劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる 感想会
このnoteには劇場版及びテレビ版のネタバレがあります。未視聴の方はご注意ください。
■回想
前回は公開1.5週間後とかに行ったんですけど、楽しみすぎて公開二日目に行ってきました。
いや~~~~~~よかったっすわ。
そこまで大きくない劇場でしたが最前列とカップルシート以外はほぼ満員でした。公開初日とはいえ結構大きい劇場でガチ満員に近かったゆるキャン△の異常さをかみしめながら(私にはゆるキャンを事前に知ってたような友達はいないので、キャンプブーム火付け役と言われようが、キャンプに誘われるような人生も送ってなかったのもあってぴんと来てなかった)それでも、前編は6割ぐらいだったのでせいぜい7割ぐらいかなとか思ってた自分が甘かったです。ボクの周りにファンがいないだけですごくゆうめい。
■感想
箇条書きで思いついた順番書きなぐりネタバレありだぜ。
駅看板
冒頭「生存戦略⇔存在証明」の駅看板いいな。なんかすごくいい。
十年の流れというか、幾原邦彦がさらざんまいで変わったよね、っていうTwitterランドのファンの間の空気感?みたいなものが詰まっていたというか。語るほど私は知らないので口は慎みますが、なんかすごくよくて、印象残ってる。
ねぇかみさま ぼくをぜんぶつかって
僕の存在証明opかぁ〜!!!!
ここ2ヶ月聞き続けた曲がこうなるとは思ってなかった。
このタイミング(1期と2期のほぼ間)で挟まるのがある種ピッタリで、登場人物たちがもう一度「あの列車に乗る」のがある意味劇場版で、天才じゃん……。歌詞の一つひとつは不安なのに、それが最善だと信じた行動への希望に近いなにか、みたいな音楽になってるのすごい。お葬式の気分になりかねないのに、期待、と言うと違うかもしれないけど、テンション爆アゲソング的な使われ方になったのすごい。
なのに、エンディングでも流れる時はその前の空気感を崩さないの天才か?
テレビ版opでは蠍の火に焼かれる運命だった苹果ちゃんが蠍の火から出て来る。テレビ版で手を取れなかった冠葉と晶馬が手を取る。(あと、いろいろ気を取られてたけど、同じ方向向かって三人で走っているという感想でマジかよ、なんで記憶残ってないの?とはなった)
天才すぎる。op永遠みたい。円盤はよ。
回想 時籠ゆり
多分ここら辺、テレビ版見れてなくて文字ベースでしか見てないからって言うのもあるんだろうけど、劇場の音響でゆりパパにキレイなものにしてもらうのやばかった。音響で骨身に染みてた。
荻窪の味
改めて見る高倉父と思われるあれ、やべえな。既存シーンのはずだけど、うっわ、マジかよ、きっつ。となる。大画面で見るもんじゃない。
冠葉…
罪も罰も分け合って、冠葉がいまだになぜ透明になるのかがよくわかってないけど、「透明になっているんだ」ということはわかったのは大きな進歩かもしれない。初見時何もわからなかったので…。
苹果ちゃん!!!!
