう。] なんて思った。 しかし、僕は後にいやらしくない、潔白な青年であることを宣伝する、なんら変わらないただの少年でしかなか
虚無感…
昔のインテリが書いた本を読むのが好きだった。時折使われるお洒落な言い回しだとか、現代批判をしていて格好が良かった。 でも、今になってそういう文を読むとなんだかイライラする。インテリには反省がない。都合の良い部分だけを切り取っている。感情があっても、心だとかそういう非学問的な精神が全くない。 そりゃそうだ。学問の方法を取る方が簡単だから。でも学問的見解ってのは、ある一つの解釈でしかないだろう。ある一つの観念だろう。 私はもう私の中にしかないのだろうと、つくづく思う。
現代人を批判する人がもっとも現代人らしい。 いつの時代だってそうなんだろう。
電車で色々な人が彼の足組みを避けて歩いている。 彼は自分のその大胆な足組みが迷惑になっていることに気がついていないのだ。僕はそれを見ていて妙に腹が立った。 僕は彼の足組みになんら神経がないことに苛立っているのでなく、そこまでして格好つけていながら全く格好良くないことに腹が立ったのだ。 もっと便利に言えば、僕は彼の陶酔を黙って見ていなくてはいけない状況に不快感が生まれたのだ。 彼の足組みも僕の精神も、別に大したことじゃない。
例えば、人間とはこうあるべきだ。だから、こういうことはしない方がいい。こういうことはした方がいい。という大人がいたとする。 彼らはそれらの表現が単に彼らの願望であることを無視している気がする。 教授が独自の絵画論でゴッホを否定していた。そして別の芸術家を持ち出していかに彼が偉大で知的で、才能に満ち溢れていたかを語っていた。 ゴッホ、大好きな僕はあの話が終始退屈だったが、問題は教授がその芸術家について詳しいことと、教授の描く絵がどれほど、偉大かということである。
大学で卒論の中間発表をした。他の同期は、新鮮な質問が学生や教授達から投げかけられ、それに対する応答もどれも新鮮なものだった。 そしてルーレットで負け続きな僕の出番は最後だった。 僕は教育現場や家庭内で、非常に抽象的な言語や概念が乱用されていて、それらの言語に使用の限界の線引きを引くのが本研究の目的であると言った。 好きな教授は僕の発表を終始笑顔で笑いながら愉快に聴いてくれた。僕は十分だった。 でも、誰も何も質問してくれなかった。 これに傷ついた僕について僕
数ヶ月前に、失恋して、それがまだ気になる。昨日のことのように思う。でも、時が経てば経つほど、彼女が戻らない気がする。 これは執着なのか。右も左もわからない。 友人が励ましてくれる。大学で飲み物を買ってくれる。一緒に酒を飲んでくれる。海にも行ったし、暗いトンネルにも連れて行ってくれた。
あんまり、この言葉の意味がわからない。いや、こういう言葉を使う場面や使われる人の特徴だとかはなんなく経験でわかる。でも本当に詳しい意味はまだわからない。 この言葉を、使う人達に是非聞きたい。その言葉の意味を教えてくださいと。 この言葉を使う人達には、ナルシズムも承認欲求だとかもないのか。そういうことから卒業した者たちなのか。 いや、この言葉を使っている人達は、実際その言葉で批判することで自身の問題点を閉ざしているだけに過ぎないだろう。 いい例がこの僕である。
血液型で性格を判断するなら、 世の中には4タイプの人間しかいないじゃないですか。
先日、私は人間不信だよ、と言う失恋した女の子と話していた。彼女は大学で、真面目に講義を受けていて、研究発表の内容も美しいものだった。 だから僕は彼女の人間不信という言葉には、妙に深刻さを感じた。 駅まで歩いて、彼女は反対の方向に向かう電車に乗った。 この時、彼女は電車の運転手を信じて電車に乗った。あるいは隣に座っていたおじさんが彼女に危害を加えないということを信じて彼女は席に座った。 ここで、人間不信という言葉が嘘になったことが言える。 いや、信じる温度の問題
Instagramでは、色々な学生が、貴重な瞬間をカメラに収めている。 食事に行って乾杯をするときも、彼らはガラス同士の鳴る音を聞いているのでなく、画面の中で響く賑やかな声を聞いてみているだけだ。 こんなものを食べたと言って、食べ物を投稿するが、どう見ても食べ物を共有したいという考えからきたものでないことは明白だ。 映画もドラマもSNSも、人の退屈な部分ばかりを剥ぎ取った理想の像をそこにただ置いているだけだ。 そのフェイクをそこに屹立し、巨大な空想を作っている。