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傍で歩み続ける物語ー『にくをはぐ』に揺さぶられてー

『にくをはぐ』とそのSNSでの感想を通していくつかその人について思い出したことがある。

私には十数年の長い付き合いになる元の体が女性のトランスジェンダーの友人がいる。
普段はもう男性としか思えないのはここ最近の話。学生時代はよくいじめられていた。知っていて陰ながら庇ったこともあるし、知らないうちにいじめが起こっていたこともあった。

私自身良くも悪くもマイペースなうえに、自分自身も性別にさまよっていることもあって、男女の差ってそんなに大ごとなのかな?みたいな浮遊感を伴って生きてきた。「あなたはあなたで私は私で、性別とか関係なく尊敬する部分は尊敬するよ」みたいなそんな感じのことを良く口にしていた。勿論今でも口にしている。

当人からはその態度でいてくれてよかったとのちのち言われたのだが、私の態度の何が良くなかったのか両者の共通の友人Wにすごく怒られたことがある。

「トランスジェンダーってカミングアウトされて、変化している部分があるのにその部分を評価しないのっておかしいよ」

友人Wの言葉は評価じゃなかったかもしれない。とにかく変化していることを変化していることに合わせて男性として扱わない、態度を変えないお前はおかしいという話をされたのだ。カミングアウトの勇気を理解していないみたいなそんなことも言われた。
私も私でそれを言われて変化を受け入れられてない自分がいるのかすごくすごく悩んだ。当人の選択に最悪な反応をしているんじゃないかとか傷つけているんじゃないかとか。すぐに当人に聞けばよかったのに、あまりにも多方面から言われるから学生時代は口をつぐんでいて悩むばかりだった。私は良くないことをしているのかもしれないと。

それでも私はその人の元をはなれることはなかった。その人も私を拒絶することはなかった。

彼なのか彼女なのか私が悩まなかったと思うだろうかか?悩まなかったわけがない。
今だって正直ベースで言うなら理解しきれていないから、悩んでしまうこともある。SRSを受けているわけではないその身体を縛るものを解放していいかどうかその人は必ず確認してくれるけれど、ホルモン注射のおかげで顔はどうみても男性だから、毎回新鮮におっと驚いてしまう私もいる。おっって思う、心の波みたいな、ただそれだけはある。

それが分かるか分からないかで言えば分からないこともあるけれど、その人はその人なのだ。

目指したい姿も「男性になる」ことだけじゃなく、その先で生活していくためのことを考えているように私は感じるから、私はかっこいいなと思うし、だから私にできるのはかっこいいねということぐらい。

保守的なジェンダー観が本人の目指す姿に影響しないわけがない。二重の規範に苦しんでいるなと思うこともある。私がすこしでも女性の面影をその人に感じたらどうなるのだろうかとか考えることもある。

それから性的役割としての女性への違和感(gender)と性としての女(sex)が分けられていないとかは、多分トランスジェンダーを完全な外野から客観的に見ている(それが悪いとかではない)人の考えじゃないかなと私は思う。そんなに明確でいられるわけがないと思う。

分からないからそこに違和があるんじゃないのかな。分からないじゃダメなのかな?

私がしてきたような葛藤を、そこにそのまま持ってただ存在していたのが高藤というキャラクターだった。それでいいんだ。執拗に理解しようとしたり、考えを改めたりしなくていいのかとすごく安心したのだ、私は。

生理の血が付いた千秋のズボンを自分のズボンと取り換えた高藤に、遠い昔その人が駅でスカートを脱ぎ捨てるのを手伝った私のことを思い出した。それでいいのか分からなくてごめんねとそっかしか言えなかったあの日のこと。

少し感傷的になりすぎてしまったから、支離滅裂な部分もあるかもしれないが、ずっと近くで生きてきた人の物語もあるのだと誰かに知っていてほしかった。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。