返事できたね!!!!ある意味一番運命乗り換えてる。
「それがどうした!」
全てを肯定して、肯定した上で前を向く言葉だね、久慈……。
「おにいちゃんだ!」
「お兄ちゃん」という「何者」かになったの、擬似家族だからでもあるけれど、それに「何者かになれる」という希望。愛して、愛されて。それを伝えて。
透明にならない限りは誰かが見つけてくれる。
多蕗とゆりが最終回でもそれは遠回しに言ってるんだけど、真っ直ぐに伝えられるのは2020年代だなー。
林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美
あのメモ(大スキだよ お兄ちゃんより)は陽毬の「ほんとうのさいわひ」のために「どんなことでもした」双子のご褒美。
真利先生いわく、チリひとつ残さずこの世から消える運命となった双子に桃果から与えられたご褒美。
繰り返すという罰
自分の思考のロードマップ的に残しておきたいけど、明後日の方向に進んだので……という前置きで少しだけ(といっても長いが)
昔大学の哲学で火垂るの墓の原作者、野坂昭如が同じように「戦争で妹を亡くした」という作品をいくつか書いている。それは野坂にとって贖罪であった。っていうのやったのをよく覚えていて。
ただ繰り返し体験するという罰。
十年前という言葉を無視して考えたのが、以下。
箱の中に閉じ込められた他人だった時の双子。
深層イメージみたいな箱の双子の描写、人体実験かわかんないけど、あれについて突拍子がないけどね。
パンフに「輪廻」という言葉があって、輪廻っていうと何となくツバサ(CLAMP)を思い出して…(輪廻という言葉ではなかった気はするけど)の考えなんだけど、運命の列車の後にショタとして劇場版に現れた二人は箱の中の二人と同一時間軸というか……。
ルート1がテレビ版のみで運命の列車→箱
ルート2が運命の列車→空の孔
子供の頃の他人だった双子が「いつの間にか仲良くなってた」に繋げて、箱の外に出た双子は10年前に目が覚める。愛も罰も分け合いながら、10年を繰り返して行くのかもしれない。とか……とここまで考えて考えが破綻して、いろいろつながらなくなった。ので破棄したんですが。(ここまで思考のロードマップ)
ただ、これまでの10年(11年)は視聴者共々、テレビ版を新規も既存も繰り返すしかなくて。(後編視聴まではどう新規映像が入るか分からない状態で)
眞悧先生の「君たちは決して呪いから出ることはできない。僕がそうであるように、箱の中の君たちが何かを得ることなどない。この世界に何も残さず、ただ消えるんだ。チリ一つ残せないのさ。君たちが絶対に幸せになんかなれない」という呪い。「列車はまた来る」という呪い。
改めて、セリフ引用するのに最終回だけアマプラで流したけど、本当にあの陽毬のベッドの幕間だったんだ感すごくて……すごく親切なつくりになっていて、でも「だからどうした」っていうさらざんまいが入ってて、すごいな。本節では閑話休題。
林檎(ご褒美)がわかりにくかったテレビ版の眞悧の呪いによるループ、運命の列車は寂しい部分のある物語であるような印象も持ってたんだけど、そうじゃないんだ。愛のハナシなんだ。ってことが前面に出てた。繰り返すのは罰じゃないんだよ。
僕たちの愛も僕たちの罰もみんな分け合うってことなんだよ。
「どこへ行きたい?」「そうだなぁ…」
前編で引用した銀河鉄道の夜を考察する少年たちを冒頭に持ってくる、そして水族館で目覚めた子供双子「どこへ行きたい?」「そうだなぁ…」からの高倉家前を銀河鉄道の夜を考察しながら通る。持ってくるところ天才すぎる。あと、どこへ行きたい?の冠葉の言い方のお兄ちゃんが百点だと前々から思ってたけど劇場音響で聞くそれ、120点だった。
■愛のハナシなんだよ
見終わったあとに劇場のロビーで「理解が追いつかない」と言ってたお姉さん方にも愛のハナシなんだよ。なんで分かんないのかなぁ~って呟きながら通りたい人生だったわ。100理解してなくても言える言葉便利すぎる。一番好きなセリフかもしれない。
わかりやすい新規カット(空の孔分室)が双子へのご褒美の話であると同時に、作り手からファンへのご褒美でもあったわけで。
新規も、入りやすい愛のハナシになっている気がする。ファン感謝!なところがないわけじゃないからテレビ版から入るのとどっちがいいかは人それぞれだけど(ミリしら作品のファンへのありがとう映画を見ていたたまれなくなった経験があるので)
最後の子供双子は何?というテレビ版での問を懇切丁寧に書いた感じの上でのご褒美映画。心には引っかかっててもこの十年間(個人的にちゃんと触れてから約7年)、ずっと「愛してる」を伝えてきたわけじゃないのに、ご褒美をもらってたなぼたな気分もある。だからこの感想で少しでも「愛してる」が伝わればいいな。
見つけてもらう浜辺で子供たちが「愛してる」を伝えて、「きっと何者にもなれるお前たち」にしてくれる。
見つけてくれてありがとう。
ピンドラの余韻に浸りたいときにぴったりの動画で締めさせていただきます。
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