Instagramでは、色々な学生が、貴重な瞬間をカメラに収めている。
 食事に行って乾杯をするときも、彼らはガラス同士の鳴る音を聞いているのでなく、画面の中で響く賑やかな声を聞いてみているだけだ。

 こんなものを食べたと言って、食べ物を投稿するが、どう見ても食べ物を共有したいという考えからきたものでないことは明白だ。

 映画もドラマもSNSも、人の退屈な部分ばかりを剥ぎ取った理想の像をそこにただ置いているだけだ。
 そのフェイクをそこに屹立し、巨大な空想を作っている。それが現実だとしても、それによって達成された現実は現実じゃない。
 そうなると、空間的、倫理的な歪みが生じるのではないのか。

 いや、今僕はこうしてまた直線的に考えている。悪い癖だ。それにしても、パチンコに行っている大人と、SNSに精神を掛けている若者。これには一体どんな違いがあるのだろう。

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