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短編小説|「「母さん」」

スマホが鳴った。

画面を見ると、母さん、という文字が浮かんでいる。まったく仕事中は電話をしてくるなといつも言っているのに。
おれは、やれやれといった表情を3割増しで表すと、もったいぶって電話に出た。

「もしもし?」
「ああ、わたしだよ。母さんだよ」
「知ってるよ。で、何?」
「それが大変なんだよ」

第一声から、明らかに慌てている様子が伝わってくる。しかし、今は仕事中だ。おれは声を強めてこう言ってやった。


「母さんも大変かもしれないけど、おれだって仕事中は大変なんだよ。帰ったらちゃんと聞くから、それでいいだろ?」

どうせまた、隣の山本さんの悪口に違いない。

おれは詳しいことも聞かずに、さっさと電話を切ろうとした。しかし、その瞬間を待ちわびていたかのように、今度は会社の電話が鳴った。おれはスマホを遠ざけて、受話器を近づけた。

「はい、小林商事の森です」
「ああ、わたしだよ。母さんだよ」

「……ちょっと母さん、何も会社の電話にかけ直さなくてもいいじゃないか」
「それが大変なんだよ」

再び慌てた様子で、さも初めて電話しますという雰囲気をかもし出してくる。やるじゃないか母さん。しかし、今は仕事中なんだ。おれはこれでもかとため息を含めて言った。

「母さん、さっきも言ったけど今は仕事中なんだよ。山本さんの話なら───」

言いかけたところで、スマホから声が聞こえてきた。

「ちょっと誰と話しているの。こっちは大変なのよ」

間違いようもなく、母さんの声だった。おや、スマホを切って会社の電話にかけ直したんじゃないのか。

「ちょっと聞いてるの? 本当に大変なのよ。わたしが増えちゃったのよ」

わたしが増えたとはどういうことだろうか。しかし、冷静に考える暇も無く、今度は受話器から声がした。

「ちょっと誰と話しているの。こっちは大変なのよ」

こっちも間違いなく、母さんの声だ。

「ちょっと聞いてるの? 本当に大変なのよ。わたしが増えちゃったのよ」

全く同じことを言っている。これはどういうことだろう。電波が何かしらの影響を受け、スマホと会社の電話両方にかかってしまったのかもしれない。不思議なことがあるもんだ。「わたしが増えちゃった」という言葉が聞こえたが、これも何かの言い間違いだろう。そういうことにして、おれはスマホと受話器を顔に寄せた。

「母さん、ちょっと落ち着いてよ。今どこから電話してるの?」
「家よ」「外よ」

左右の鼓膜に、別々の言葉が突き刺さる。なるほど、二分割にされた電波が何かしらの影響を受けて違う言葉に変換されている。そうに違いない。

「なるほど、家と外から電話しているんだね。ところで、わたしが増えちゃったとはどういう意味だい。何かの言い間違いだとは思うんだけど」
「「言い間違いじゃないわよ、本当にわたしが増えちゃったのよ」」
「「さっきテレビを観てたらね、突然全身が震えだして、気がつくとわたしがもうひとり隣に座っていたのよ」」
「「わたしったらびっくりしちゃって」」
「固まっちゃったのよ」「外に飛び出しちゃったのよ」
「「で、とにかくあんたに話を聞いてもらおうと電話したのよ」」

声が重複して聞こえる。頭の真ん中に母さんの声が響く。しかし、左右の言葉は完全には一致しておらず、所々違っていた。まるで本当に、母さんが増えてしまったようだ。おそらく、電波の影響だろう。

「分かったよ。とりあえず分かった。じゃあとりあえずもとりあえず、今からそっちに向かうよ。今どこにいるんだっけ」
「家の中よ」「家の外よ」
「うん、分かった分かった。とりあえず行くから待ってて」

とりあえず家に行こう。母さんは何かしらの影響を受けて、何かしらの混乱状態になっているに違いない。そうに違いないのだ。

おれは受話器を戻し、スマホの通話を切った。壁にかかったホワイトボードに「外出」と書き込み、廊下に出ようとしたところで呼び止められた。

「森さん、受付にお客様が来ているそうです」
「ああ。分かりました」

今日はアポなんてあったかな。そんなことを考えながら受付に行くと、遠目から見ても慌てている様子の母さんが立っていた。母さんはおれに気づくと言った。

「大変なのよ。わたしが増えちゃったのよ」

ビルの入口から、次々と母さんがなだれ込んで来る。

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