教養ある全ての人へ

作品の鑑賞の仕方について

他人の感想否定論者

絵画、音楽、文学、映画、漫画、アニメ、何か作品を鑑賞した際の解釈で争いが起こることは少なくない。それぞれに受け止め方が違い、どんな感想も個人の勝手である。にもかかわらず、「この作品で作者が言いたいことはそうではない」などとわざわざ否定する人がいる。百歩譲ってその人の解釈が優れていたとしても、他人の解釈を否定する必要はない。センター試験の国語だったら本文の内容から答えが一つに導かれる必要があるが、なんでもないただの感想に優れているもへったくれもない。世の中に存在する作品の作者全員がただ一つの解釈を与えるために創作しているわけではない。たとえ作者が意図した部分があったとして、それ以外のところに感銘を受けても何ら問題ないだろう。芸術は心を動かされることに意味がある、と思う。一つの本を読んで感動したと言っている人がみんな同じページの同じ文で感動しなければならない理由はない。重要なのは心が動かされたかどうかであり、どこで心が動こうが個人の勝手である。音楽なら、サビが好きな人もいればイントロに衝撃を受ける人もいるだろう。「それは違う」ではなくて、「私はこう感じた」「私はこう思った」とだけ伝えれば十分である。そうすればその感想を見た別の人が新たな感想を持つかもしれない。わざわざ他人の感想を否定的に批評してから自分の感想を言う必要はない。

答えがたった一つであって欲しい人たち

問いがただ一つの解答に収束するよう読み取るのは大学入試までで終わり。大学からは自由な発想で新たな解釈を生み出し、その妥当性を議論しあうだけ。そこに完全な否定はほとんど入らない。誰も考えたこともない、誰も知りえない研究について話し合うので当然である。他人の意見を聞いて、「その解釈もありだが、こう解釈した方がより筋が通る」という意見を述べることはできても、完全否定はできない。完全に否定できるということはそれが答えではないという証明が必要になる。良くて「絶対にないとは言い切れないが確率は低いよね」というところだろう。何となく解が一つだけでバシッと決まっていた方が気持ちいいだけで、キレイに解ける問題なんて社会では限られている。むしろ解が極力絞られるように、自分で問いを加工する技術こそ求められる。抽象的な課題を具体的で細かい範囲に落とし込んでいくことで課題解決の糸口が見えてくる場合もある。例えば、「この商品が売れるにはどうしたらよいか」という問いにバシッと決まる一つの解などないだろう。「実店舗ではなくオンライン販売で」、「SNS広告を使って」、「期間を限定して」、「サービスの観点から」などの言葉を補って問いの抽象度を下げて具体性を帯びさせることで、いくらか答えが見つかるかもしれない。全くわからないことをわかるようにするための努力(抽象から具体への落とし込み)は、真剣にやったことがある人とない人ではっきり差が出る。どれだけわからないことでも、現実問題として落とし所を見つける必要が出てくる。たった一つの答えだけが欲しい人たちは答えの出ないものに手をつけようとしない。泥臭く議論を続けていくことでしか答えが得られないのに完全否定から入ってしまう人は一体どうやって答えを探るつもりなのだろうか。

考えやイメージは言葉にした瞬間から自分のものではなくなる

中原中也の『芸術論覚え書』において、名辞が早く脳裏に浮かぶのは不幸だと言っている。名辞というのは言語に表現された概念のこと。例えば「手」を見たときに「手」という名辞を口にする前に感じている手が深く感じられればよい、というもの。何かものを見たり聞いたりしたときの感動というのはその人の中にただ一つしかない。そしてその感動によって生じるものは、感情やイメージ、表現が困難な「何か」である。その瞬間で感じた衝撃を表現する方法として言葉や絵や音楽がある。しかしながら、文字や絵など手段を用いて表現された「何か」は意味や解釈が限定または拡大されてしまう。それは言葉や絵などを受け取る側の存在がある限り避けられない。作者が感じたその「何か」は作者唯一のものだったのに、文字によって表現した瞬間から唯一ではなくなる。受け取り手の解釈一つでいかようにも捉えることができるからである。例えば、先ほどの「手」というのも、作者が思っている「手」と読者が読み取った「手」は必ずしもイコールではない。手と言われれば色んな手を思い浮かべることができる一方で、手と言われれば、手しか思い浮かべることができない。作者が思い浮かべていた「何か」は「手」と表現するのが一番近かっただけであって、一般的に思い浮かべられる「手」とは違うかもしれない。表現として表された文字だけを追って、ここにこう書いてあるからこの作者が言いたいのはコレだ、などと簡単に決めつけることはできない。それは表現された作品を見て感動した我々に発生した新たな「何か」である。とはいうものの鑑賞する側は表現されたものを追うしかないのも事実である。表された文字に「本当はそれを表したいわけではないのかもよ」と言われたところで「じゃあ何を見ればいいんだ」と逆ギレしたくもなる。簡単にはいかないということをあらかじめ理解しておく必要がある。

「わからない」と「おもしろくない」をイコールにして逃げてはいけない

お笑い芸人、又吉直樹の『火花』の文庫版ではあとがきのような形で「芥川賞受賞記念エッセイ」が掲載されている。その中でも作品との向き合い方について又吉さん独自の解釈が書かれている。芥川龍之介の作品をいくつか引用しながら、芥川龍之介に手紙を出すという体で書かれている。

芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。(侏儒の言葉)
「わからない」と「おもしろくない」を混合して、作品の前から逃亡するのは止めました。
ただし、眼に見えない作品を前にして、それすら自分の想像力を駆使し無理やり意義を持たすという行為は、作品の存在を無視しているに等しく、鑑賞側の独り善がりに陥ってしまう危険を感じてもいます。極端すぎるのだとは思いますが、やはりまだ程度が定まりません。

とても素直で真剣な姿勢だと感じた。作品と向き合う姿勢を見習いたい人間の一人だと思う。自分が子供の頃は大人が面白いと思うものが全く理解できなかった。まだ知識も経験も不足していたこと、そこまで頭も良くなかったことが原因だと思う。そんな大人たちが楽しむものを見ては「つまらない」「おもしろくない」と思っていた。あの頃は完璧に「わからない」と「おもしろくない」を混合していた。自分の思う「おもしろくない」は「わからない」だけだったんだなと段々気づくようになった。ただ、わかろうとしているのにわからない作品に出会うこともある。この時のもやもやが嫌で、難しそうな作品は「どうせわかろうとしてももやもやするだけ」と敵前逃亡してしまう。作品は時に鑑賞する側に教養を求めてくることもあるから厄介である。この表現技法を知っていれば、この歴史的背景を知っていれば、もっと理解が深まったのに、といった感じ。苦労して理解できた作品の面白さは異常であるが、その感動を共有できる人の数も限られてしまう。逆に簡単に理解できてしまう作品についてはそれ以上の解釈を求めようとせず、表面だけを見て理解した気になってしまうこともある。作品を生み出す側、鑑賞する側、お互いの努力で感動は生まれるのかもしれない。「芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である」とはまさにその通りだと思う。

適当に、感じるままに

イギリスのロックバンド、オアシスのノエルはある曲について「歌詞に意味なんてねーよ」と語っていたらしい。音楽を聴く時、歌詞を重視する人もいる。どういう思いで、どういったことを歌った曲なのか。ある特定のフレーズに非常に感銘を受けたなどさまざまな感想が出てくる。しかし作曲した側はそれら全ての音楽に細かく意味づけしているわけではないのだろう。理性で考えて論理的に生み出した言葉だけを並べているなら意味づけはできるが、感性に任せて感情的に作った曲の歌詞に事細かな意味などいらないのかもしれない。全部をしらみつぶしに解き明かしていくのも野暮というものだろう。

夏目漱石の草枕にも芸術論的な話が出てくるが、中でも小説を適当に読むくだりが面白い。

「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵になってしまうです」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」

ただ書いてあることを書いてある通りに読む。そこに細かいツッコミをやたらと入れる必要などない。そんなことは探偵のやることだと。世の中には探偵が多すぎる。歌詞の意味は何なのか、小説の意味は何なのか、探偵や刑事のように追求することに趣はない。そして探偵である人ほど他人の感想に批評を下したくなるのだろう。真実はたった一つでありたいから。推理小説ならそういう読み方もありかと思うが、それは内容に対しての話であって作品そのものの鑑賞という点においては別だと思う。小説内で起きた事件の時系列やアリバイ、トリックを事細かに、それこそ探偵のように追求するのは構わない。でも「よくこんなの思いつくなあ」と作品そのものに対する賞賛にロジックはいらない。草枕のようにもっと適当に読んでみたらいい。適当で感じるままに、非人情に。

作品の枠内に留まらない

外山滋比古著の「思考の整理学」にも似たような話が出てきていた。これに関しては別でnote記事にしているので、そちらも参考にしていただきたい。

簡単に述べると、読んだ本の中という枠だけに囚われることのない自由な解釈を展開すべきだという話。一部引用する。

拡散的思考、つまり、誤解をおそれず、タンジェントの方向に脱出しようとするエネルギーによって生み出される思考である

本を読むにしても、これまでは正解をひとつきめて、それに到達するのを目標とした。その場合、作者、筆者の意図というのを絶対的とすることで、容易に正解をつくりあげられる。それに向かって行われるのが収斂的読書である。
それに比して、自分の新しい解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、著者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。収斂派からは、誤読、誤解だと非難される。しかし、読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。

読んだ本文の中だけで解釈を仕上げ、枠内に収まる感想こそが収斂的読書だろう。そうではなく、その作品を通じて自分の中に起こった変化をもとに自由な発想で創り出すのが拡散的読書である。本文の内容から逸脱しているから不正解、という国語教育を受けてきた人間からすると難しい気がする。作品を理性的に理解するように努めるのももちろん重要だとは思うが、むしろその作品と出会ったことで新しい「何か」を生み出すようなことも必要ではないだろうか。これを恐れずに実行できるようになりたい。この時、阻害要因となるのが冒頭の「感想否定論者」だろう。おかしな解釈をした、と間違いを指摘する探偵さながらで否を追求されれば誰でも自由な発想を持ちたくなくなる。色んな感動の仕方を受け入れて、色んな解釈を発展させ、それを許容できる社会でこそ芸術は発展していくのではないだろうか。鑑賞者側にも努力がいるというのは何も教養を身につけるだけに留まらない。鑑賞者間で自由な発想を許容できる土壌を作り上げることも重要だと思う。拡散的読書では、時に著者の意図と衝突することも厭わない。自由に創作された作品に対して自由に発想していくならそういう場合もあるだろう。誰かの自由な感想が他の人の自由な発想に影響を与えれば、さらに鑑賞の質は向上していく。誤解や誤読という言葉で片付けてしまう人たちにも許容という姿勢をとっていただき芸術を創り上げる協力をしてもらいたい。まだまだ鑑賞という行為はおもしろくなっていくだろうから。

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