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賑わう街の記憶——鉄道の開通とノンフィルム資料から見る米子の映画館①

2023年8月1日(火)~8月30日(水)にかけて、米子市立図書館にて開催した展覧会見る場所を見る2+の「賑わう街の記憶——鉄道の開通とノンフィルム資料から見る米子の映画館」の解説文(会場にて希望者に限定配布)を掲載します。

2023年1月から2月にかけて開催した「見る場所を見る2」の米子巡回展という枠組みでしたが、「米子」という街の調査を行う中で、鉄道の開通街の発展に大きな影響を与えていたことが浮かび上がります。そこで、企画立案と解説文執筆を新たに行い、映画館鉄道に関した展覧会の実現に至りました。新企画ということで、Claraさんの新たなイラストも3点追加。会期も1ヶ月ということで、非常に充実した展覧会になったのではないかと思います。

8月11日(金・祝)には、会場の米子市立図書館でギャラリートークを実施しました。本展出品作家のClaraさんと、米子シネマクラブの会長として米子・境港の映画文化の発展に尽力してきた吉田明広さんに、展覧会の感想や鳥取での映画の思い出についてお話を伺いました。当日のレポートも記録していただいておりますので、こちらも併せてご覧ください!


映画興行と鉄道の関係

新しくなった米子駅とがいなロード。2023年7月31日撮影

2023(令和5)年7月29日にJR米子駅の南北をつなぐ「がいなロード」が開通しました。新駅舎駅ビルも同日オープンすることになり、米子駅は新しく生まれ変わります。顧みれば、山陰地方における初めての鉄道として山陰本線(境-米子-御来屋間)が開通してから、今年で121年目を迎えました。江戸時代から商人の街であった米子は、交通網の発達によってさらに活気溢れる街になっていきます。また、鉄道の影響を受けて、朝日町角盤町といった米子駅周辺に数多くの映画館が誕生しました。当時の大衆娯楽であった映画は、米子でも愛される文化として定着していきます。

山陰本線の開通に関する略図

本展覧会では、米子における映画館と鉄道の歴史を併せて考え、交通網の発展が映画興行に与えた影響や映画受容の変化を明らかにします。米子周辺にかつてあった映画館をイラストで再現したClaraさんの作品や、映画館プログラムなどノンフィルム資料の展示を通して、いつの時代でも賑わう米子の街を想像していただければ幸いです。

朝日座×山陰本線

現在の米子市朝日町にかつて存在した朝日座は、1902(明治35)年に境港から御来屋までを結ぶ鉄道が開通する以前に、芝居小屋として1888(明治21)年に開業しました。1907(明治40)年3月24日には福島常蔵による慈善活動写真大会が行われていた記録が残っており、1950年代初頭には常設映画館に移行していきます。1976(昭和51)年の火災で焼失するまで、演劇映画を通して、米子の文化と町の発展に大きく貢献しました。

1915(大正4)年以降の朝日座。畳の観客席が市民に親しまれていた。
松尾陽介『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 米子』(国書刊行会、2020年)より

長い歴史のある朝日座は、開館当初から米子の発展を見据えていたと考えることができます。亀尾八洲雄『朝日座残照』(米子市史編纂委員会、2006年)によれば、朝日座の開館と経営に深く関わった野沢中質氏は、朝日町の繁栄も考慮して周辺に十数軒の借家を建設した後に、朝日座を開きました。当時の朝日町周辺は繁華街と呼ぶには程遠い場所でしたが、出雲市から京都を結ぶ山陰本線の全通を記念した全国特産品博覧会をきっかけとして賑わうことになります。この展覧会は、1912(明治45)年5月10日から1か月の間、米子高等女学校(現:ふれあいの里)を会場にして開催されました。鉄道の開通を契機に、京阪神から販路の拡大を望んだ商工業者が米子に集い、全国から寄せられた総出品点数は33万点、会期中の来場者は30万人以上に上りました。また、この博覧会会期中に開催された山陰青年大会の会場として朝日座が使用され、博覧会名誉総裁を務めた大隈重信の演説には約2000名の聴衆が集まったとされています。

『朝日座残照』には、この博覧会以前にも鉄道と朝日座が密接な関係にあったと考えられる記述があります。壮士節で名を馳せた川上音二郎・貞奴の一行が1911(明治44)年8月末に朝日座公演を行った際に、国内鉄道の運営・監督を担当する鉄道院が公演に全面協力することを決定。各地で団体募集を行って観客・団体客の旅客運賃を2割引きするのに加えて、公演終了の午後11時30分に合わせて各方面行きの臨時列車を午前0時30分に運行しました。

1910年代から20年代にかけて、朝日町と隣接する角盤町一帯には、数多くの映画館が誕生します。1916(大正5)年には角盤町に米子館、1923(大正12)年の朝日町に米子キネマ館、1926(大正15)年には角盤町に山陰座(山陰劇場)が新設されました。朝日町と角盤町に映画館や劇場が密集することになりますが、同時期の交通網の発展によって、主要な交通手段が船舶から鉄道へ変化したことに伴い、米子の繁華街は米子港周辺の灘町・立町から、米子駅を主体とする道笑町や法勝寺町に移りました。当時の人は、境港から米子に向かう場合は後藤駅で下車して角盤町通りを経由、鳥取から米子に向かう場合は米子駅で降りて道笑町と本町通りを経て朝日町に向かっていたようです。映画館と商店街の相乗効果で、米子はさらに活気ある街になりました。人の流れを生んでいた米子駅と後藤駅の中間に位置した朝日町と角盤町は、米子の映画文化を形成するバイパス的な役割を担っていた重要な場所と言えるでしょう。

1927(昭和2)年の米子市の略図。境港方面から米子へ向かった場合。
『日本海新聞』2005(平成17)年7月24日掲載の地図(一部、改変)より
1927年の米子市の略図。鳥取方面から米子へ向かった場合。
『日本海新聞』2005年7月24日掲載の地図(一部、改変)より


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