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スマホを忘れるというススメ

日帰りで少し遠出をした。家族そろって出かけること自体はここ最近ないわけではなかったけれど、景色の綺麗なところに出かけた。

写真をとることが好きなのに、スマホを家に忘れた。気が付いたときにはああ、充電器にさしたままだなと思った。

現代の若者なのかというツッコミはすでに家族中から受けた。

私は時々自分でも困るほど大きな忘れものをしたり、落とし物をしたりする。定期とか財布とか。大都会の真ん中で毎度手元に戻ってくるので、毎回ありがたいと感じている。今回やらかしたのがそれがたまたまプライベートでのスマホ忘れだっただけなのだ。

友人と待ち合わせとかだと話は変わってくるが、最初から待ち合わせが出来ている以上自分がどうしても持っていなくてはならないシチュエーションというのは意外とない。

SNSは基本的に通知を切っていて、私のタイミングで確認しているところがあって、基本的にコミュニケーションよりも読み物という感覚の方が近い。それでも最初は考える材料がない、読み物がない、情報がない不安に少しだけかられていたが、現地に着くころにはわりとどうでも良くなっていた。移動中にどうしても話し相手が全員寝ている時は、本を読んだ。

カメラは欲しいとは思ったけれど、家族の記念写真は母のスマホで写真を撮って送ってしまえば良かった。どうしても撮りたい時だけ借りることにした。

メモ機能がないのが私の場合一番不便かもしれない。紙を持って歩くことの大事さも感じた。今回は母の筆記用具を借りたが、次回以降は小さなメモ帳でも持ち歩くようにしよう。

モバイルSuicaにはまだ切り替えていなかったので良かった。私の場合何かを忘れる危険性があるので一括にできないというのがなかなか難しい。今までの感覚だと物が少なくても何かは忘れる。導入にはまだ不安が残る。

知らない景色と私と家族。

そこにインターネットの余計な情報も、そこにいない人とのコミュニケーションも存在しないというのは、思っているよりも空間を異空間化させる。

感覚が目の前にあるものに集中するからか、いつもよりも良く見えるし、味が分かるし、記憶しようとする。

勿論日常的に撮っておけば覚えていられるという気持ちでカメラを使っているわけではないのだけれど、カメラという機能が存在しないのだから記憶するしかあるまいという気持ちにもなる。思い出の中にしか残せないのだから、もっと目の前に集中しようというふつふつとした欲みたいなものも感じた。秋のススキのふさふさとした躍動感とか流れていく水の透明なつめたさとか、私の中にぎゅっと残る。

久しぶりに弟とじっくり話す時間もあったし、眺める時間もとれた。

私の場合は完全なアクシデントからなのだけれど、スマホを置いて出かけてみるというのも不安定な秋を乗り切る一つの方法なのかもしれない。そんな休日の話。


グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。